上田交通 城下駅 (上田温泉電軌 三好停留場、千曲川橋梁)   


 峠の釜飯も食べ終え、延々と続く下り勾配を40分余りも揺られると国鉄上田駅に到着します。ホームに降り立ち、長野寄りに設けられた木製の跨線橋をあがり、本屋とは反対側の業務用かと見紛う狭い通路を進み、階段を降りれば 4番線・上田交通“別所温泉ゆきのりば”です。
 通路同様の狭苦しいホームには、温泉ゆきの白と紺に塗り分けされた昔の電車がドアを開けて、発車時刻を待っています。
 発車ベルが鳴り終わり、ドアが閉まれば“ゴン”という衝撃とともにモーターの甲高い唸りが車内に響き、左カーブの可愛らしい築堤を加速していきます。国鉄のスマートな乗り心地に馴れた感覚からはレールから伝わる直接的な振動と、 揺れに合わせてつり革が“ガッシャン・ガッシャン”左右にぶつかり鳴り合う様に、「こんなに加速して大丈夫なのか」と不安になります。
 踏切を越えたあたりからは直線となり、土手越えの上り勾配を電車はさらに唸りを上げ加速し、千曲川橋梁へと進入していきます。



奥が上田、手前が別所温泉(城下駅)方


右が上田、左が別所温泉方向

 甲武信ヶ岳を源として新潟県の日本海まで367km、日本一の長さを誇る信濃川は長野県内では千曲川と呼ばれています。上田付近は河口から260km強に位置し、上流部として定義されていますが、それでも川幅200m強と充分大河の様相です。


 大昔の千曲川越えは渡し舟によって行われていましたが、1871(明治4)年に中之条と諏訪部(上田駅の長野寄りの場所)間に船橋(船を連ね板を載せて人馬より通行料を徴収)が架けられました。
 堅牢な道路橋が架けられたのは1890(明治23)年11月のこと。長さ203.6m・幅員5.2m、レンガ橋台のブラット構桁木鉄混合橋でした。当初3連であったトラスは1892年の洪水被害で左右に1連づつが加えられ、5連となりました。
 老朽化と幅員の狭さにより2代目上田橋は、初代橋より23m川下に1923(大正12)年12月12日起工されます。総工費281,751円73銭を要し、1925(大正14)年7月に竣工、8月7日に開通しています。桁はプレーストリブタイドアーチ4連、全長203.6m・有効幅員5.5m(全幅7.15m)と大型自動車の対面通行が可能となりました。現在の3代目上田橋は2代目の17m上流に1968(昭和43)年起工され、全長207.1m・車道7.5m・歩道5mとして1970年11月に完成しています。

 一方鉄道橋については、1921(大正10)年6月17日の上田温泉電軌開業時には資金不足により架橋出来ず、千曲川西岸土手下の三好町止まりでした。先に開業していた(1888(明治21)年8月15日)信越線上田駅との接続は叶いませんでした。
 当時の終点三好町と現在の三好町・城下駅の場所は異なっています。そもそも、開業当時の青木線(三好町〜青木)は10.58km全線が県道併用軌道でした。即ち、線路は県道第二線路(現在の国道143号線)の片側を間借りしていたために、初代三好町駅(停留所)は県道脇に位置していました。


 青木線についてまとめてみます。
  1920(大正9)年12月14日起工(上田市史(下))
  1921(大正10)年6月軌道施設完了(上田市史(下))
  同月17日より10.58km営業開始(同日、上田原〜信濃別所8.75km営業開始)(上田市史(下))
  1924(大正13)年8月15日 千曲川橋梁完成 上田まで延長(上田市史(下))
  1927(昭和2)年2月12月城下〜上田原 複線専用軌道新設、三好町停留所・三好町三丁目 廃止(なつかしの上田丸子電鉄・三好町史)
  1938(昭和13)年7月25日上田原〜青木間8.55km道路使用許可期限に合わせ廃止(上田丸子電鉄(下))
  1939(昭和14)年3月19日上田原〜別所温泉を川西線から別所線に変更するとともに、地方鉄道法適用(上田丸子電鉄(上))


 鉄橋建設により上田まで延長した後も1924(大正13)年8月15日〜1927年2月12日までの2年と6ヶ月の間は、従来どおり三好町から10.58km全線が併用軌道であったことが読み取れます。
 “大正13年8月鉄橋が完成して上田駅へ電車は直通となり三好町停留所は通過駅となって、やがて昭和2年現城下駅に移り三好町停留所は廃止となった”好町史(三好町史編集委員会)

 鉄橋建設では県道脇の三好町停留所〜上田駅までの区間を新設し、鉄橋〜城下駅〜上田原駅の専用複線軌道(新線)への切り換えは鉄橋建設より2年と6ヶ月後に実施された、となります。


a の写真で線路のように見えるラインは残念ながら道路工事の補修跡です 戦争を経ていますから線路が残っている可能性はありません)

 “三好町史” では1978(昭和53)年5月に三次町会館に於いて行われた「昔を語る座談会」の様子を掲載しています。青木線に関する興味深い話が多数あったので一部を要約して紹介します。
 
 官鉄上田駅に到着した電車の搬入について
 請け負った葛原組の下請け人足がワイヤーで引っ張って1両は北天の上信館の前まで、2両目は若菜館の前の道路まで、3両目は駅の前に下ろしたところで逃げてしまった。会社は道の真ん中に電車3台放置されて困ってしまったが、母袋さんという人が請け負って、電車の窓に電柱を通して駕籠のような按配にして牛車で“アッ”という間に全部運んでしまった。
 
 三好町の停留場について
 小さいながらも屋根のあるホームもあったし改札口も売店もあった。(ということは道路上に位置した他の駅の多くは屋根はまだしもホームもなかったということのようです) 売店にはキャラメルや饅頭なんかも売っていた。

 運賃と運転間隔と運転について
 電車は15分間隔で運行していて、三好町から青木まで片道20銭、往復買うと36銭だった。電車に飛び乗って車掌に怒られた。八日堂(1月に信濃国分寺で行われる縁日)のときは満員のお客を運び何人も電車から飛び降りて怪我人も出なかった。町の中を走る時は(時速)16kmでなければならないから(ゆっくりだったから怪我人もいなかった)。「今日はタダ乗りした」なんて何人も喜んでいやした。町へ行くときに鉄橋のところで電車に乗せてもらいやした、「おばさん、早く来な」と電車が停まって待ってくれた、諏訪形や小牧の衆も堤防でよく乗っていた。(鉄橋から)上田駅までは5銭だった。
(同座談会で肉うどん10銭、酒1本10銭、つまみ10銭でハイヤー1台50銭、酒2合で8銭というくだりがある→10銭の価値が今の300〜600円くらいだろうか)

 電車について
 京王電車の払い下げで8両ありやしたわ。(玉川電気鉄道の間違い) 二丁目のほうに電車が来ると「ガタン・ゴトン」と、でかい音がしてきて電車が来るのがわかった。 遠くから見ていると電車が線路の上を来るのに波を打って走ってきたね。
 
 廃止後について
 私が来た時は走っていなくて線路だけだった。
 三好町史(三好町史編集委員会)


 開業時に青木線と川西線を走った車輌は、玉川電気鉄道から購入した付随車4両を含む11両の2軸単車でした。その後、譲り受けや新製により増備していきますが、いずれも、ステップ利用で乗降する2軸単車でした。高床車を導入しなかったのは起点の三好町停留場〜上田原〜青木までの全線が道路併用軌道であったために、大掛かりなプラットホームを道路上に設備することが出来なかったからです。
 しかしながら、温泉客も運ぶ川西線(現 別所線)は上田原から別所温泉まで専用軌道であったこと、千曲川橋梁架橋による信越線上田駅までの延長で利用客の増大が見込めることから、上田から上田原まで専用軌道が完成した1927(昭和2)年に高速運転かつ大量輸送可能なボーギー車3両を日本車輌製造株式会社 名古屋製作所に発注します。この3両が翌年の1928年5月22日から1,500ボルト昇圧前日まで58年4ヶ月の間、別所線の顔として走り続けたモハ5251・5152・5153、丸窓電車です。

 丸窓電車入線により城下〜上田原までの複線専用軌道は乗降高さの異なる車輌が乗り入れることとなりました。
 想像ですが、複線を上下線としてではなく、低床の2軸単車用の線路と高床の丸窓電車用との線路に振分けて使っていたとすれば楽しいですね。


城下駅方の土手より千曲川の下流に向けて撮影。
(以下、このページの対比写真はすべて2006(平成18)年11月26日に撮影しています)



城下駅構内外れから鉄橋方向を撮影。
架線柱はコンクリート製に替わってしまいましたが、ビームはそのまま利用されているようです。


城下駅です。

架線柱やビームも立派に、白を基調とした清潔感あふれる駅に変身しました。
とはいいながら、路面電車が似合いそうな小スケールの駅となってしまった、という感想です。
信号機の高さも変わっています。


新・旧ともにホーム面はフラットに保たれていますが、線路からの高さは違っています。


貨物輸送があった頃の保管倉庫のようです。倉庫本来の役目は終えてしまったようですが、旅客用上屋として役目を果たしています。
裸電球ゆえの温かみがあります。
現在は近代的な蛍光灯(そのうちLED?)です。温かみはどうでしょう?

新ホームは旧ホームを土台にして “かさ上げ” していることがよく分かります。


複線時代の名残でしょうか?
ダルマ式転換機の付いたポイントが残されていました。


別所温泉行きホームには大きな庇をもつ倉庫がありましたが、一方上田行きホームの脇には本格的な倉庫と専用貨物ホーム跡がありました。
昔はそれなりの規模の駅だったようです。


 最初の訪問より約半年後にはホームの増設部分の基礎がスチール製に、床が板張りに造り替えられていました。

 新設部分は板張りがコンクリート板に替えられたものの、スチール部分は草色から白に塗り替えられただけで当時のままのようです。


上田方より別所温泉に向けて撮影。
オリジナル(コンクリート製)のホームは随分と短く、丸窓2両編成に対応できなかったのでは?

2012年1月現在、ホーム背面の建設工業の建物は取り壊され、更地となっています。


1972(昭和47)年6月に無人化されたそうです。(それまでは本屋があったということ?)
所在地は上田市諏訪形で、“城下”という地名ではありません。駅名の城下は、1921(大正10)年に上田市編入により消滅した村名を付しています。


 昇圧により旧型車が全廃された後は、5000系「アオガエル(アマガエル)」・5200系(ステンレス)、7200系、1000系と世代交代していきましたが、各世代とも塗装にバリエーションがあり、一見すればおおよその年代が推測できます。
 写真右の7200系は入線時の水色・緑帯から旧上田色の紺帯へ変更されているので、ヘッドマークがなくとも上田電鉄時代の撮影だと推察できます。

 地上駅時代の上田駅は島式ホームだったものの線路は片面にしか敷設されていなかったので、ラッシュ時には城下駅で数回の交換がありました。高架駅に変更後も頭端・単式ホームなので交換は健在です。


20年後の定点撮影。  
複線時代を髣髴とさせる設備もなくなってしまいました。


2012/01/28 仮公開
2012/02/26 完結