南多夫施駅  



 台地の上を走る南吹上浜〜北多夫施間の車窓からは主に畑が見えましたが、北多夫施駅の少し先で台地を10m弱下ったあと、南多夫施駅までの1,000メートル強は「堀川」に沿って広がる水田地帯の中を走行します。
 前後が築堤になっている「堀川」をプレートガーターで渡り、少し右カーブした先が「尾下(おくだり)」集落の最西端に位置する南多夫施駅となります。






雨の中、南多夫施駅。

北多夫施駅舎もこんな感じだったのかな。


 




 埼玉県の「浦和」は“東西南北”では飽き足らず“中・武蔵”までプラスして浦和シリーズ全7駅(“美園”も加えれば8駅)となっていますが、枕崎線(伊集院〜枕崎)にも位置・方位の付く駅がありました。

 “上”が付された駅は
 日置  ⇒上日置 「大川」

 加世田⇒上加世田 
 内山田⇒上内山田
 津貫  ⇒上津貫  いずれも「加世田川」

 両河川の上流地点とのことで“上”を付したようです。

 一方、「南吹上浜」と「北多夫施・南多夫施」は軌道に沿った河川がないために、標高(海抜)によらず「吹上浜」と「田布施に対して地図上の方位をもって“北”と“南”を付したようです。





※田布施と多夫施と多布施とTABUSEとTAFUSE

 江戸のむかしより田布施郷と呼ばれていた一帯が1889(明治22)年の市制町村制施行により田布施村と改められ、1956(昭和31)年に金峰町(現、南さつま市)となるまで永きにわたり「田布施」の地名が地図上に存在していました。
 北多夫施駅(田布施村 大野)、南多夫施駅(田布施村 尾下)ともに1914(大正3)年5月10日に開設されています。
 田布施村内に所在する駅名をナゼ「多夫施」としたのか、正確な理由は一遍の通りすがりにはわかりませんが、すでに1897(明治30)年に山陽鉄道で田布施(たぶせ)駅が開設されていたことから同一表記、同一読みとなることを回避するために「多夫施(たふせ)」と定めたのではないかと想像しました。
 因みに、尾下地区には多夫施神社があります。

   

  南北の両多夫施駅は 「たせ」 と読まれていたのか 「たせ」 だったのか?

 P誌-173、鉄道廃線跡を歩くU巻末資料「停止場一覧」(モト資料P誌-173?)、トワイライトゾーンMANUAL14巻末「連帯線 貨物営業粁程表」、故郷へ-南薩沿線-
(樋渡 直竹写真集)、また物証としては南薩鉄道記念館に展示してある(あった)ホーロー引きの駅名票が「たふせ」と表記されています。
    

 右の木製駅名票の拡大写真では、阿多駅の表示は崩れており微妙ですが、南吹上浜駅のものは濁点はなく「たふせ」のようにみえます。

 ここで話が終われば、「同一表記、同一読みの回避という仮説も満更でもないな」 となるのですが、J誌-194、F誌-246、P誌-419、鉄道廃線跡を歩くV巻頭「廃線探訪」で
、さらに地図の総元締め国土地理院が発行した昭和48年9月30日発行5万分の1地形図「加世田」(地図のページ参照)、昭和29年応修5万分の1地形図「川辺」(日本図誌大系九州U)で駅名が「たぶせ」と表記されています。
 とどめは
鉄道廃止に際して鹿児島交通株式会社が自ら発行した、“軌跡−南薩鉄道70年”のなかで各駅を紹介している「駅の顔」(P5)での「たぶせ」との記載です。


 山口の「たぶせ」を意識して鉄道営業上の正式名称は「きたたふせ」「みなみたふせ」として駅名票もそのように表記はしていたが、“北”と“南”を付せば「きたたぶせ」「みなみたぶせ」で同一読みにならないし、もともと地名は「たぶせ」なので誰も「たふせ」とは呼ばず、「きたたぶせ」「みなみたぶせ」で通っていたと考えることはどうでしょうか。
 上記の路線図ではバス停の名称が「田布施」となっていることが全国規模での鉄道駅の
同一表記、同一読みを回避したということを物語っているのではないでしょうか。私個人の勝手な想像です。

 ところがです、路線図の「北多布施」・「南多布施」の表記、お気づきになりましたか?
 話は振り出しに戻ってしまいました。
    
 よく分からない駅です。


 先述の各資料は「たふせ」であっても「たぶせ」であっても、漢字名が記載してある場合は「連帯線 貨物営業粁程表」の「南多布施」を除き「北多夫施」・「南多夫施」駅となっています。
 私が書籍を調べた限りでは「北多布施」・「南多布施」との駅名は見つけることはできませんでした。
 路線図を作ったヒトが書き違えた?
 路線図を撮影したのが1983(昭和58)年3月なので23年以上も車内表示し続けた?
 自社で発行した書籍“軌跡−南薩鉄道70年”での「多夫施(たぶせ)」との表記との矛盾は?
 秘密裏に駅名を変更したとか??

 公の駅名が読み書きともに統一されていないという変な話です。両駅の木製の駅名標を撮影していなかったために「念のため」のつもりで調べていくうちに深水にはまってしまいました。

 現地に行って金峰町史を紐解くか、地元の方にお話を伺わないと解決できそうにありません。
 とりあえず拙作では、駅名票は「多夫施(たふせ)」となっていた可能性が大きいのですが、国土地理院の地図表記と“軌跡−南薩鉄道70年”に従い「多夫施(たぶせ)」としています。

 田布施と多夫施と多布施とTABUSEとTAFUSEについてご存知のことがあれば是非とも red50kei@gmail.com (←copy貼り付けでまでお願いいたします。

 初日に上日置〜日置間を汽車で移動したものの、最終日に伊集院経由で帰るときには歩き直すつもりでいました。
 この時点まで全区間を踏破したいとの強い希望は持っていたのですが、初日の「軌道修正」により軌道上歩行を断念すると、都合よく軌道と併行する道はなく、畦道は突然草むらの中に消え、農道は川で阻まれ対岸が目と鼻の先なのに恐ろしく迂回しなければならないといったことを繰り返すうちに、万世線を往復した午前中の元気と気力がどんどん失われ、写真を撮ることが目的なのに、ときどき見え隠れする彼方の軌道のために歩道のない国道を傘をさして歩いていることが馬鹿らしくなってきました。
 結局、阿多〜南多夫施間の軌道風景は1枚も撮影できず、相当バテ気味で南多夫施駅に到着しました。
 よく覚えていませんが、歩きながら地図で南多夫施〜北多夫施間の道が軌道に併行していないことを確認して、伊集院行きの列車に合うように歩速を調整したのかもしれません、北多夫施方から阿多方向に向けた構内写真を撮る時間もなく慌しく伊集院行きの103に乗車したようです。

 
 貨物側線は、ぱっと見て写真左の木が植えてあるあたりのように思えましたがホーム跡と見える箇所は雨に濡れて光る道のようです。
  
 北多夫施駅同様に加世田寄りの海側(キハ103の右横)にあったと思われます。

2008/06/11公開