阿多駅 (阿多〜加世田)



 南多夫施駅を出発した汽車は若干下り加減で水田の中を南下し、堀川支流の境川と岸元川の合流地点を左手にみてガーターで渡るとすぐに宮崎の台地を10m強上ってゆきます。
 上り詰めるといままでのパターンでいけば車窓は水田から一転して畑となるはずですが摩訶不思議、台地の上に河川はないのに整然と区画整理された本気モードの大規模水田が現われ、その真ん中を一直線に進んでゆきます。
 水田を維持するための大量の水は、阿多駅から直線で6.5km奥の万之瀬川上流の轟堰(現在の名称)より、1725(享保10年)年に開削を始め1728年に通水した御新田用水路(新田川)によって供給されています。
 枝分かれした最後の御新田用水路を跨ぐと阿多駅に到着です。


 伊集院駅からも枕崎駅からもちょうど11駅目が阿多駅です。駅数では半分来たこととなります。(距離では南多夫施駅から200mあまり阿多駅寄りの場所が、伊集院〜枕崎間 49.6kmの半分24.8kmで中間地点となります)

 踏切防護柵(踏切注意柵)の設置位置が「こりゃたまらん!」⇒大丈夫、意味が分からなくて普通です。

 

 「でたぁ〜!」


 踏切部分のみ残された「知覧線」への路。

 「こりゃたまらん!」を理解するまでに要した時間の長さと、この写真をみての興奮度合いの大きさは反比例します。
 ⇒しつこいですが、意味不明でも心配にはおよびません。興奮できなくとも正常です。

 「知覧線への路」とはいったものの、本線乗り入れの旅客列車は加世田を発着駅としており、伊集院方面との乗り入れはなかったようなので、正確な表現ではないかもしれません。

 3年前に車内から撮影しています。高い位置から見ると奥にもダルマ式転換機が確認でき、側線が二線あったことが分かります。

 構内に積み上げられているのは、知覧線撤去の際に片付けたバラストのようです。

 踏切手前にコンクリート橋と思われますが、御新田用水路が流れています。



 国土地理院より複製の許可を得て、知覧線廃止2年前の1963(昭和38)年撮影の空中写真を転載しました。

 分岐駅としてはコンパクトにまとまった駅です。(構内配線は想像で引いています “概ねこんな感じ”程度でご認識ください)
 本屋から一番遠い側線には有蓋貨車(たぶん)が5両とまっています。
 (因みに1974(昭和49)年の国土交通省の空中写真では両側線には雑多な貨客車が留置(放置?)されている様子がみれます)


 本線の島式ホームには(日置駅のような切妻屋根の)上屋が設置されていたようです。
 枕崎寄りには本屋との連絡通路が設けられ、本屋にかかる知覧線ホームと結ばれています。
 貨物ホームについては空中写真で見る限り知覧線ホームを含む伊集院寄りだったのではないかと想像しました。

 赤い点線の先、“”部の土地については「薩南中央鉄道」時代の機関庫跡地だったのではないかと想像します。
 理由は、
 @もともと知覧線は1927(昭和2)年から戦時陸運統制令により1943(昭和18)年に「南薩鉄道」に合併されるまでの16年間は、経営(資本?)を異にする「薩南中央鉄道」として阿多村に本社を構えて存在しており、人的・運輸管理面から阿多駅に機関庫や留置線などの保守整備施設を作ることが合理的だったのではないか。
 A第1期開通(阿多〜薩摩川辺)の際、レールなど資材の大半は南薩線を経由して搬入され工事は阿多側から進捗していったと思われること、また3年半後に薩摩川辺〜知覧までが開通した経緯より知覧駅に機関庫を設けていた可能性は少ないのではないか(くわえて知覧から先、頴娃村(石垣or頴娃)までの敷設が計画されており当時は知覧を終着駅とは考えていなかった)
 B阿多駅では、すでに開業していた南薩鉄道の片隅を間借りしていたと思われるので、駅構内に(加世田のような)機関庫を設けるスペースがなく、仕方なしに構内の外れに自前で敷地を確保したのではないか。
 C1943(昭和18)年に「南薩鉄道」に合併されてひとつの会社となれば隣接して二つの庫を持つ必要はなく加世田機関区に統一、阿多の機関庫は廃止。跡地は資材置き場などとして活用されてきたのではないか。
 D1947(昭和22)年の空中写真では田畑として利用されているようには見えない。
 E1974(昭和49)年の空中写真でも田畑として利用されているようには見えないうえに、知覧線からの撤去レールと思われる赤茶色い鋼材のようなものが駅構内と同様に確認できる。
 注、@〜Eについて確証はありません自身の想像です まったく見当違いかもしれません (念のため)


 貨物輸送だけを考えるのであれば、国鉄伊集院に向けて阿多で接続することは合理的だったかもしれません。
 しかし旅客は、大きく発展し店舗も充実して行政の拠点ともなった加世田への利用が多数あったと思われます。
 知覧線が阿多駅で方向転換せずに直接加世田に乗り入れれば、距離が短縮され、方向転換に要する時間および単線ゆえのダイヤ上の待機時間(乗り換え、接続時間)も改善され、バスに乗客を奪われることも少なく、もっと延命できたかもしれません。
 

 
 当然のことながら、敷設計画では加世田を起点としていたようですが、新鉄道によりヒト・モノの流れが変わってしまうことを加世田が嫌ったこと、南薩鉄道が仮に国営化された場合、加世田との駅間距離が2.3kmと短く、駅廃止になることを恐れた阿多が誘致したことにより、阿多駅が起点と決まったそうです。


 もしも、加世田を起点としていたならば、どのようなルートで敷設されたのでしょうか。

 仮想第1案は“
・・・・・”で結ぶラインです。本町地区の北側は駅とともに急速に発展した新興地で当時はすぐに田んぼと接していたようですので鉄道用地の確保はさほど難しくなかったと思われます、しかし村原地区は昔からの集落であり、相当の交渉努力と費用が必要だと思われたため、集落を巻いて引いてみました。仮想第2案は川畑地区を意識しています。しかしながら鉄橋を建設して3本の河川を渡らなければならず、相当の建設費を要しそうです。⇒(地図を見て自身が勝手に想像したことであり実際これらのルートで計画されていたかどうかは不明です)

 阿多に決定したもうひとつの理由として、用地確保の容易さ、建設費負担軽減があったかもしれません。




 同じくキハ300型車内から1980(昭和55)年3月撮影。



 知覧線から回収したバラストでかつての構内は埋めつくされ島式ホームも単式のようになっていました。

 相当過激な本線の道床。
 傍らには山積みのバラストのアンバランス。


 片流れ屋根のホーム上屋は駅舎倒壊後に新設されたものと思われます。骨格は「さつま湖」の防護柵と同じく古レールを利用して作られていました(たぶん)。阿多以外の日置・南吹上浜・加世田の上屋は最後まで木造でした。
 伊集院方の側面には既に破損していますが、風除けの波板が設置してあったようです。簡易ベンチの背面壁は張られています。



 半分埋もれた木造貨車が。


  知覧線跡。

 本線廃止より12年半後、この地を訪れた宮脇俊三氏はおそらくこのあたりから眺められたのだと思います。

「構内の南はずれには「阿多農協倉庫」の小さな札を軒下に打ちつけた木造の建物があり、それに沿って緩い上り勾配の路盤がある。知覧線跡だ。その東側には築堤があって、こちらは緩い下りで右へとカーブしている。紛れもなく加世田、枕崎方面への本線の路盤である。
 上りと下りに段差をつけながら左右に別れていく線路の跡。わかる人だけのための佳き眺めである。」
(JTBキャンブックス 鉄道廃線跡を歩くV 宮脇俊三編著)


 東側の本線築堤を絡めて写していないところが素人写真で申し訳ないのですが、D・Eで「佳き眺め」を補足して想像してみてください。



 活況期には1日に8〜9往復運行があり、中間駅の“薩摩川辺”で何回も列車交換がされた知覧線も、1961(昭和36)年10月1日の改正では旅客5往復が2往復にまで削減(※)され、1965(昭和40)年7月に白川〜田部田間での水害による路盤損傷により運転休止、同年11月に復旧することなく廃止となりました。

(※)
旅客列車は阿多駅を8時台と15時台に知覧に向けて、折り返しの加世田行きは10時台と17時台に阿多駅を通過、早朝に1往復貨物のスジが設定されていたようです


 追い討ちをかけるように、知覧線廃止3年後の1968(昭和43)年4月には駅員無配置、貨物・荷物扱いも廃止となり、さらに1年後の1969(昭和44)年8月22日には吹上浜に上陸した台風9号により駅舎が倒壊。

 晩年を写した右の写真からは、5本もの線路を擁し、貨物の入れ替えがあり、乗り換え客で賑わっていた頃があったことを想像することは困難です。


 

 
 加世田方から阿多駅を撮影しています。
 
 本線では90箇所の踏切があったそうです。
 そのうち警報機の付いたものはおおよそ20箇所前後だったと思います、大半は写真のような「ふみきりちゅうい」札に存在感がある第4種踏切です。

 道路の幅に比べて踏み板部分が極端に狭いのは、鉄道会社が改良費用を出し惜しんでいるのではなくて、わざと使いづらくして自動車を徐行させる、といった政策的なものなのでしょうね。(たぶん)


 Eのすぐ近く、加世田寄りの踏切です。
 これも踏み板部分は道幅の2/3くらいしかありません。

 軽自動車でギリギリ大丈夫でしょうが、もしあなたが“3”ナンバーでロケハン中だったとしたら、「行きますか?戻りますか?」


 無謀にも「行ってしまう」を選択した?

 片輪を踏み板に載せ、片輪は線路を踏んで徐行して・・・「ゴットン・ゴットン」・・・、後輪も無事レールを跨ぎ終え、無事通過できて“ホット”緊張を解いて、アクセルを踏み込もうとした瞬間。
 前方から芋を満載した地元農家の軽トラックが勢いよく下ってきました・・・。 さて、「軽に坂道をバックさせますか?あなたがバックしますか?」

 無謀にも「軽に坂道をバックさせる」を選択した?

 心優しい爺様はエンジンをふかしてバックしてくれました。
 しかし、カーブした坂道を登りきった先は、な・なんと、爺様の自宅庭先。
 道は庭と続く芋畑に消えていました。「はて、どちらさま、何の御用ですか」、と爺様。


 初めてのアプローチや「未開拓の場所で撮影」などと意気込んでいると、人様の庭先に乗り込んでしまうことは往々にしてあることです。効率よく気に入った撮影地を見つけるには自転車が最適です。駐車スペースも要らないし。⇒「自己紹介」、上田・蒲原・各「補足」のページ参照

  

 
 Fの踏切より加世田方を撮影しています。

 「松田」にある坂なので「松田ん坂」と呼ばれていたそうです。
 坂を下りきると水田の中を緩やかに左カーブして万之瀬川を渡り、加世田駅構内へと進入してゆきます。
 阿多駅と加世田駅の高低差が約13メートルですから、ほぼこの坂の垂直距離と思われます。


 鹿児島交通らしからぬ端正な軌道。
 枕木の角がきちんとついています。Bの写真と比べてみてください。
 線路も“へろへろ”としておらずジェットコースター並みの速度が出せそうです。
   


 薩摩半島の西岸を南下する南薩線は東シナ海へと注ぐ「神之川」、「大川」、「永吉川」、「小野川」、「伊作川」、「万之瀬川」、「花渡川」、および支流の「大田川」、「堀川」、「武田川」、「加世田川」、「中州川」などを次々と渡ってゆきます。鉄橋の多くは上路式のプレートガーターでしたが、無道床下路式も「加世田川」、「中州川」で見ることができました。
 しかし、薩摩半島東側の脊梁山脈に源を発し鹿児島県内で4番目の長さを誇る「万之瀬(まのせ)川」を渡る「万之瀬鉄橋」だけは写真のように“(下路式)直弦ポニー・プラットトラス”で架けられていました。
 (写真には写っていませんが左 (加世田方)に、もうひとつ橋脚があり、短い(15m程の)上路式プレートガーターも付いていました)

 このイギリス系橋梁は「筑豊本線、伊田線より移設」との情報もあります。
 ※(財)海洋架橋調査会発行 橋梁史年表

 明治20年代半ばに、石炭輸送のための基幹線として筑豊(直方)から積み出し港の若松までが敷設されると、筑豊地区に散在する炭鉱に向けて急速に鉄道網が形成されてゆきましたが、当時大きな架橋の設計・製造は海外に頼っており、この橋梁もそのひとつと思われます。
 伊田線は当初単線で敷設されていましたが、各炭鉱から貨物が流れ込む準幹線としての役割を担い、線路規格および保安設備も他線と比べて強化され、複線化も明治時代終盤におこなわれています。
 大型機関車による大量ピストン輸送路線の規格にそぐわなくなった橋梁は輸送量の少ない下級路線で再利用。その先が万之瀬川だった、ということかもしれません。


 Gの坂を下り、水田の中を左カーブし終わったあたり(Hの写真の右側から)加世田に向けて「万之瀬鉄橋」を写しています。 1980(昭和55)年3月撮影。

 トラス橋ではありますが、支間(橋梁を支持する支点間の距離)が短いためにトラス高(鉄橋の高さ)を高くする必要がなく(概ね高さと長さは1/10くらいの比率が標準)上部に上横構・対傾構を渡せないためにオープン構造となっています。(所謂ポニートラスです)

 
 伊集院を出発して以来、純和風の集落や田畑、林に馴染んでいた目から見ると、6階建てのマンションや『い』の字ロゴの池田製菓の工場(本社ビル?)が聳え立つ様は未来都市のように見えます。

 さあ、いよいよ南薩線の中心駅「加世田」に到着です。
   

 《追記》  阿多駅構内についての拙文で、確証はない旨を前提として薩南中央鉄道時代の機関庫の存在を想像しましたが、「RM LIBRARY 108 鹿児島交通南薩線-南薩鉄道顛末記(上)-」において「阿多(本社、車庫)」および「知覧の駅は -略- ホームは島式が1本だけで、ほかに機廻り線をかねた側線1本というシンプルなものだが、ここに簡単な気動車のねぐらがあり、蒸気機関車は阿多に機関庫が置かれていたがいずれにせよ小規模なものであった。」との記述があり、拙文@〜Eの信憑性はともかくとしても阿多での機関庫の存在は確かなこととなりました。書籍では場所を特定する記述はありませが、あらためて「?」部で間違いないのではないかと考えています。

2008/08/18公開