加世田駅構内



』のついた写真は第1回目の訪問(1980(昭和55)年3月)、廃止4年前の撮影です。

 ホーム側壁の上屋にかかる部分が、かさ上げされています。
 改修時期は100型気動車導入の頃だったのかもしれません。

 側壁に2箇所穴が開けられています。

 
 恐らく3両編成が当たり前だった頃の、連結・解放作業時の遺構ではなかったかと想像します。
 しかし、不思議なことに2番線の側壁には、この遺構は見あたりません。






 上屋は、国鉄の本線ホームと比べると幅が狭いので、柱も華奢でこじんまりとした印象ですが、地方の非電化私鉄駅としては長大で堂々としています。
 側端部は解放構造ではなく、軒を結ぶ線まで板張りされています。

 特筆すべきは曲線加工した方杖と板張り中央部にある装飾、ならびに白ペンキによる塗装でしょう。


 側端部の拡大写真。

 アの部分はモルタルを塗っているような気がします。半円部は通風孔のような構造ですが、下部が解放されているので必要性はなく、デザインと考えてよいでしょう。
(ただし、内側にも同構造は存在しました) 

 イ・ウの部分も、ともに構造上必要ではありませんが、わざわざ手間をかけています。



(左) 門司港駅の上屋
 ゆったりとしたホームをカバーする大型上屋。流石に関門トンネルができるまで、永きにわたって九州の玄関口だっただけのことはあります。
 しかし実用一点張りで優美さに欠け、ホーム上に荷物が積んであれば貨物駅と間違えそうです。
(右) 日本最北端の稚内駅の上屋
 旅情かおる良い雰囲気ですが、拘りのない平凡な造りです。(昼間見れば“なんてことはない”)


一方、加世田駅の上屋
 老いてしまったとはいえ、気品があると思いませんか?

 18本の華奢な柱が上部で一斉に枝分かれして(花咲くように)屋根を支えている。
 直線構造にあって、方杖と側壁の通風孔(のような)装飾の曲線がやわらかさと繊細さを演出。
 背後の朱色の車輌が、より白い塗装を引き立たせています。

 ほぼ一点で4本の方杖を支えることは、強度の点から “うまくない” と思いますが(稚内のように雪の重みを考えなくて良い?)、デザイン重視だったのかもしれません。

 ホーム上屋の骨格が、古レールであれば曲線加工されているものは都内の駅でも散見できます。
 しかし、曲線加工されている木製のものは全国でも珍しい(※)のではないでしょうか。
 
 丸型の番線表示板と、取り付け方式も良い雰囲気です。ベンチ奥には洗面も可能な水のみも置かれています。
   上屋資料はこちらから

 ※頚城鉄道の新黒井、百間町、飯室各駅の差し掛けは曲線でした

 線路上には上屋位置に合わせて、停止位置目標が設置されています。

 本線ホームと本屋との間、伊集院方には廃車輌の留置線がありました。留置されているディーゼルカーはキハ104。
 大昔は貨物駅だったようです。

 背後の2階建てビルは「寿屋」スーパー。
 

 
 貨物駅を伊集院側から撮影しています。
 貨物ホーム上屋の側端部に飾りはなく、方杖も細く直線です。
 積み卸しを考慮して線路側の柱の位置が棟に寄った造りとなっています。

 写真は1980(昭和55)年3月に撮影しています。3年後の訪問時には取り壊されていました。

 大昔は(赤いプレートガーターのようなものが置かれている)手前のスペースにも一棟建っていました。この倉庫も切妻屋根でしたが棟自体が線路側に寄った構造でした。



 

 伊集院方から枕崎に向けて撮影。

 留置車輌のさらに左に貨物ホームがあります。




 美しい道床と低いホーム。
 長大なホームは鉄道が主要な輸送手段だった頃、留置してあるような木造客車や貨車を機関車が牽引していたときの名残。



 

 本線ホームの上から万世線ホームを中心に休息する気動車たち。

 右手前は救援車だった車輌。
 


 





 (上、横の写真とも)
 「加世田機関車車庫」横に留置された郵便・小荷物専用気動車キユニ105と14号機。

 キユニ105の横に置かれている鉄箱は下部が解放構造であれば、蒸気機関車の排煙を集煙するために庫内で吊り下げられていたダクトのように思われます。
  

14号も現役の頃は鹿児島交通カラーで朱-色に塗装変更されていました。
というのは勿論ウソでサビ止め塗装です。

記録写真はカラーに越した事はないけれど、14号機に関していえば白黒写真のほうが見栄えが良いですね。


 車庫を背にして、丸型102と角型303。

 102が停車している場所は車両洗浄場。


 線路の間に設けられた溝は「アシュピット」。
 アシュは灰で、ピットは穴の意味。
 蒸気機関車が活躍していた頃、燃やした石炭の灰を放出する設備です。
 

 


給水塔を中心に14号機と石炭台

 各駅の給水塔を並べてみました。
 本線ではこのほかに「金山(RM LIBRARY 109より)」と「枕崎」にもあったそうです。
 金山については設置場所・形態ともに不明ですが、枕崎については車庫手前にアシュピットとセットで(日置のような)金属製の円形タンクと、指宿方にもうひとつ合計2箇所、設置されていたようです。

 加世田には、k-Mk-S のほかに、(確認は取れていませんが)h-Iの右手植え込みあたりにも給水塔があったようです。

 本線ホーム枕崎寄り、「信号切替てこ」横にある円形の石組み。
 花壇の土止めのようにも見えますが、給水塔の基礎跡?
 傍らの、水道管が引かれた「手洗い場?」の存在が怪しさを倍増させる。



 現役時代は筑豊産?、三池産?の石炭が山のように積まれていたことでしょう。
 石炭台、給水塔、ともに蒸気機関車の終焉とともに役目を終えた施設のはずですが、20年を経てまだ残されていました。

 蒸気機関車復活の折には、という想いだったのか・・・。

 1981(昭和56)年の会社起案書では蒸気機関車と客車を復活させ、年間315日運行させる計画があったそうです。


 

 

 蒸気機関車、アシュピット、給水塔、石炭台とくれば、次はターンテーブル(転車台)が思い浮かびます。

 南薩鉄道の蒸気機関車は、国鉄の大型蒸気機関車とは異なり、テンダー(炭水車)を連結しないタンク機関車だったのでバック運転は困難でなかったはずです。
 想像ですが、当初から伊集院(始発駅)や枕崎(終着駅)にターンテーブルの設備はなかったと思われます。

 しかし加世田車庫(※)では、(左右動輪バランス維持などのメンテナンスのため?)存在したようで、 恐らくこのアシュピットがターンテーブル跡ではないか(※)と想像しています。



 (※)歯切れが悪く、申し訳ないのですがRM-109での“転車台が加世田に”との記述と、書籍(軌跡−南薩鉄道70年)での加世田機関車車庫改築(1951(昭和26)年)前に撮影した写真のうちの1枚に、それらしい影が写っていること以外の資料が手元無く、ほとんど想像です。このアシュピットは加世田機関車車庫改築前後に作られたと思われます。(ターンテーブルの大きさはC12型入線以前の小型蒸気機関車用で径は3.5m程度だったと思います)



 洗車台先端部から伊集院方の撮影です。
キニ101とキハ106。

このポイントの先には救援車(エ4)が留置され、線路はすぐに車止めにより絶たれています。万世線とは接続されていませんでした。

 k-Pより少し前に出て、キハ106の横あたりから振り向いて撮影。
 左手前からキニ101、キハ303、奥キユニ105、洗車台キハ102。

 100型は国鉄のキハ07と異なり、車体の裾が一直線です。
 各々の乗降扉の床下にはエアーを動力とした引き出し式のステップが付いていますが、意外と距離(段差)があることが分かります。



 k-Qよりキハ106の前方に移動して撮影。

 106の車輪踏面が光り輝いている。現役の証。


 300型は301〜303まで3両在籍していましたが、3両6個のワイパーのうち、左のキハ301の伊集院方のみが窓下についていました。



 プラットホームは1962(昭和37)年1月15日に廃止になった万世線のものです。

 線路、ホームともにカーブを描いています。




k-Rより右に移動して撮影。
石造りの台と金属製のタンクがアンバランスですが、昔の記録写真をみると k-M 同様にコンクリート製の水タンクが載っていました。昭和40年代に燃料流出防護壁の設置とともに、タンクを載せ換えディーゼル燃料用の軽油貯蔵タンクに用途変更したようです。


 タンクの右スペースにはかつて万世線から分岐した線がさらに2線に分岐して敷かれていました。この2線は客車が主流だった頃には主に客車の仕訳・留置線として、気動車に移行してからは主に廃貨物、廃客車、廃蒸気機関車の留置線として使用されていたようです。線路の撤去時期は同じく昭和40年代と思われます。

 右のカラー写真はk-Sの3年前、留置・仕訳線(筆者が勝手につけた名称)の終端部分を撮影したものです。

 k-Sから振り返り、救援車(エ4)の横まで移動して撮影。

 k-Sでの昭和40年代に撤去されたと思われる仕訳・留置線の分岐跡。
 ポイント部分のみ残されていました。

 カーブと柵の設置具合からすると、この先緩やかにカーブして万世線と接続していたように見えますが、まっすぐに進んで接続していました。


 


 そのままの向きで少し後退した位置から構内を撮影。

 手前の分岐が救援車(エ4)への留置線。


 k-Pk-R、ともども目を凝らしてみても救援車(エ4)まで線路がづいているとは思えませんが、
草に埋もれながらもしっかりと続いているようです。

 

 k-V右に写っている給油施設。
 軽油貯蔵タンクと地中をパイプで結び車輌に給油します。100型は300L、国鉄乗り入れの300型は400L、1200型機関車は660Lのタンク容量がありました。
 

 給油施設の横あたりから伊集院方を撮影。
 もう使われることのない一段低い本線ホーム。

 草中に没している分岐はかつての万世線への路。

 電信線の柱が他所よりも高く作られています。

 「」のマーク 池田製菓 現、イケダパン



 



 旅客もさることながら、加世田駅は森林資源の集積所としての役割りも担っていました。
 駅周辺には大きな製材所が存在し、加工された木材は貨車に積み込まれ出荷されていました。

(写真正面の「内野木材」は1963(昭和38)年の空中写真には写っておらず、比較的近年にこの場所で操業開始したようです)



 伊集院方向を1980(昭和55)年3月に撮影。


 左の小屋は「転轍手詰所」と呼ばれるポイント切り替え作業員の待機所です。

 ポイントはスプリングポイントとなっており、伊集院方面への列車(反位側からの進行列車)はそのままトングレールを押し開いて進むことができます。
 伊集院方面行き本線には車庫からの線が合流しており、伊集院方(正位側)より車庫に入る場合は2箇所のポイントの切り替え操作が必要となります。
 車庫へ入線させるべく、転轍手詰所横の “転轍てこ” を操作すると写真のポイントが切り替わるのと同時に、車庫に分岐するポイントへ延びた鉄パイプにより、車庫線へのポイントも一緒に切り替えられる仕組みとなっています。

 奥のポイントは貨物ホーム(訪問時は廃車輌の留置線)への分岐。
 


 3年後の写真k-Yでは石倉が消滅しています。





2010/3/23 公開