日置 (鹿児島交通線 廃線跡)


上日置駅から日置駅直前まで下り一辺倒です。
この区間のハイライトは高さ7m上路式3連の日置川橋梁と、橋梁から水田まで続く築堤です。


左 枕崎方より上日置駅を振り返る。R=400 25‰の先にプラットホームと給水塔を望む。
右 同位置より枕崎方を望む。 R=301 20‰の勾配。 築堤がざっくりと削られています。


左 A築堤を見上げる。 奥が上日置駅。
右 足元には通水孔(ミニ暗渠)が設けられていますが、築堤建設後の施工です。

 この付近はもともと水の多い場所であったこと、築堤も切取と盛土により造られた片切片盛りではなく、両盛土による施工であったことから、駅給水塔の背面なども含めて現役時代に幾度か崩れたことがあったそうです。


左 明るく気持ちの良い軌道跡はここまで。ここより、しばらくは右手から丘陵が迫り、切取による区間が続きます。
右 倒木があり、車両(自転車を含む)の通行は困難ですが、足元さえ気をつければ歩行踏査に支障はありません。
   (2012年1月現在)


左 岩塊そのままの法面。
   伊集院川橋梁の先、加世田トンネル手前など多くの切取法面で同様のダイナミックな処理を見ることが出来ます。
右 廃止後30年を経て森の径道の風情ですが、現役のときは空も大きく広がり、明るく乾燥した軌道敷だったはずです。


左 200mほど進むと切取区間も終わり、軌道跡に日差しがとどき始めます。
右 再び手入れされている軌道跡が出現。



軌道敷き跡は再び築堤となります。右は丘陵に挟まれ田畑が広がっていました。
即ち、農業用水を兼ねた小川があり、築堤の下部を貫く暗渠があるはずです。


 折戸の暗渠(函橋)、下流の坑門です。 幸いなことに草が払われており、築堤と一緒に撮影できました。
 幅は第二毘沙門暗渠(2.44m)と比べてちょうど半分の1.22mです。
 内部構造は側壁が石材による“布積み”、アーチが煉瓦による“長手積み”で特筆すべき施工ではありません。


 第二毘沙門暗渠の道床は百年を経ても、石畳の感覚で歩くことが出来るほどしっかりとしていましたが、この暗渠は“ぼろん・ぼろん”でした。
 また掃除も頻繁にはされていない様子で堆積物が彼処にあり、下水道の様相でした。


 折戸暗渠から161.7m先にある小部田暗渠。

 下流の坑門は県道37号線の路肩に姿を現し、水路はすぐさま県道を潜ります。
 内部の様子と上流の坑門を確認したかったのですが、下水道的な雰囲気が濃厚に漂っていたこと、ガードレールの幅と坑門までの隙間がダブルで狭く、服を汚さずに身を滑り込ませることが難しそうだったので潜っていません。

 坑門はコンクリート製で、手前部分も全面コンクリートで固められています。県道と草原・川口の集落を結ぶ道路の関係で、後年延長されたためではないかと推測していますが、正確なところはわかりません。少し奥からは折戸暗渠と同様に石材と煉瓦で造られているようです。
 上流の坑門への直接アプローチは藪の密度が濃く、藪の中を泳ぐ覚悟の装備がないと出来そうにありません。下流側から腰をかがめて県道を潜って行くか、道路に腹ばいになってガードレールの隙間に足から入っていくほうが楽でしょう。ただし白骨化した○○などと遭遇するドキドキ感もオマケに付いてきそうな雰囲気です。


 さらに小部田暗渠から100.6m先にある牧内暗渠。

 下流の坑門は住吉小学校脇の斜面に開いています。
 この暗渠は雰囲気が良く、潜ることに抵抗はなかったのですが水路までの高さが随分とあり、降りることは出来ても盛土の側面を削らずに登ることができそうになかったので実行していません。
 坑門の素材は石材と煉瓦であることが確認できます。内部もおそらく折戸暗渠と一緒でしょう。

 100年前に造られた南薩鉄道の構築物が、当時の姿で今尚しっかりと役目を担い続けています。


 軌道は住吉小学校裏を過ぎると標高237mの城山の裾に入ります。地図で見る限り、そのまま山裾に沿って県道まで高度を下げ、踏切と軽便な鉄橋を設けて水田の中を日置駅まで敷設したほうが、距離も短く合理的だったのではないかと思います。
 しかし、城山の斜面が急峻で切取・盛土の費用が大きく見積もられたのか、建設後の継続保守を嫌ったのか、用地買収が芳しくなかったのか不明ですが、3連の日置川橋梁で一気に県道と大川を飛び越えて対岸の向江山(標高304m)の裾に移り、諏訪・中牟礼・古里の集落をかすめて日置駅へと至るラインが選択されました。
 コスト面から鉄橋の長さを最短にすべく、県道と大川に対して直角となるよう、鉄橋前後2箇所に本線最小従曲線半径100.58mのカーブが造られました。
 勾配こそ本線最急の25‰ではないものの、20‰もの勾配(同一勾配の長さとしては本線最長の1,626m)の途中に4箇所もの最急カーブが連続する、本線有数の難所となりました。
 
 伊集院方の橋台です。道路拡張のために山斜面を崩した際に、崩落防止でコンクリートが吹き付けられたようです。


 日置川橋梁を描いてみました。

 ベースは2012(平成24)年1月、枕崎方より伊集院方向への撮影です。
 桁橋は3連で、21.34mの桁を中心として左右に12.19mの桁を配置していました。センターの桁は全長に合わせて主桁と横桁を両サイドの桁よりも大きく設計しています。
 橋脚は石積みによる架違い橋脚で、幅は約1.67m。転び(傾斜)は僅かです。
 
 2012年1月現在、橋脚は2脚とも撤去されていますが、橋台はともに残されています。枕崎方(写真右)の橋台は竹藪に埋もれて肉眼ではかろうじて確認することが出来ますが、写真にしてしまうと判別できなくなってしまいます。

 車輌は キハ106 + キユニ105 です。干河駅の津貫寄り国道側から撮影された貴重なサイドビューを K. HIRAYAMA 様よりお借りしました。
 


 日置川橋梁の枕崎寄り、大川に架かる“五丁田橋”から南薩線の築堤跡を望む。
 点線にて単純化した軌跡を描いていますが正確には日置川橋梁と大川は直角に交差し、続いてR=100.58で右カーブするため手前の大きな点線部分は道路と均等の距離で併走していたわけではありません。道路のほぼ真横に位置し併走するようになるのは写真中央の杉木立の後ろ辺りからです。


 軌道は道路と併走してからも高度を下げ続け、最後は路面の位置まで下りますが、軌道跡は道路拡張工事により消滅もしくはずいぶん削られてしまいました。
 歩道と片側1車線部分が旧道路、山側の1車線と駐車スペースが軌道からの転用、白い車の屋根のラインが軌道跡の一部ではないかと思われます。 奥が枕崎方向。

 この区間(上日置を出発してすぐ4.594km地点C からL-2の踏切手前までの6.220km地点まで)は1,626mもの本線最長の同一勾配(20‰)であり、かつ日置川橋梁を挟んで本線最急のR=100.58が2箇所づつ計4カーブも連続する難所でした。上り貨物列車の運転ではとくに神経を使う区間でした。
 蒸気機関車からDD1200に置き換えられてしばらくの間は貨物量も多く、C12型機関車に比べて牽引定数の少なかったDDは、よくオーバーヒートを起こしたそうです。
 聞いた話によれば、機関士は運用に余裕のない新品機関車の状態が心配でならず・・・(とても書けません(笑)) 、もしも本当の話であるならば、昔はのんびりしていて物事に鷹揚だっったんだなぁ〜、と思えるエピソードでした。


 道路面と同じ位置まで高度が下がった軌道敷は道路拡張により道路の一部となってしまったのか、路側の茂み部分として残っているのか判別不明となります。
 しばらく進むと拡張区間が終わりとなり、道路は軌道現役当時と変わらないままの姿(※)で左に抜けます。

 この地点は1.5m幅の踏切(記録では第4種)が設けられていました。踏切にて道路は山側に移り、軌道敷は道路と離れて単独で水田の中を日置駅に向けて進んでいきます。軌道跡は柵の部分ではなく、柵の左側の草むらです。

(※)左に抜ける道路は 2013/01 より拡張工事をおこなっていますが、軌道跡はそのまま残されるようです。


 踏切より30mほど進行した先、6,287m地点の“青木ヶ元開渠”  径間 4'-6"( 1.37m)  主桁断面寸法 I-260×11.3

 DORMAN LONG (ドルマンロング会社(英国))製造の桁、1914(大正3)年4月1日開業時からの姿です(2012年6月現在)


 藪が猛烈で一方向からしか撮影できていませんが、石造りの橋台は堅牢でしっかりと水路を確保しています。
 また、下流の石積みも美しい R を描いて造られ役目をしっかりと果たしています。


2013年1月、道路拡張準備により L-2 の軌道跡周辺が除草されました。“青木ヶ元開渠”を覆い隠していた藪の一部も払われたので、以下に補足します。

軌道跡は丁度矢印版のところです。



横桁はT形鋼を採用。横桁と主桁とは等辺山形鋼(アングル)を介して六角ボルトとリベットにて接合しています。
(寸法については凡そです、足場が悪く枕木ほか障害物もあって正確に測定できておりません、参考値としてご認識ください、または推測で記載しています)


支承はピンを用いておらず、橋台最上部に六角ボルトで固定された「ベッドプレート」と主桁が平面接合しています。
右の写真は左・中の撮影位置とは180度の方向から撮影しています。


左  : 上流より橋台と奥に続く石積みを 2012/06 撮影。橋台石材の合端は目地材で埋められていますが、奥の石積みは目地材を用いておらず城壁を思わせる施工です。
右上 : 下流より、枕崎方の橋台
右下 : 下流より橋台を中心に据えて撮影。橋台間の距離(径間)は記録では1,371mmとされています。


左 : 下流より伊集院方橋台と翼壁を撮影。橋台は平積みですが翼壁は橋台上端部を頂点としたラインで平積みから谷積みに積み方を変えつつ、特筆すべきはM-4左の写真にあるように内側への曲線加工も同時に加わっていることです。素人には大層価値のある石積みのように思えてなりません。
右 : 同じく下流より撮影。枕崎方橋台の翼壁も同様に平積みから谷積みに積み方を変えつつ、枕崎方とは逆に外向きの R をつけて積んでいます。


 “青木ヶ元開渠”から158m日置駅寄り 6,445.099m地点の“名もなき下水溝”です。

 城山(日置駅寄りの次峰の204m)を背景に撮影。
 枕木が渡してあります。
 除草されていなければ冬期以外は草に埋もれ、道路上から垣間見することは難しいかもしれませんが、水路から辿っていけば特定は容易です。

 橋台と石積みの具合を確認したかったので、水路に降り立ってみると。


 水路中央に脚と思われる石組みが残されています。

左 : 上流より撮影
中 : 上流より撮影、脚は流水圧を考慮して尖頭形で造られています
右 : 下流より撮影。脚は尖頭形になっていません
 
 3,116m地点のようなダブルタイプ下水溝の脚を途中から撤去したものなのか、それとも木桁のための基礎なのか。
 そもそも、記録では1914(大正3)年開業の伊集院〜加世田間において、橋梁(径間3.65m以上)は17橋梁と 1避溢橋の合わせて18箇所架けられ、開渠(径間3.65m未満)は16箇所造られていました。
 橋梁はすべて外国製(ハーコート社(独)ならびにパテントシャフト&アクスルトゥリー社(英))の桁が用いられ、国産の桁は架けられていません。
 一方、16箇所の開渠については3箇所だけがドルマンロング社(英)の桁で渡され、残り13箇所については開業より10年後の1924(大正13)年12月に日本橋梁会社製の鋼製桁に取り替えられるまで木橋で架けられていた ということです。
 開渠ですら木橋だったのですから、下水如きは木桁で充分

つまり、木桁はこんな感じ?

 と、イメージしていたのですが方々でお話を伺ったところ、3,116m地点のダブルタイプの下水溝と同様の石積み構造で、「廃線後に脚の上部を撤去しただけ」、との単純な結論でした。(3,116m地点の下水溝よりも早く、この下水溝を調査していたので思い込みもありましたが)


左と中 : 下流部の断面図ならびに下流部から上流部に向けて撮影
右 : 伊集院方より枕崎方向を撮影、6.6‰の緩やかな勾配を左右に水田を見てしばらくのあいだ進みます


 6,611m地点の諏訪下開橋(奥が伊集院方)
 
 この開橋は開業時は木橋で架けられていました。
 写真の桁は、開業10年後の1924(大正13)年12月に架け替えられた、日本橋梁会社製の鋼製桁です。
 径間は4'-0"( 1.22m)と記録され、先のドルマンロング社製造桁が架けられていた“青木ヶ元開渠”よりも6インチ(152mm)狭く、橋台の石積みは床石を含めて7段以上、“青木ヶ元開渠”よりも高く造られています。
 


 架け替え以前の構造については写真はもとより図面もないので想像するしかありませんが、水路中央に橋脚を支える基礎の痕跡はなく、また施工基面までの高さが比較的深いにもかかわらず、径間の距離が短いことを考え合わせると、電信柱のような径の丸太や角柱を主桁として渡し、その上に枕木を敷いて架橋したのではないかと推測できます。橋台側面には方杖の支承を設けていた痕跡がないため、所謂ラーメン橋でもなかったと思います。




横桁は溝形鋼(チャンネル)を採用。横桁と主桁とは山形鋼(アングル)を介してリベット(枠囲写真)にて接合しています。
(寸法については凡そです、足場が悪く正確に測定できておりません、参考値としてご認識ください、または推測で記載しております)


a : 枕崎方の橋座(b、c、dは伊集院方の桁座を撮影)
b : 橋座に据えられた床石(550×540×210)と、ベッドプレート(310×280×10)を俯瞰、床石とベッドプレートは二対の六角ボルトで固定しています
c
: ベッドプレートと主桁との固定も六角ボルトのようです(枕崎方の固定は確認していません)
d : ベッドプレートの厚みの分だけ床石を削り、プレートを床石に嵌め込んでいます。床石の上面はフラットとなりますが、主桁はプレート内に載りきっているので“労多くして功少なし”のような気がします。
 床石を削ってプレートを収める工法は、表面に凹凸のあるい石材特有の工法だったのか、石橋を代表とする石材加工技術に秀でた薩摩石工の心意気だったのか、興味のあるところです。
 手元にある I ビームの写真を並べてみました。橋座がコンクリートや研磨された石材なのであまり参考にはなりませんが、ベットプレートを床石に埋めている例はありませんでした。(写真は南薩線ではありません)


 “諏訪下開橋”から287m日置駅寄りの6.898km地点の“木場園開橋”です。

 支間は10'-0"( 3.05m)と記録され、伊集院〜加世田間の開渠16箇所のうち6箇所存在した最長桁の1つです。因みに、最短は諏訪下開橋ほか1箇所の4'-0"( 1.22m)となっています。
 最長ではありますが、この桁も開業10年後の1924(大正13)年12月に架け替えられた、日本橋梁会社製造の桁です。
 諏訪園開橋同様、橋台に方杖を受けていた痕跡はありません。長さ3m強の丸太もしくは角柱を主桁として渡し、その上に枕木を敷いて架橋していたと推測しています。




a : 伊集院方桁座と床石
b : 伊集院方橋座と床石
c
: 伊集院方桁座の床石、内側より撮影
d : 伊集院方より枕崎方向に下から撮影
e : 枕崎方橋台
f : 伊集院方橋台

 青木ヶ元開橋の直前から6.6‰の緩やかな勾配が672mほど続きましたが、木場園開橋直前の6,892m地点から日置駅直前の7,696m地点まで804mは7.5‰の勾配となります。また、木場園開橋付近では低いながらも築堤を走っていましたが、R=402.34(交角6.7度)を過ぎ、R=301.75(交角26.47度)のあたりから軌道は生活道路や水田とほぼ同じ位置の高さとなります。



木場園開橋を中心とした前後の築堤の様子です。伊集院方の築堤は藪に飲み込まれています。
伊集院方にR=402.34、枕崎方にR=301.75のカーブがあります。



R=301.75を終え、7,531mに位置した16号踏切跡より撮影。軌道敷きの高さは道路・水田とほぼ一緒となりました。
この地点から日置駅構内の終わりまで、450m余りの軌道敷は宅地の造成と道路に転用され消滅しています。


 道路転用にあたって、ずいぶん土を盛ったようです。
 資材置き場のブロック塀の高さに違和感がありますが、同位置からの撮影です。
 
 駅跡は1999(平成11)年11月の時点では給水塔も赤い金属製の円筒タンクを載せたままの姿で、また本屋は取り壊されていたものの島式ホームには上屋とともに座部・背もたれが共にフラットな長椅子も草に埋もれボロボロになりながら残されていました。
 しかし、翌年早々に住宅用地として整地され日置駅は消滅します。






 写真が若干不鮮明なので補足します。
 有効長は本線が上り(2番線)・下り(3番線)ともに147m、側線(1番線)は74m
 本線ホームは76.50×6.10×0.76m、貨物ホームは18.30×6.0×084m

 特筆すべきは、伊集院方にも給水管を上り本線に向けて給水塔が描かれていることです。
 (この停車場配線略図綴りの製図年月は知覧線の駅名欄に1944(昭和19)年5月17日に廃止となった花瀬・野間・小野・城ヶ崎の4駅のうち、花瀬駅以外が掲載されていないことから、花瀬停留場再開業の1945(昭和20)年6月11日から城ヶ崎停留場の再開業の1952(昭和27)年11月1日までの7年間に作図されたと推測されます(野間、小野の両駅は昭和34年発行の5万分の1の地形図に駅として記されていますが、南薩鉄道資料を見る限り施設として記録はされておらず、再開業はなかったようです))

 すくなくとも、戦後間もない頃には日置駅に2つの給水塔が存在していたことになります。


 駅は消滅してしまいましたが、枕崎方にあった給水塔の下部構造は健在です。
 住宅整地に際して2000(平成12)年3月16日にクレーンによって、解体することなく40m程枕崎方に移設されました。

 ※給水塔については案内板の設置などなく、一見すると個人所有なのか判断がつかないため、日置市に問い合わせたところ、“旧日吉町時代に南薩線、日置駅のシンボルとして現在の位置に移転したもので、 2012(平成24)年4月現在、設置場所ならびに給水塔の所有は日置市であり、常識的な時間(例えば役所の窓口が開いているような時間帯)に間近で見学することに支障はありません”との回答でした。


@ 内部から天井部分を撮影しています。
A 金属製円筒タンクの置かれていた上部の構造です。横幅30cm程の石柱を6枚並べています。全体の大きさは1,800×1,840程度ですが四隅は台座の円筒部に合わすように削られており、不恰好な8角形です。
B、C 下部構造は円筒部が石材10段(2m,96cm)で、天井部の1段と合わせて全体で11段で構成されています。下から5段目(1m47cm)までの一部分に石材は積まれず石室内部との出入り口になっています。1枚あたりの石材の高さはバラつきがありますが大体30cm程度、厚さは測り忘れてしまったので想像ですが、台座が1,820mmとした場合に円筒部本体の直径を2,000mmとすれば、30cm前後ではないかと思われます。内部の底面には移設日が彫られています。


在りし日の給水塔。
両端の写真は枕崎方から伊集院に向けて撮影しています。

円筒形のタンクは下部構造の半分くらいの高さとすれば、1m63cm程度です。
よってタンク最上段までの高さは1.63×3として4.9m位ではないかと想像しています。因みに丸型気動車の高さは3,622mmです。


 逆サイド、伊集院方から枕崎に向けての撮影です。

 タンク構造はリベット接合でした。中央と中央下半分の2箇所にアングルの輪帯が巻かれています、これもリベットにより本体と固定されていました。

 

 給水塔について情報を頂戴しました。(2013/05/18追記)
 「停車場配線略図 線路図」に描かれていた、伊集院方の給水塔については “1947(昭和22)年の少し前の時点で既に大部分が取り壊されていた”とのことです。
 また、枕崎側の給水塔の水源は、本屋とは反対側の線路脇に井戸を掘り、ポンプで揚水していましたが、充分な水量を調達出来ず、やむなく少し山寄りの民有地を借り上げて第二の井戸を掘削しパイプを接続して給水塔に送っていたそうです。しかし、ここも水の出が悪くなり、1950(昭和25)年に日置駅での機関車への給水は中止となりました。以降、給水は大田トンネルからの湧水を通水して潤沢に確保できた上日置で行われたとのことです。


 駅構内を 1983(昭和58)年3月14日の早朝、伊集院方から撮影しました。
 中央が島式旅客ホームで、右隅のホームは貨物専用ホームです。

 一般的に鉄道創設期から戦後の高度成長期あたりまで、特殊な例を除き鉄道敷設の目的は旅客輸送もさることながら物流輸送の期待が大きかったはずです。 1914(大正3)年に開業した南薩線(伊集院線)でも開通と同時に開業した全駅(※)に貨物専用ホームが造られていました。
 (※) 貨物専用ホームが造られなかった、毘沙門(上日置)・吹上浜・薩摩湖・入来(南吹上浜)の各駅は開通後の新設駅です

 旅客ホームの幅は6.1m、高さは76cmありました。貨物の積卸専用のホームは幅が6.0m、高さは旅客ホームより8cm高い84cmでした。貨物ホームのために延長141m、有効長74mの貨物専用側線が敷かれ、1968(昭和43)年4月まで貨物取扱いが行われていました。上屋については旅客ホームは廃止まで利用されていましたが、貨物ホームには“停車場設計図”では描かれているものの、実際に戦前・戦後あたりの時期に存在していたのかまでは確認できていません。
 

  「大正三年、開通の年の日置駅の一か月の乗客約四〇〇〇人、降客約三〇〇〇人、貨物発送約七〇〇トン、貨物到着約二〇〇トン、大正八年には、乗客・降客・貨物発送・到着ともに約二倍に増加した。当時取り扱われた貨物では、瓦・魚網・箕・材木・坑木・木炭・麻・生糸等が移出され、食塩・昆布・そうめん・陶磁器・石炭・砂糖・肥料等が移入されていた」 日吉町郷土誌(下巻) 第五編交通・通信 第一章交通・運輸 第三節南薩線  日吉町郷土誌編さん委員会

 郷土誌で一番最初に記載されている“瓦”とは「日置瓦」のことです。周辺で産出される良質な粘土を材料として最盛期には56工場、従業員300名、関連従業員を含めれば800名の規模で生産し、“燻銀の輝きと光沢” を持つ純和式住宅用高級瓦として、九州はもとより阪神・京都方面まで輸送販売されていたそうです。戦後の復興特需から昭和30年代後半頃まで日置駅の貨物ホームにはピカピカの日置瓦が山積みされていたことでしょう。

 また、魚網ついては藩政時代より繊維原料として麻を栽培、手すき・手織りで編んだ後、腐食防止と強度増強のため柿渋にてコーティング処理を施し、麻糸魚網として帆ノ港から天草の牛深や長崎方面などに出荷していました。鉄道開通により製品の輸送は鉄道貨物でも効率的に行われ、ムラの製網所は会社組織として、アサヒ魚網(旧 松下網屋)、鹿児島魚網(原口網屋)に発展します。昭和30年前後から素材は化学繊維となり、魚網以外の各種ネット製造ともあわせ販路を広げます。

 さらに、到着貨物では陶磁器が扱われました。荷主は駅近くに店舗を持つ大楽陶器店、1924(大正13)年創業の老舗陶磁器屋さんです。
 県外各地から茶碗・皿・小鉢・丼・湯呑・漆器類・練炭蜂・グラスなどを買付け、日置駅止めの有蓋貨車で運搬し、店舗で販売するほか、1939(昭和14)年には薩摩川辺にも出店されています。
 以下について、大楽様よりご教授いただきました。
 ・鉄道貨物の利用期間について
   「利用開始は、おそらく創業開店準備の仕入れからと思われます、昭和40年頃からトラックに変わりました」
 ・輸送貨車について
   「10t積みの有蓋車で1輌貸切、混載はしません、積荷は1輌あたり300俵(1俵=20〜30s)内外でした」
 ・鉄道貨物の輸送量とピークについて
   「年間30輌前後を仕立て、通年ではお盆と正月が多く夏場は鈍く、最盛期は昭和40年前後でした」
 ・貨車の到着と発車時間について
   「到着は午前、空車の引上列車は16時頃でした」
 ・主な発駅について
   「中央本線多治見駅・土岐津駅、信楽線信楽駅など」
 ・荷姿について
   「昔は主として、木箱(りんご箱)・わら巻き、以降は巻きボール(巻きダン)、カートン(段ボール梱包)などでした」

 
 業者・商店等卸先向け、創業10周年(※)“正月大売出し”販促チラシ(昭和6年1月5日)
 想像以上の盛況につき期間延期(延長)する旨、現金払いの客には50円毎に景品券を便宜(配布)する旨、抽選にあたっては警察官・新聞記者その他立会いのうえ厳粛に行う旨、など記載してあります。
 安物品切の處今月十五日頃着荷致可候、「ご好評にお応えしてお手頃価格の量販品を追加仕入れしました、15日頃の貨車で到着予定です」といった読み替えが出来そうです。15日に貨物列車が到着すると貨物ホーム上で大八車かリヤカーに木箱の荷姿のまま載せ替え駅前の店舗に直行したことでしょう。
 当時の50円の価値については、津貫駅から干河(津貫から1.64km)までの旅客運賃が4銭・上津貫(2.31km)6銭、金山(6.26km)16銭、加世田(9.06km)33銭、、鹿籠(9.61km)24銭、枕崎(11.54km)29銭、伊作(19.87km)50銭、伊集院(38.02km)95銭でした(資料 : 津貫の歴史 津貫校区公民館連絡協議会) また、当時の職人の手間賃が概ね大工1円80銭・工員1円90銭・石工2円、食品では盛そば10銭程度、山手線の初乗りが5銭だったそうで、職人のおおよそ1か月分の労働対価に相当する大口卸先を対象とした案内であり、そういった数量が貸切り貨車によって運搬されたことが想像できます。
 
 (※) 創業は1924(大正13)年なので1931(昭和6)年の“10周年記念売り出し”は3年ほど矛盾します。これは、 “ だいたい10年 ” という、おおらかな薩摩の気質のようです。


 一方、薩摩といえば焼酎、日置で焼酎といえば、“さつま小鶴”の小正醸造を思い浮かべますが、郷土誌では原料はもとより製品としての焼酎の記載がありません。というのも焼酎は1981年頃から鉄道廃止の84〜85年頃にかけて飛躍的に生産量を伸ばしますが、それ以前は生産拡大基調ではあったものの、地域ごとに製造所が操業していたことから、主に地産地消(地域生産地域消費)され鉄道での大量輸送実績は無かったようです。


左  : 日置-吉利1号踏切(7,982.96m地点)から日置駅構内を伊集院方向に撮影。 踏切に接して下水が(写真では右から左に)流れています。この下水溝(7,979.945m地点))もダブルタイプでした。
軌道と、踏切ならびに下水との交角はいずれも80度で、枕木を下水の角度に合わせて敷いたため、2本の枕木の両端が10度の差でずれています。
手前が7,974.700mに位置する4号ポイント。1961(昭和36)年6月にスプリングポイントに変更されています。奥の貨物側線へ分岐するポイントが3号で、合流するポイントが2号、4号で分岐した本線との合流が1号ポイント(伊集院寄り)となります。

右上 : 下水の上流より撮影。コンクリート側溝蓋で覆われ道路となってしまったものの、流れは絶えていません。
湯之元と日置運動公園とを結ぶ、いわさきバスネットワークバス。

右下 : 左写真とほぼ同位置にて撮影。構内に置かれていた頃の給水塔の石組みは現位置より40mほど奥にありました。


 駅構内はずれ、枕崎方の踏切から。 8キロポストと11‰の勾配標、上り場内信号機と丸型気動車103。


2012/02/25 仮公開
2012/04/21 完結(日置川橋梁から日置駅までの区間(L〜O)を除く)

2012/05/18 牧田(牧内?)暗渠 ⇒ 牧内暗渠 訂正
         A B 説明文修正・追加
2013/04/06 青木ヶ元開渠L-3、M-1〜5文章補足および写真挿入 ・入換
2013/05/03 下水溝・諏訪下開橋(N-2〜6)追加
2013/05/12 木場園開橋O-1〜5追加
2013/07/08 給水塔追加情報、貨物取扱い、下水溝T-1、U追加
2013/07/27 T-1文章修正