内山田駅 

 上加世田の単式ホームを発車した気動車は引き続き左カーブを加速しながら構内外れの踏切を過ごし、加世田川支流の武田川を上路プレートガーター1連で渡ります。

 左右に水田を見て進むと、左手から寄り添ってくる(※)国道270号線と350メートル余程併走します。
 国道とは伊集院〜加世田の区間では瞬間の会合や田んぼを挟んだり、相当の高低差をもって併走することはあってもこれほどの距離をピタリと並ぶことは初めてです。しかしこれから先、枕崎までは山間の谷間を走るために国道が線路を何度も跨ぎ、右へ左へと位置を変え併走区間も多数存在するようになります。

 加世田川に沿った水田地帯に敷設されたために内山田駅まで起伏はありません、といいますか上加世田駅が竹田神社裏の丘陵外れに位置していたこともあり、加世田川を遡っているのに両駅の高低差は4mほど内山田駅のほうが低くなっています。

 西尾の水田の真ん中を直線で快走すると右カーブした内山田駅に到着です。


(※)道路は大昔は寄り添わず、踏切で越えて山側を走り内山田駅の枕崎寄りで再び交差し(写真F)加世田川を渡っていました。






奥が枕崎方向。 2両編成がぎりぎり客扱いできるだけの長さしかないホーム。

 ローカル線に草生したホームは数あれど、乗降サイドに密生しているという、結構珍しい風景。
 ここまで見事な生えっぷりは伊集院〜加世田間ではなかったことです。

 廃駅でも臨時駅・仮乗降場でもありません。全列車が停まっていました。
 因みに、昭和55年度の列車利用状況(※)は1日あたり40名。昭和55(1980)年10月1日の改正では内山田には6時52分〜19時39分まで16本の列車が停車しており、40÷16 = 2.5 1列車あたり2.5人の乗降があったということになります。

 盛夏にはどんな様子(繁りっぷり)だったのでしょう。


 駅名標が隠れてしまっていますが、“蹴り”の練習台にされてしまったのか駅名が標記されている板が無く、枠だけ残された“風通しの良い” 駅名標でした。
 

(※)加世田市史(上巻)

 蹴りの練習は駅名標だけでは足らず、コンクリート製の改札口にまで及んだようです。

 トタン製の“差し掛け”を支える“方杖”に伊作駅や加世田駅のような曲線加工はされていません。



 
 “内山田駅 なかた理容館”
 “山之口(?)木工所”提供の灰皿。



 待合室の風通しの良さは上加世田同様ですが、より荒れた感があります。


 本線(伊集院〜枕崎)で有人駅から無人化へと先陣を切ったのは、南吹上浜・千河・薩摩久木野と内山田の4駅で1953(昭和28)年6月25日のことです。

 前年の1952年に経営権が地元から鹿児島資本に移り、6両の100型気動車が導入されています。また、翌々年の1954年には3両の300型が導入され、積極投資と時期を同じくして4駅の無人化は行われています。加世田〜枕崎間の3駅については開業から22年目しか経っておらず、貨物取扱いについても同時に廃止となっています。

 採算優先の経営と直接関連するかどうかは定かではありませんが、4駅が無人化・貨物取扱い廃止される11日前に加世田駅構内留置の国鉄客車2両が炎上(うち1両は全焼)し、また4ヶ月前には知覧線白川付近を走行中の混合列車で有蓋緩急車が炎上、死者を出しています。


 早々に貨物取扱い廃止となったため、訪問時交換駅であった痕跡を見つけることは難しかったのですが、写真奥右側にキハ1両分ほどの長さの貨物ホーム側壁が草に埋もれ残されていました。



 

 踏切防護柵(踏切注意柵)です。黄色と黒の警戒色によって往来するヒトや車両に、踏切があることを認識させるための鉄道施設です。

 道路は加世田と枕崎とを結ぶ道路でしたが、加世田川に沿ってバイパスが開通しており地元住民の生活道路となっていました。右に内山田駅があります。

 レイアウトのイメージとして撮影したために、踏切全体を捉えていませんが、阿多駅 E のように踏み板部分を敢えて狭く、通りにくくして自動車を徐行させていたと思われます。


 

 F の立ち位置から左(枕崎)方向を撮影。


 水田の中に敷かれている線路としては、ずいぶん低い位置に路盤が設けられています。水稲が生長すると路盤と同じくらいの高さとなってしまうのではないでしょうか。

 線路から水田までコンクリート溝やブロックなどの構築物がなく、芝のような緑が連続しており、路盤に腰掛けて一服していると車輌に引っ掛けられてしまいそうなほど距離感がありません。



 きれいに曲線を描く細い線路。

 田んぼと路盤・道床のバランスが素敵でF 同様にレイアウト作成参考用に撮影しました。




2011/07/13 仮公開
2011/11/24完結