南薩鉄道の保存車輛 整備


庫を失い、バスと自動車に取り囲まれ、名実ともに進退窮まった車輛たち


車輛保存への経緯

 開業より約半世紀に亘って続いた蒸気機関車による運行は、 2台目DD1202運用開始1963(昭和38)年1月25日より40日後、1963(昭和38)年3月5日の朝に下された通達をもって終了しました。

 翌日より蒸気機関車は運用から外れ、留置されることとなりましたが、2両のDDのうち1両が修繕等検査で不稼働状態にあって、もう1両の運用DDに不調・故障などが生じた場合を想定すれば、検査期限までは予備機として待機状態であったものと推測できます。(実際は、DDの代役として臨時に稼働する場面は無かったようですが)
 よって運用終了とは言いながらも、しばらくの期間は蒸気機関車を動態保管しておく合理的な理由は存在しました。

 しかしながら、検査期限を過ぎてしまえば本線運用に就くことは叶わず、構内側線を塞ぎ・居座る邪魔な存在でしかなくなります。
 由緒ある1号機・2号機は別としても、4号機・5号機、また使用年数の浅かった12号機・13号機・14号機が他社転売叶わなくなった時点で、ナゼ鉄屑処分しなかったのか?
 功労機関車の解体処分は行わないとの方針は、創業からの3号機 (一斉運用停止の8年前に廃車) の鉄屑売却で実績があり、理由とはなりません。

 荒れるに任せ、鉄屑としての価値も減ずる程の腐食具合となってまでも、鉄道廃止後の一斉処分まで、ナゼ留置し続けたのか? 5号機にあっては運用停止指示直前に廃止届が出されており、ロッドを外されたままの状態で元に戻されることもなくです。

 「またいつの日にかSLを必要とする新しい時代が来るといいね、そんなことを信じながら大切に保管されているそうです (600 こちら 情報部 「幻のSL発見! 〜鹿児島交通枕崎線〜」(83/10/10放送 NHK)」
そういった綺麗事ではないように思います。



機関車のみならず客車も車体が崩落しても尚、放置し続けています。


 機関車と比べて資産価値・文化財的な価値が少ない客車についても、車体が崩れ落ちても尚且つ放置し続けることに、前向きな理由を見出すことは困難です。

 会社が将来の方向性や強い意思をもって、積極的に保管していたとは言えないでしょう。
 意思決定も明確な方針もないまま、日々放置され続けた。 ということが本当のところだったように思います。

 別の視点からすれば、採算悪化著しい鉄道部門において最優先事項は、現稼働資産の維持ならびに安全輸送でしょう。
 欠車寸前・運行ぎりぎりの人員状況にあって、直接的な輸送や安全に関わらない (日銭を生まない) 廃車輛メンテナンスや整理・処分業務などは行う余裕がなかった、ということは現実であり、事実だったと思います。

(それでも、邪推が過ぎるかもしれませんが・・・、
鉄道廃止間際に 「14号機を整備復活させ、南薩線で観光列車として走らせる」 といった計画が持ち上がり、煙管を抜いて具合の確認を行うとともに、ボロボロの外観に赤色の錆止めを施しています。
が、結局のところ会社主体で整備のうえ運用するには費用負担や採算性から、実現していません。
これは、会社の本音は “早期廃線” であったものの、地元資本を傘下に収めた経緯や地域密着の運輸事業者として、地元住民から 「会社は無為無策で切り捨ててしまった」 と、後々言われないためのパフォーマンスだったのでは・・・・。
貴重な資産との認識のもと、観光計画や再利用の方向性が以前から真剣に検討されていたのであれば、状態維持のための最小限のメンテナンスや継続的な屋内保管はおこなっていた、と思うのですが・・・・。)


 鉄道廃止時にあっても車輛について方向性は示されませんでした。
 鉄道廃止後、加世田駅構内は車輛共々そのままの姿で手を加えられませんでした。
 機関車の時と同じく、会社は跡地利用についてもビジョンを明確にせず、主体的に動かなかったのかもしれません。

 やがて隣接する大型小売店舗より “駐車場として”、との引き合いを受け、加世田駅は更地化されることとなります。
 ついに、車輛たちは “残存・廃棄” に振り分けられましたが、選択基準は将来の保存展示などを具体的にイメージしたものではなく、転売価値基準をもって未だ土地利用が定まっていなかった構内隅の車庫にて、当面の間(コストを要せず)保管が可能な6輌 (1号機・2号機・4号機・キハ103・DD2輌) とされました。



残される 1号機と2号機


残されなかった5号機 13号機 14号機  キハは銘板や札枠、尾灯などが外され販売会に出品されました


4号機は残された


鉄道廃止より2年、“廃棄” と振り分けられた車輛たちは加世田構内で解体されました。 (12号蒸気機関車とキハ102を除く)


       13・14号機の動輪は残された                  加世田車庫に戻れず、枕崎駅に残された丸型気動車キハ102

 加世田に戻ることの出来なかったキハ102は加世田での解体処分が完結した後に、枕崎駅構内で一番最後に解体されました。
 解体車輛はいずれも鉄屑として運び出されましたが、13号機の動輪は記念館と学校に、14号機の動輪は市内郷土資料館と学校、個人宅で保管されています。



12号機は廃棄と振り分けられたものの、解体業者から所有者変更を経て、最終的には自治体が買い受け、加世田市(当時)の運動公園に保管展示されることとなりました。


上段3枚移設後 : 錆び付いたまま運動公園に搬入され、設置後に塗装作業された  バラストが真っ白
下段左 : 再塗装された際に主連棒・連結棒(ロッド)に赤が入れられた  案内板を設置
下段右 : 再々塗装された際に動輪の釣合重りに銀色の化粧が施された


 鉄道廃止から8年、一斉解体処分から6年後、機関庫が崩壊


 帰るべき庫も失い、進退窮まった車輛たちでしたが、時期を同じくして進捗していたバスターミナル整備など自治体の加世田駅周辺再開発事業のひとつに、 “鉄道跡地の証” として 「記念館的な構築物建設」 が盛り込まれます。

 「鹿児島交通では、南薩鉄道時代の面影を残そうと、現在残っている機関車や客車を使って、鉄道博物館を建設する計画で、具体的なことについては検討中・・・」 (1992(平成4)年10月19日 鹿児島新報)
 この時点で方向性が定まっていなければ、もしくはこれより以前に庫が崩壊していたならば、6車輛は (一部もしくは全部が) 解体処分されていたかもしれません。 


鉄道廃止より9年後、1993(平成5)年4月より車輛整備および展示館ならびに記念館建設に向けた準備が始動。

最初の準備作業として、上日置駅構内に側線として敷設レール(30s)、信号機(場内・遠方)の引上げ回収が行われました。




キハ103 整備

鉄道廃止から9年 さようなら運転のままの丸型気動車 キハ103   これから整備が始まる



整備は高圧洗浄機による車洗いから始まり、車体を囲む足場を組み上げた後に、屋根の錆取りから開始された
背後の建物は、建設中の乗合自動車整備工場 (現在のバス整備工場兼機関車等車輛保管庫)



雨樋の状態は悪く、腐食・穴あきが進行、一部を残して大部分は取り外された



 作業は屋根の錆取りと同時に行なわれ、車体接続面の錆や腐食部を削り、補修後に錆止め塗装された



僅な部分でしかなかったが、オリジナルの雨樋は修繕に耐えうる箇所は極力残された
 新たな雨樋はトタン板を折り曲げて製作され、オリジナルとの間をブリッジで渡された 
(写真を拡大すると、点のようなオリジナルが8か所確認できる)
接合は双方ともにドリルで穴をあけ、リベッターで “かしめ” 、パテを塗って磨いた後に塗装された
ベンチレターもボディーとの接合部は腐食著しく、4か所で雨漏りが進行していた
同じく、トタン板で補修し、リベッターで “かしめ” 修復された



雨樋の腐食はスカート部分全体にも錆を進行させていた
鋼板表面で留まった箇所は、錆落し後にパテ補修で了と出来たが、深部まで腐食してしまった扉横下部分などは、
切り取り → トタン板当て → リベットでの貼り付け → パテ塗り → サンダーでの均し → ペーパーでの仕上げ → 錆止め → 塗装、
の手順で修復された 



大きな補修は完了、仕上げ作業へ移行
先ず車体を薄く塗装、車体番号の103は消えてしまった
窓枠のひび割れ部分(木部)はボンドで修復、窓枠部と鋼板の隙間にはパテを充填
雨水の進入を防止



1993(平成5)年4月中旬〜6月初旬まで約50日間を要し、旧機関庫前での整備は完了した



、1993(平成5)年11月12日展示館に向けて移動、車内と床下部の整備が始まる



綺麗になった外装と比べて落差のある車内

とはいえ、鉄道廃止1984(昭和59)年3月17日のまま、現役時代そのままの姿である。
撮影日は1993(平成5)年11月13日。約10年弱の期間、手が加えられず保管されていた。
天井が煤けているのは32年分のタバコのヤニ?
キハ103改装前、最後の写真。


廃止記念? 通学時?


ナゼ、外観整備と内装・下廻りを一緒に行なわず、移動後に実施したのか?

効率を優先すれば、機関庫前スペースで外回り整備と同時に内装も床下整備おこなうことが合理的だったはずである。

しかし機関庫跡地はバス整備工場へと、また車輛仮置きスペースはバス用大型洗車機設置が決まり、両施設の周辺はバス駐車スペースとして広範囲に舗装されることとなった。
天井の抜けた機関庫は早々に取り壊され、鉄道車輛仮置きスペースを取り囲むように舗装準備のために砂が盛られた。
結果、仮置き場スペースは窪地となり、降雨時にあっては周辺から雨水が流れ込み、雨後の晴天となっても泥濘状態は容易に解消されず、また湿気があがり続ける地面に直接資材を長時間置くこともままならず、整備には不向きなスペースとなってしまった。

加えて、103の床下は保管期間10年弱分の油汚れに風で舞った砂が付着し機関本来の輝きが失われ、噴射洗浄機により整備を試みるも、泥の跳ね返り、噴射排水不良とも相まって、中途半端な清掃しか叶わなかったことから、車内改装作業とも併せて一旦中止し、コンクリート面での作業が叶う展示館スペースに移動して再開することとなった。



コンクリートの上に枕木を並べた軌道に移動。DMH17Cまでの高さが確保されるとともに、排水も容易になった。
車内改装作業で発生するゴミも直接コンクリート面に落とし、コンクリ面を清掃することで作業環境は格段に改善した。

床下の機械類は自家製金属ベラを用いて、厚いところでは2〜3mmにもこびり付いた砂ほこり混じりの油魂を掻き取るとともに、より強力な高圧洗浄機をリース会社からレンタルし、部品本来の地色が出るまで徹底的に洗浄を実施。
エンジンブロックに昭和27年の刻印を確認。(余談として、噴射力が強過ぎてラジェターの放熱板が湾曲するほどの強力噴射) 

オイル交換を含むエンジン等床下機械類の分解整備は、状態保存 (エンジン起動) の計画ではなかったため行わず、外観清掃のみで完結。
木箱に収納されていたバッテリーは、容量2ボルト×12個すべてを取り外し。

TR29台車や逆転機についても、外観清掃のみ。
但し、枕崎サイドの車輪1軸のみは正面からの撮影映えのため、黒く簡易塗装を実施。


車内は当初、軽食堂として部分改造に留める計画であったが、車内からエンジン部の観察が出来るように仕様変更。
床を強化ガラスに張り替えるため、全面改装へと変更。



エンジン部の点検蓋を取り外した状態
新製時の点検蓋は床板同様に木製蓋であったと思われるが、晩年(※)は市販の鉄板 ( 縞鋼板 ) で代用していたようだ
(※)1970(昭和45)年9月の記録写真では縞鋼板で確認できる


現役時代の写真
全面改装時に縞鋼板は廃棄処分されたが、一部の板は現在も南さつま市内で活用されている



座席撤去   床板も撤去
床板の下には 協調運転のためのブザー、車内マイク、ラジオ、前後計器類等のための電気コードが走っていた
床板のウラ面に碍子を固定し、各々のコードを配線していた (写真は床板撤去なのでコードと碍子は宙ぶらりん状態)



ブレーキシリンダー(左) と 引き出し式(乗降)ステップと駆動部(右)
全面張り替え時の一瞬だけ全容を窺うことが叶った、貴重な一枚








日置・伊作・加世田・津貫などの主要駅のホーム高さは760mm。
レール面から100型のステップ上面までは985mm、100型の床面までは1,220mm。
単純に (レールの高さを考慮せず) 逆算すればホームからステップまでは225mm、ステップから床までは235mmとなる。
ホームと床面との高低差解消もさることながら、ホームと車輛の隙間を埋める役割も担い、旅客に優しい装置だった。

一方、1962(昭和37)年1月15日廃止されてしまった万世線のホーム高さは460mmのまま残されており (万世線に常時丸型・角型気動車が入線したという記録はない)、本線開業時のホームの姿を髣髴とさせる。
丸型キハ100導入から20ヶ月後の1954(昭和29)年8月に新造され、同年10月7日に許可された角型キハ300型は国鉄型同様に車輛内にステップを設けており、結果として両型ともにホームと乗降口の高さは均等となっている。
100型のペースになった国鉄キハ07はステップを車内に設けているのに、ナゼ100型のみキハ07に合わせず車外にステップを設けたのか疑問が生じるが、増加し続ける旅客人員に対応すべく (因みに戦後のピーク1956(昭和31)年度 367万人) 、1名でも多くの旅客を輸送するため車内6か所の段差を排除し 床面積の最大化を目論み床全面フラット化が選択されたようだ。


万世線で使用されたであろうハフとテフ。
万世線のホーム高さは460mm、
本線の開業時も同様だったのではないかと推測する。

(昭和30年頃(万世線終焉の頃)の記録写真を見ると、
盛り土をして側壁の上に角材を置くことでかさ上げをしていたようだ)


乗降ステップ各様。
段差解消を主目的とした場合、南薩のような収納方式は少数で、上部に格納される折り畳み式ステップが主流となっているが、在来線改軌新幹線ではホームとの隙間解消を目的としているため下方向に格納される。

南薩100型の引き出し式(乗降)ステップは、「車掌が操作するエア作動の踏み板とは連動しておらず、収め忘れて発車すると車輛定規を突破する。当局が「本車輛の踏段操作の取扱については、乗務員を十分教育し、特に危険防止に注意すること」と通達したのは当然であった。」(戦後生まれの私鉄機械式気動車(下)湯口 徹) また、「うっかり引き込み忘れると危険なので、当局から車掌の監視下に置くよう、他形式と2輌連結の時にはいつも後部に連結するよう指導を受けた」(鹿児島交通南薩線(下)(高井薫平 田尻弘之))」 と、乗務員による直接操作により収納を確認した後の発車がMUSTであったが、現代の新幹線は走行しながら自動収納される。



床の全面張り替え工事
床面両サイドに設備されていた暖房用の配管は撤去されてしまった



ほぼ改装完了 最後の仕上げ



4号機関車 整備


残された蒸気機関車は皆そうであるが、運用停止から30年弱、
“雨ざらし”であったり、“雨漏りする車庫”に隙間なく閉じ込められ、酷い状態


鉄道廃止後にあって、鉄道車庫・整備工場も失われたなかで、外部の業者に頼らず、社員だけでよくぞここまで美しく復活できたものだ
単なる業務としてではなく、携わった社員の熱意と愛情があったからこそここまで綺麗に仕上がり、保存が叶った  2013(平成25)年9月撮影



左から、4号機・2号機・1号機
下廻り整備には不向きなグラウンド



4号機の石炭庫 (石炭専用であり、テンダーとは異なり水タンクは一緒に設備されていない)


5月下旬から修繕開始
腐食の激しい後部石炭庫を取り外し、キャブ内の床板も張り替え
取り外された石炭庫はフレームも腐食激しく、すべて処分せざるをえなかった
(運転席搭乗手すり・バック誘導手すり・解放テコ受け・尾灯固定フックなどのパーツを除く)
煙突も腐食が進行しており、切断された。



、1993(平成5)年6月に新製された石炭ケースを載せる
運転席搭乗手すり・解放テコ受けはオリジナルを戻しているが、
バック誘導手すりはこれから施工される状態


腐食したシリンダーカバーと薄くなって破れた水タンク側面鉄板を除去。
鉄板はリベットにより接合されていた。
タンク内部にはストレーナー (逆さ円錐型 真鍮材フィルター 上部と側面に通水孔加工) と前進・後退を動作させる逆転軸腕の出っ張りを覆うカバーが確認された。



ストレーナーの拡大写真。

大きさは銘板よりも一回り小さい (上の写真で比較可能)
加世田や上日置などの給水施設でも漉し器は取り付けられていたものと思われるが、給水時間を切られた中では、枯れ葉や昆虫の死骸などの除去程度の網目で大雑把なものであったと考えられる。
給水施設では除去できなかった不純物の混じった原水をストレーナーを介してボイラーに影響を与えない程度まで漉して清水化し、給水パイプから運転室内の注水器(インジェクター)にて蒸気の力でボイラーに送る。
写真は左側水タンクへの装備であるが、右タンクも同様に装備されていたかは確認されていない。普通に考えれば左右のタンクに装備され運転席下で右タンク・左タンクに繋がるパイプからの清水を注水器に向けて分岐させることが合理的と思われるが、両タンクを単にパイプで接合し原水を自由に行き来させ、左側タンクからのみストレーナーを介して清水化し、注水器に繋いでいたことを否定できない。
というのも、1.2号機は片方のタンクにしか装備されていなかったと伝えられている。



錆と腐食


煙突ですら穴が開いている。
途中でブン投げて、鉄屑処分にできたらどれほど楽だったかと思う。
切り取って捨てて、業者に新品を作らせて付け替えることは簡単。
しかしオリジナルを極力残しつつ、如何に忠実に復元するかを考えながら、修繕を進めていくことは、確かな技術に加えて、機関車を残したいとの切なる想いと深い愛情が無ければ到底成し得ないこと。
専門業者任せの優雅な整備ではない、会社職員が本来の業務をおこないながら同時に修復作業にあたった。








2017/05/15 仮公開