補足

その1 − 加世田駅構内のターンテーブル


 加世田機関車車庫前に位置するビットがターンテーブル跡ではなかったかと推測しましたが、南薩鉄道記念館所蔵の「昭和16年南薩鉄道本社地図」で同位置にターンテーブルが描かれており、確認できました。


その2 加世田駅構内の給水塔
 

  “本線ホーム枕崎寄り、「信号切替てこ」横にあった円形の石組み”について、給水塔跡ではないかと記載しましたが、加世田市史(上巻)にて「加世田駅で給水中の下り列車−左のガソリンカーは万世行き(昭和11年)」との説明が付いている構内写真により存在が確認できました。
 上加世田駅のように石造りの立方体で8〜9段の基礎組みのうえに3段を重ね、金属製の円筒タンクを載せています。上加世田の給水塔を若干大きくしたイメージです。(上日置のものを随分小さくした感じ)

 また、同写真では本線ホームに屋根付の待合室が写っており1936(昭和11)年当時、曲線加工した方杖をもつ上屋は存在していないことも確認できました。

その3 − 伊作駅のΩカーブ

 摩湖駅のページで「薩摩湖駅から南吹上浜駅間は今田の集落に沿って線路を敷設すれば随分ショートカットができたはずです。 しかし吹上町(当時)の中心地 伊作地区 に隣接するように線路を敷いた結果、「Ω」の頂点に当たる位置に駅を作らざるを得なくなり、カーブ駅となってしまった、ということなのでしょう」と記載しました。
 これは南薩鉄道と住民双方の(前向きな)思惑が一致して(皆さんハッピーで)Ωカーブが決定された、との含みで記載していましたが、事実は異なり多少複雑でした。

 進取の気に富んだ西郷隆盛や鮫島慶彦を輩出した鹿児島とはいえ、大正の世にあっても南薩の地では汽車が走れば地響きで稲が枯れ、汽笛で馬牛が暴れ、煤煙で健康を害する、火の粉で火事が起きるといった心配がまだあったようです。(伊作街道(県道)経由で鹿児島市とを行き来する乗合馬車業者や荷馬車運送に携わる人々の生計面からの反対意見もあったかもしれません)

 開業に先立つこと2年ほど前の1912(大正元年)7月末より伊集院〜加世田間の用地測量が開始され、当初地元の意向を汲んで今田牛丸線()にて敷設し、駅は伊作西本町から離れた場所に開設するとされていました。
 しかし南薩鉄道は駅を現在の市役所支所のあたりに開設すべく計画を変更(島前線 )したところ、各部落の総代など42名の連名で、「古来より洪水被害のある伊作川に沿って軌道敷設することは河川の幅を狭めることと同じであり、これにより堤防が決壊すれば広域にわたって甚大なる被害が予想される」、「変更軌道に隣接する2箇所の伊作紙生産業者数十名が用水の関係により営業を妨害され苦境に陥る懸念がある」、「線路迂回変更に際して本来 村事業に使用すべき村費を一私企業に補助することに村民の理解は得られない」といった訴願書を内務大臣、県知事、郡長、村長に提出し反対を表明します。
 最終的には、「島前線 より出来うる限り西方へ引き下げ水害懸念のない場所に移動させる」として調整を図り、1913(大正2)年11月末より敷設工事を開始し、伊作駅は開業しました。

 当初計画の今田牛丸線()をΩカーブに変更したため建設費用が3,000円余分にかかったことより、人々はΩカーブを「三千円曲げ」と称したそうです。

 様々な立場の様々な思惑があり決定したことは、大船渡線の“ナベヅル路線”と同じかもしれませんが、その理由は“誘致と拒否”の両極でした。

 資料:吹上町郷土史(現代編)、吹上郷土誌(通史編三 現代民俗)



その4 − 伊作駅Ωカーブの補足

 その3 で吹上町郷土史、吹上郷土誌をモト資料として伊作駅のΩカーブについて記載しましたが、別の視点からの記事を紹介します。
  
 「略・・・伊作ですか伊作の停車場はあれでもまだ海のほうに設計されてゐたのですが村民の熱望や寄附やらで漸く只今の箇所迄迂回したのです・・・略」(鹿児島朝日新聞  1914(大正3年)5月10日 “開通せる南薩線” 取締役 折田 兼至氏談  記事より)

 要約すると、「伊作駅はまだ海のほうに←A今田牛丸線を指す)設計されていたのですが、村民の熱望寄附があったので迂回(うかい←遠回りすることして(あげたのです)」

 郷土史や郷土誌に記載してあることと真逆です。村民は来るなと言い、会社は寄附まで出して要望されたからわざわざ迂回してやったんだ、ととれる言い方です。 真偽は?

 以下推測ですが、おそらくどちらも本当でしょう。 吹上郷土誌では「南薩鉄道を敷設するころの主な交通手段は馬車でした。住宅地の近くを汽車が走ると、馬が汽笛や列車の音に驚いて暴れ出す、機関車の煙で人々が健康を害する、あるいは火の粉が落ちて火事を起こすのではないかと人々は真剣に心配しました。」との記載がありますが、大正の世になっても、「写真を撮ると魂が抜ける」的な考えが大勢であったのかは疑わしいものがあります。鉄道開通により生業が脅かされる運送業者等が情報に乏しい在民を巻き込んで「農作物・家畜に悪影響」、「煙が火の粉が」と不安を煽り反対運動を盛り上げる反面、利に聡い商人や新聞購読しているような知識層は、当時力のあった反対勢力に遠慮して声高に言わなかったものの、鉄道駅誘致派だったのではないでしょうか。会社からしてみれば反対者だけではなく誘致者も確かに存在していて、実際のところ村費での補助や寄附もあったのだからウソではないし、鉄道開通後の地域に与える影響を見越したうえでの確信的な発言だったようにも思われます。ともあれ、様々な立場の、様々な考え方の人たちがいて、落ち着くところに落ち着いた、といったことではないでしょうか。

 因みに、加世田市史(上巻)には「当時の沿線住民のなかには、汽車が走れば牛馬が驚くとか、洗濯物が汚れるという強硬な反対があったため、人里を避けて鉄道を建設したが、その後多くの地域住民は後悔したという」という記載があります。
 また、加世田開通より31ヶ月後に開業した万世線(東加世田線?)にいたっては、会社は当時の東加世田村から鉄道・駅用地の無償提供を受けると共に、総工事費5万6千900円の7割に当たる4万円もの資金を村民有志より調達して建設したことは周知の事実です。


その5 − 伊集院駅構内図

伊集院駅について
“廃線跡 比較写真”の「鹿児島交通線 廃線 伊集院」のページで
(官鉄)伊集院駅は川内線時代の1913(大正2)年10月11日に開設されました。
 6ヵ月後の1914(大正3)年4月1日に伊作までの開業にあわせて南薩鉄道伊集院駅も開設されます。
 開設当初は官鉄伊集院駅とは独立しており、乗り換えに手間があったようです。
 1954年(昭和29)年11月に旅客ホームを国鉄駅寄りに移設。
 その後1963(昭和38)年2月6日に国鉄駅舎改築。
  南薩鉄道の蒸気機関車全廃(1963(昭和38)年3月5日)と同時期に国鉄の駅舎を改築しています。
 恐らくこのとき、1番・2番線(線路が剥がされ自動車が停まっているホーム)を鹿児島交通線(当時南薩鉄道)がメイン利用し始めたのではないかと思います。 


 と記載のうえ、1947(昭和22)年11月の空中写真をベースに当時の伊集院駅の構内配線想像図を描いていました。

 先般、昭和8年当時の「伊集院停車場省社線連絡平面図」を拝覧する機会を得たので、謄写図に差換えます。




 蒸気機関車牽引の客車列車は、R=100.58の左カーブで城山(標高144m)の懐と別れ、277.61mに位置する場内信号機を確認しながら制動を効かせ上路式3連+1連(45.11m)の伊集院川橋梁(神之川橋梁)を渡ります。
 右・R=120.1の築堤を進み、県道踏切を越えれば伊集院駅構内です。川内線(鹿児島本線)とのファーストコンタクトはNo.9ダブルスリップ・スイッチポイントとなります。
 ポイントを南薩鉄道発着線へと進入し、列車は伊集院停車場(長70,100×幅4,500×高61)に到着します。

 客車からプラットホームに降りた旅客は機関車方向に向けて本屋とを繋ぐ連絡通路(全長約80m)を目指します。ホーム先端のスロープ(5.18m)を下り、機関車廻線を渡り(約15m)、さらに60m程進んだ先が本屋となります。通路上には上屋が設けられ(※)ていました。
 官鉄(国鉄)と南薩鉄道共用の本屋は官鉄(国鉄)のプラットホームには接しておらず川内線(鹿児島本線)への乗り換えはさらに跨線橋を渡る必要がありました。
 因みに国鉄のホームの長さは、鹿児島交通線廃止間際の頃には10両編成のエル特急“有明”や電車特急“なは”に対応すべく、熊本方先端はダブルスリップ・スイッチポインあたりまで延長されていましたが、当時は190m(両端のスロープ部分を除く)程の長さでした。

(※)図面では機関車廻線踏切と本屋間60mのうち本屋側に41m程上屋と推測できる線が引かれています。南薩ホームと機関車廻線踏切との間は図面が微妙で確信は持てませんが、恐らく上屋は設けられていたのではないかと思います。


その6 − 薩南中央鉄道(知覧線)の川砂利運搬線


“上津貫駅”のページで
 開業に際して大量のバラストを如何にしてローコストで調達するかは経営者にとって重大な関心事であるとともに重要な選択であったはずです。他所から運搬コストを要して購入するより地元最大の河川である万之瀬川の河原まで専用の側線を延ばして調達コスト削減と運搬効率向上を目論んだに違いありません。開業後のバラスト交換にあっても施設は継続利用できるメリットも併せ持ちます。山の砕石を積み込むための専用施設が存在したのですから、南薩線であれば万之瀬川橋梁の袂、開業当時別会社だった薩南中央鉄道でも田部田駅や野間駅辺りから万之瀬川や広瀬川に隣接する位置まで川砂利運搬専用側線が存在していた可能性があり、現在調査をしています。
 と記しました。

 知覧線について地元の方々よりご教授頂き、概要が掴めたのでお知らせします。

 ・砂利取り線は野間駅から分岐し、神殿川を渡り、広瀬川(万之瀬川)の河原まで延びていた。
 ・当時は広瀬川に堤防はなく、河原と引込線は隣接していた。
 ・引込線の途中にも、終端部にもポイントはなく、一本線であった。
 ・機関車が無蓋車を連結して入線し、砂利を積み終えるとそのまま薩摩川辺に向けて戻っていった。
 ・いつ頃敷設されたかは分からないが、戦後しばらくも線路は残っていた。



軌道敷、野間駅のプラットホーム位置の確証はありません。想像で描いています。


川砂利運搬線(引込線)の位置、終端部についても想像で引いています。

 B 野間駅は1944(昭和19)年に廃止されており、プラットホームの位置(左右の位置を含めて)は特定できていません。 広瀬川橋梁へと至る築堤(起点10,558.928m地点 18.2‰ R=201.168 (途中10,676.810m地点に生活道路交差のため“野間陸橋、径間4.572mを架橋”))は鉄道廃止後もしばらくの間残されていましたが(1996年の時点では現存)、その後コンクリート製の橋台部分だけを残して完全撤去され、現在は水田となっています。
 D 野間駅より直線上には墓地があり、引込線は迂回していたものと推察されます。
 E 神殿川は護岸改修され、橋台跡は残されていません。さらに道路が開通し“新野間橋”が架橋されています。
 F、G 軌道敷跡には“川辺東部処理場”が建てられています。
 G、H 軌道敷は撤去され、水田となっています。
 H 終端部と思われる位置は盛土がされ、藪となっています。



 諏訪山(城之山)の展望台から俯瞰しています。
 広瀬川に隣接して水田が広がり、山との境界には「里」、「古殿」の集落、手前には「迎川原」の集落が写っています。

 大水に対して無力であった時代、河川は自由に蛇行していました。つまり土地改良を行い水田となっている部分も含めて、大昔は写真の相当範囲は広瀬川とその川原、そして川原に薄く積もった土壌に生える葦原のような荒地であったはずです。現に写真手前の迎川原の集落は戦後の河川改修工事(昭和23〜26年)後に造られた比較的新しい町です。昔は写真右端くらいの位置まで川原だったそうです。
 砂利は川原から採取するだけではなく、一帯の荒地などを川砂利堆積層まで掘り下げ、採取していたものと推測されます。

 引込線の敷設時期については、先ず本線が1927(昭和2)年6月に阿多〜薩摩川辺間を先行開業し、追って1930(昭和5)年11月に薩摩川辺〜知覧間が開通しています。よって、第一次開業時の終着駅薩摩川辺駅から先1.61km知覧寄りの野間駅までの区間に旅客列車が走るのは3年4ヶ月後となります。しかし、川辺町郷史誌 全一巻(川辺町郷土史 編集委員会)には、「大正十三年二月十一日起工し同十四年八月完成の予定であったが、財政難のため第一期線(※)のうち川邊、知覧間の工事を一時中止、全力を阿多、川邊間に集中することに決定」との記載があります。
 即ち、阿多〜薩摩川辺までの区間を先行して完成させた後に薩摩川辺〜知覧までの区間を着工したのではなく、阿多〜知覧までの区間を起工したものの諸事情により阿多〜薩摩川辺までの区間を優先して開通させた、と解釈出来ます。第二次開業区間の薩摩川辺〜野間までの1.61kmは田畑が広がる、知覧線にあっては平坦な区間(最大11.4‰)で、土地取得さえ叶えば軌道敷設工事は容易です。バラスト調達の観点からも1924(大正13)年の起工時早々に広瀬川の川原まで敷設されていた可能性が大きいと考えられます。(確証・根拠はありません、私的見解です)
 廃止の時期は現時点では不明ですが、当該地区の河川改修工事が1948(昭和23)年から1951年にかけて行われており、関連があるかもしれません。

 (※) ここでの第一期線とは頴娃費村石垣までの当初計画線のうち阿多〜知覧までの区間を指します

 ※ 現地を踏査しましたが、川砂利採取線(仮称)の痕跡を見つけることは出来ていません、また文献上での存在は確認できていません。本文は地元の方々からの伝聞を拠りどころにしています。
 ※ 地元の方より、東川辺(広瀬)駅についても興味あるお話を伺いました。調査のうえ、いずれ公開したいと思います。

 ※ 南薩線(伊集院〜加世田)開業時のバラスト調達については継続調査していますが、万之瀬川橋梁の辺り(加世田駅)は下流域にあたり、バラストとして優良な “角のある大粒の砂利” の採取は難しかったと思われ、恒久的な砂利採取専用線を設けた可能性は少ないように考えています。地元の川砂利採取業者からの買取り分も含めて川砂利の利用はあったとは思われますが、大田トンネルの掘削土や「切り通し」、「切取り」で発生した土砂からの採取、また採取を目的とした山の切り崩しもあったのではないかと推測しています。


参考資料 : 川辺町郷土史 全一巻 川辺町郷土史編集委員会
        川辺町1981年町勢要覧 
川辺町役場庶務課
        川辺町風土記 
青屋 昌興


その1〜3、 2011/01/22 公開
その4.、   2011/03/02 公開
その5.、   2012/11/19 公開
その6.、   2013/11/26 公開