樺穂駅
常陸藤沢駅のページで「停車場内の有効長が相当あった」と記載しましたが、筑波鉄道のもうひとつの特徴に「最期まで交換設備が撤去されなかった」ということも挙げられると思います。
レールマガジン1987.4 NO.40 のダイヤグラムをみても全19駅のうち単式ホームの6駅と土浦、岩瀬を除いた11駅(客扱いしていなかった単式ホームの真鍋も含めて)すべてで列車交換がされていました。
パターン運行を実施すればそれなりの交換施設は撤去できたはずで、若干のメンテナンス費用削減は行えたのではないかと想像できますが、国鉄の時刻改正ごとに接続をあわせていたのであれば、そうはいかなかったのかもしれません。
岩瀬発土浦行き760型 762の連続写真はこちらから。
桜の木に飲み込まれてしまいそうな岩瀬行きホーム。
岩瀬側から土浦方向を望む
筑波鉄道は起点で国鉄常磐線、終点で水戸線と接続していた以外は中間駅で国鉄線もしくは民営鉄道との接続はなかったはずと思っていらっしゃる方、これは旅客鉄道に限った話であれば正解です。(国鉄自動車の接続もなかったものと思われます)
しかし、貨物についていえば、ここ樺穂で石材採掘販売も営んでいた樺穂興業という会社が敷設した609ミリの軌道(動力は電気でも内燃機でもなく人力(所謂、人車軌道))がありました。
大正12年から昭和20年代後半まで加波山から産出される良質な御影石(花崗岩)をトロッコに載せ自重で勾配を利用して下り、原石もしくは製品を右手隅に写っている貨物側線で筑波鉄道に載せ換え消費地へ向けて発送していたようです。
軌道は痕跡もないようですが、現在でも石材加工所はいたるところにあります。
現代の地図を見ても樺穂という町村、集落名はない。
小学校や橋名にわずかに残っているのみである。
1954年に真壁町と合併し樺穂という村名が消滅したためである。
空気バネを履いていた504型 キハ505
気動車というより、パンタグラフを載せて 「電車です」 といっても違和感がないほどスマートな車輛。昭和34年(1959年)生まれというから驚きである。
「この車輛どこかで見たことがあるなぁ〜」と思って鉄道雑誌をめくっていたら、同和鉱業小坂鉄道で走っていたキハ2100形と製造メーカーが一緒でした。
外見上の主な相違点は
他にも相違点は沢山あるのでしょうが、ざっと見た目こんなところです。
片上鉄道と弘南鉄道にも似たような車輛がありましたが、小坂鉄道からの移籍車輛でした。
※F誌184号では3,845ミリ RM誌では3,795ミリ
3,675ミリは両誌とも一致
左は500型 キハ503。
この 503の台車はバネ式でした。
昭和32年生まれの国鉄キハ21スタイルの 761と昭和34年生まれの土浦〜筑波間の急行用として新製された 503。
こうやって並んでしまうと、今まで違和感なく筑波の風景に溶け込んでいた761が急に「いもっぽい、垢抜けない、無骨」、片や503は「洗練されている、端整、スマート、都会的、女の子にモテそうと」、つい比べてしまう。
駅本屋のある土浦行きホームで躑躅色の花を咲かせている木は何でしょうか。
補足のページ作成のついでに見てきましたが切られてしまったようです。
寒風をさえぎり、盛夏には絶好の木陰を提供してくれたことだろう。
軽便鉄道として土浦〜筑波の開業から遅れること5ヵ月、大正7年9月に真壁〜岩瀬間が開通し全通したが、さらに3年半後の大正11年3月に樺穂駅は樺穂興業により開設されている。
木々たちはいつの時代から樺穂駅をみつめてきたのであろうか。
503が行ってしまうと、やっぱり日本の田園風景には国鉄スタイルの車輛が一番似合う。なぁ〜んて、手のひらを返したりして。
廃止間際まで運用されていた気動車達のエンジンはすべて「DMH17」でした。
このうちキハ301・503・504・505は「DMH17H」で、シリンダーが水平方向に配置されている横型。これ以外の車輛達は「DMH17B」シリンダーが上下方向の縦型です。
因みに「DMH17」とは、Diesel-Motor・8気筒・16980ccとの意味で直列水冷4サイクルだそうです。
同方式で原動機付自転車のエンジンを表示すると 「GMA0.05」法則は分かりましたか。
2009/10/03 更新