車輌(気動車)

このページでは100型、300型を中心に紹介します。

『★』のついた写真は第1回目の訪問(1980(昭和55)年3月)、廃止4年前の撮影です。

 キニ101の枕崎方のTR29(※)駆動台車。
 ※国鉄での形式名です、川崎車輌としての型式型番は不明です。「TR29タイプの台車」が正確な表現かもしれません


 旅客用の台車としては台車枠が細く、隙間が多いので「華奢」な印象です。
 前身は1932(昭和7)年から製造されたキハ36900(車輌称号改正後のキハ41000)で採用されたTR26をベースに、重量に耐えうるべく改良を加えています。

 左の車輪にのみエンジンからプロペラ軸(推進軸)と車輪に取り付けられた逆転機を通して動力が伝えられ、動輪として駆動しますが、右の車輪には動力が伝達される仕組みにはなっていません。故に1台機関・1軸駆動です。


 動輪(主動軸)に向けて、砂まき管がつけられています。

 

 もうひとつ、キハ104の駆動台車。
 本線のプラットホームの上から撮影しているため、俯瞰気味に写っています。
 
 この104、1980(昭和55)年3月の訪問時には稼動していましたが(昭和55年2月に検査しているから当たり前?)
1983(昭和58)年3月の撮影日時点ではご覧のとおり検査切れで、本屋側の側線に木造客車や木造貨車とともに錆で車輪を真っ赤にして、相当以前から留置されている様子でした。
 車輌剰余で検査費用を惜しんだのか、状態が悪く運用離脱したのか、運用中の102・103・106の部品取りにされたのかどうかはわかりませんが、ネガを極限まで補正して観察してみると逆転機と自在継手までは確認できます。プロペラ軸と接続されていたかは微妙です。エンジンは付いていたのかどうか?


 こんどは、付随台車。
 車輌はキユニ105、伊集院方です。

 100型は国鉄のキハ07に準じているとのことですが、引き出し式のステップを装備したためと思いますが、車体の裾が一直線であり(キハ07のような昇降扉下部の裾下がりがない)スポーク車輪とも相まって、台車の美しさが際立つ車輌です。


 
 1980(昭和55)年3月に撮影しています。


 


 100型用TR29、予備台車一組。
 
 別の場所で保管しているのでしょう、重ね板ばねがついていないため一見するとTR26に見えてしまいますが、軸距が長いのでTR29で間違いありません。
 
 「軸ばね(コイルばね)」の弾性により「菱枠柱」に挟まれた「軸箱および軸受」が最下部に位置しています。

 
 かつてはオリジナルエンジンの100型(DMH17)と300型(DH-2)も予備として保有していたそうです。

 
 台車(TR29・TR26)の資料はこちらから

 












100型について
 (丸型)
 なにより、国鉄のキハ07に似ています。
 
 国鉄“キハ07”の外見上の特徴は前面が流線型になっていること。
 国鉄では戦前に65両、戦後に20両、合計85両が製造されました。
 戦前型は試作として3両のディーゼル機関を搭載した以外は、残り62両がすべてガソリン機関を搭載。 前照灯は屋根上に脱着可能な外付けでした。
 一方戦後型20両は当初よりディーゼル機関を搭載し、かつ前照灯は車体に埋め込み、客用扉はプレスドア、車体には戦前型と異なりリベット打ちがみられないなどの特徴があります。

 故に、鹿児島交通の100型は国鉄でお役御免となった戦後型を貰い受けたのではないかと思われるかもしれませんが、鹿児島交通(当時 南薩鉄道)が1952(昭和27)年に川崎車輌に6両発注したオリジナルです。
 独自発注ゆえに国鉄“キハ07”の外見とは、車体の裾が一直線であること、乗降扉の床下にエアーを動力とした引き出し式のステップを6個装備していること、前頭部の雨樋がないこと、尾灯も前照灯と同様に埋め込み式であるところなどが異なります。
 
 1952(昭和27)年10月7日設計申請、同年12月8日許可、12月15日配置。
 定員は、座席が4人掛けクロスシートのみで車輌中央の乗降口より前後左右5組の配置で80席、立ち席が40名で合計120名。
 運転室は片隅式で、横のスペースは小荷物置き場として活用できるように前部ガラス破損防止のための保護棒を渡してありました。
 ドアはプレスドアですが自動開閉はできず、手動式です。
 エンジンは“水冷・4サイクル・8気筒・縦型・直列・ディーゼル”DMH17(150HP)、動力伝達装置は機械式の4段ギアを装備していましたが、1970(昭和45)年3月にエンジンをDMH17C(180HP)、動力伝達装置を液体式のTC-2に載せ換えています。しかし液体式の変速機を装備した後も、併結運転では2台以上のエンジンをコントロールすることが出来ず、車輌ごとに運転手を乗務させブザーの合図で各々エンジン・ブレーキ操作をおこない運転していました。

 鹿児島本線への乗入れ運用もありましたがATSを装備しておらず、鹿児島本線の保安規格に適合しなくなった(遅くとも1966(昭和41)年5月)以降の入線はなかったはずです。(1965(昭和40)年5月時点での入線記録あり)

 1968(昭和43)年頃に窓下までブルー、窓クリーム、窓上から雨どいまでブルーの塗りわけから、赤単色でワンポイントの青帯へと変更しています。

 101と105の2両は郵便・小荷物専用気動車に改造されました。
 郵便・小荷物の輸送は客車列車廃止以降は貨物列車に郵便・小荷物専用客車を併結して行っていましたが、1971(昭和46)年4月の貨物営業廃止を受け、同車の客席を撤去し側面のガラス部分(扉と一部の窓をのぞく)に木製の保護棒(保護板)を新設し、郵便・小荷物専用気動車としています。

101 キハからキユニへの記録上の変更は、車輌設計変更許可 1971(昭和46)年4月10日、車輌竣工届け 1972(昭和47)年7月28日となっていますが、実際は貨物営業廃止より空白期間なく郵便・小荷物輸送が行われていたようです。1975(昭和50)年3月10日に郵便輸送が終了した後も、キユニ101を名乗っていましたが、恐らく1981(昭和56)年6月の検査でキニ101に変更されたようです。1983(昭和58)年6月に発生した加世田水害以前より定期運用はなかったようで晩年は加世田駅構内に留置され、鉄道廃止後に解体されました。
102 加世田水害による道床流出・橋梁損壊で枕崎に取り残され、廃止まで270日余りを残して予期せず運用離脱しました。加世田に戻ることなく枕崎で解体されています。
103 加世田水害後も走り続け、「さよなら運転」で運用されました。廃止後は南さつま市加世田で保管されています。(2009年7月現在)
104 1980(昭和55)年3月の時点では運用についていましたが、加世田水害の相当以前より運用離脱しました。鉄道廃止後解体されました。
105 キユニへの記録上の変更は、車輌竣工届け 1973(昭和48)年7月26日となっていますが、それ以前に改造・運用されていたようです。また、加世田水害以前より定期運用はなかったことも101と同様です。鉄道廃止までキユニ105を名乗り、鉄道廃止後解体されました。
106 加世田水害後も走り続け、「さよなら運転」で運用されました。鉄道廃止後解体されました。


 キニ101の車内。

 フィルムスキャン&プリントのS 様よりお借りしました。
 キユニ・キニの外観写真は多数残されていますが、車内の記録はとても貴重です。

 概ね荷物室7、郵便室3に間仕切りで分割し、郵便室には郵便仕分け棚と椅子が設備されていました。1975(昭和50年)3月をもって郵便輸送が終了とのことで、撮影時点では郵便室は撤去され全室荷物室となっています。

 座席とパイプ製の網棚ならびに巻上げ式カーテン一式(右前部を除く)を撤去し、床には左右4本の“滑り木(?)”を埋め込んで張替え、内張板を補強、窓には窓ガラス破損防止用の保護板を取り付けています。一方、扉は荷役作業効率に優れる幅広扉に改造されず、6扉すべてがオリジナルのままです。また、スピーカーやモダンな角型の白熱灯カバーも、客扱い当時のまま残されています。外観は塗装を含めて客車時代と変わりませんでしたが、サイドから見れば窓に施された保護板により容易に区別出来ました。(知識不足で推測ですが、床隅の配管は温水暖房管? 左手前にはありません 末端部しか覆われていないカバーは旅客車輌時代には管全体を覆っていたと思われます  また微細ですが、天井の左右にある通風孔が「ディーゼル動車カタログ(※)」に掲載されているキハ101新製時の写真には写っていません)
(※)RM LIBRARY キハ07ものがたり(下)収録 機械式ディーゼル動車(南薩鉄道キハ101形) 川崎車輌カタログ


 撮影日は1981(昭和56)年4月とのことで、宅配便が競って全国展開しコンビニエンスストアーで宅配便取扱いを始めた時期にあたります。
 専用車輌による小荷物輸送終焉直前の1枚です。
 1983(昭和58)年3月の時点ではキニ101、キユニ105ともに加世田車庫で車輪を真っ赤にして、運用に入っている様子はありませんでした。しかしながら、小荷物輸送自体は旅客用気動車の運転席横のスペースを利用して(まだ細々と)続けられていました。
 (伊作駅C、北多夫施駅B、加世田駅-本屋h-L ご参照)
 
 1971(昭和46)年4月の貨物営業廃止時に、郵便の取扱いが無ければ半室荷物気動車 “キハニ” となったかもしれません。もしくは、小荷物取扱量が少なければ “キハユニ” の可能性もあったかもしれません。
 片側3つの扉のうち運転席寄りのひとつを荷物用幅広扉に改造し、真ん中の扉を郵便室専用、もうひとつの運転席寄りの扉は定員36名の旅客用として使用、しかも車輌は流線型の07タイプ。想像するだけで楽しくなります。因みに国鉄のキハ07では4両が“キユニ”に改造されています。(“キハユニ”の改造はありません)

 実際のところ改造後に、窓の保護板がフルに活躍するような小荷物取扱いが何度くらいあったのでしょう?


 左 : キハ106
 右 : キニ101
 
 側面から眺めれば窓に付けられた保護板の有無で、旅客用気動車と小荷物輸送用気動車の区別はすぐにつきます。


 角型キハ301を先頭に丸型キニ101を従え、加世田駅を発車した伊集院行き列車。
 
 総括制御可能な300型が先頭に立っても、100型にその機能が無く キ二101にも運転手が乗車していたはずです。(トレーラーとしてぶら下がっていた可能性はアリ?)

(2011/11/27追記)



 フィルムスキャン&プリントのS 様よりお借りいたしました
 
    つれづれ操車場
     鹿児島交通 南薩線 (その2)

 100型6両、300型3両、全9両すべてを撮影されており、車輌派の方々にとっては床下など、情報量の多さを実感できるサイトです。

  









300型について (角型)
塗装が変わると、国鉄の気動車にそっくりです。

   

   
    
 300型は100型導入から20ヶ月後の1954(昭和29)年8月に同じく川崎車輌で3両新造され、同年10月7日に許可された南薩鉄道(当時)オリジナル車輌です。
 設計のベースとなった車輌は、同1954(昭和29)年から製造された国鉄のキハ16です。キハ16は片エンドにしか運転台を装備しておらず(単行での運行不可)、南薩鉄道用に両運転台に設計変更して製造されました。翌1955(昭和30)年10月より製造開始された両運転台キハ10の先駆けとなった車輌です。

 (300型を手本として作られた?)両運転台キハ10との相違は、300型は全長・全幅・心皿間距離(台車間の距離)ともに30mm短く、自重が0.12t少なくなっています。また、エンジン形式はキハ10が“水冷・4サイクル・8気筒・縦型・直列・ディーゼル”DMH17B(160PS)に対して300型は大型バス用ディーゼルエンジンを改良した過給機付きの6気筒・DH2LP(160HP)を装備しています。変速機は両形式とも液体式ですがキハ10はTC2もしくはDF1・15を装備しているのに対して300型はDFN115でした。このほか外観では貫通扉部幌取付の可否に相違があります。


 座席レイアウトは4人掛けクロスシートが8シート×2列×4名で64名、これに4箇所ある乗降扉横の3人掛けロングシートで12名が加わり座席76名、立ち席が44名で合計120名となっています。(両運転台キハ10の公称定員数は座席76・立席36 合計112名と8名の差異がありますが、算出基準の相違によるもので両車両の座席レイアウトが異なっているわけではありません))
 運転室は全室式ですが。客室とは全面を間仕切りしておらず、反運転席側と貫通扉のある中央部の上部4/7ほどはオープンされていました。

 300型併結時には、客室との間仕切り板と貫通扉を開放すれば運転室が間仕切りされるとともに通路スペースが確保され、連結器上部の“サン板”を下ろして車輌間移動は可能となりますが、車輌前面に取り付けられた転落防止用(?)のスチールパイプ(手すり)は申し訳程度についているに過ぎず、(幌の装備がなかった300型では)旅客の車輌間移動は行われていなかったように思われます。
 ドアはプレスドアで乗務員がエアー操作により自動操作が可能となりました。開放は同様に乗務員がスイッチ操作でエアーを抜くことにより閉鎖解除され、旅客が手動で開けるという、閉動作のみできる半自動方式でした。
 台車はキハ10と同様に動力台車がDT19、付随台車TR49です。

 100型の動力伝達装置(変速機)が機械式で、併結運転でも各々の車輌に運転手を乗務させエンジンコントロールが必要だったのに対して、300型は当初より液体式変速機DFN115を装備し300型同士の“総括制御”が可能でした。(同じ300型であるならば3両編成でも一人の運転手で運転可能 (300型と100型の併結ではどちらの形式が先頭であっても運転手は二人必要))
 鹿児島本線への乗り入れは1949(昭和24)年2月20日(西鹿児島発加世田行きは19日から?)より国鉄の客車にて2往復行われていましたが、300型導入直後の1954(昭和29)11月11日より南薩の100・300型により3往復乗り入れることとなりました。
 (気動車による3往復乗り入れ後も1962(昭和37)年2月まで1本の直通客車列車が残されていたようです。 (1往復にあらず(往路は加世田発西鹿児島行き始発気動車列車のすぐ後に発車していた (復路は伊集院止まり?で、南薩線内では別のスジとして運行?))))

 その後、鹿児島本線のATS設置にあわせて300型3両にATSが装備され、以降の乗り入れは300型に限定されました。

 当初は青とクリームの塗りわけでしたが1964(昭和39)年11月から翌年2月にかけて、赤単色でワンポイントの青帯へと変更しています。



 
 1968(昭和43)年に台枠を改造してエンジンをDMH17C(180HP)に載せ換え、動力伝達装置もTC-2に換えています。また、貫通扉の通風口設置も同時期に行われたようです。

 ワイパーは新製時には窓下に装着されていたと思われますが、晩年は(キハ301の片エンドを除き)上部に付け替えられていました。
 

   ※キハ301のワイパーは1983年では伊集院方(加世田駅構内)では下部についていますが、1980年では同じく伊集院方(加世田駅構内)の上部についています。同じ伊集院方なのでc・dで確認できる取付跡があるべきですが、bをどのようにご覧になりますか? 因みに1983年での枕崎方のワイパーは上部に取り付けられていました。1980〜1983の3年の間に鹿児島駅のターンテーブルにでも乗って方向転換したのでしょうか?
 ついでに、前面部の車輌形式番号標記は左下部に取付てある製造メーカー銘板下の表示に加えて、晩年の301と302ではサン板裏にも表記されていましたが、303のみ表記されず青の塗装帯が描かれていました。


301〜303 3両とも旅客用ディーゼルカーとして加世田水害後も走り続けました。 鉄道廃止後、全車解体されました。



(資料)


300型とキハ10の写真で比較できれば良かったのですが、手持ちの写真は茨城交通時代のキハ11しか無かったので、キハ10とキハ11について取り纏めてみました。

 キハ17  1953(昭和28)年から製造された国鉄の運転台(便所つき)気動車
                       
 キハ16  1954(昭和29)年から製造された国鉄の運転台気動車
                       キハ16をベースに両運転台車として300型を設計?
 300型   1954(昭和29)年8月に南薩鉄道が新製。国鉄に先立ち日本初の貫通扉を持つ運転台気動車
                             南薩鉄道300型をモデルにしてキハ10を量産?
 キハ10  1955(昭和30)年10月より製造開始された国鉄の運転台気動車
                             キハ10をベースに便所を設置
 キハ11  1955(昭和30)年11月より製造開始された国鉄の運転台(便所つき)気動車


 キハ11-19 キハ11-25とも昭和31年に東急車輛で製造され1980(昭和55)年8月18日付けで真岡機関区より茨城交通移籍しています。移籍後に乗務員室と乗降扉の間に設けられた便所は撤去され、便所位置にあった窓は埋められました。(写真

 南薩鉄道(鹿児島交通)の300型に便所の設備はないので乗務員扉と旅客用扉は隣接し、車輌前後で扉位置のバランスがとれています。

(その後キハ11-19は解体処分 キハ11-25は さいたま市 鉄道博物館 にて保存(2009年現在))





 筑波1両・南部縦貫1両、以外に移籍したキハ10は、水島臨海鉄道(キハ351〜357(元キハ10-3,4,5,7,53,58,60))7両、鹿島臨海鉄道(キハ1001,02(元キハ10-11,36))2両、加悦鉄道(キハ1018(元キハ10-18))1両、の合計12両。 またキハ11では津軽2両と茨城交通の写真2両の他にキハ11-26が加わり、合計5両。 総計17両となっています。
 さらに、キハ16、キハ17では島原鉄道でキハ16(キハ1601〜03,05(元キハ16-16,18,21,76))、キハ17(キハ1701〜03,05(元キハ17-30,34,35,91))の8両、関東鉄道では8両(キハ16が3両?、キハ17が5両?)総計16両が移籍しています。
  

  


DD1200について
 
  1961(昭和36)年当時、国鉄ではヤードにおける入換機関車を無煙化するためにDD13型ディーゼル機関車を370PS/1300rpmの出力から 500PS/1500rpmに増強、前照灯も2灯にするなどの改良更新を重ね、大都市を中心に多数投入していました。
 南薩鉄道でも無煙化を念頭に同年ディーゼル機関車を導入します。
 気動車新製時のように、国鉄の最先端ディーゼル機関車が導入されなかったのは、DD13の運転整備重量(運転可能な整備後の重量)が稼動中のC12型蒸気機関車の50tに比べて6.5tも重く、加世田〜枕崎間ならびに支線区間の脆弱な線路規格に合致しなかったためで、小型軽量な新三菱重工(三原製作所)製の2両が選択されました。

 

 DD1201は1961(昭和36)年11月に製造(機関車番号では15号、通し番号では16号)、許可は同年12月26日、翌年2月15日定期列車使用開始。
 一方のDD1202(機関車番号では16号、通し番号では17号)は、1年遅れの1962(昭和37)年12月製造、翌年1月25日より使用開始となりました。
 納期に約1年の開きがありますが、両機関車に外観・性能の差はありません。
  
 100型・300型気動車導入以降、貨物列車および支線の旅客、本線での朝夕の混合列車の運行に狭められていた蒸気機関車は2両目のDD1202入線より40日後の1963(昭和38)年3月5日に全車廃車となっています。

 外見は国鉄のDD13初期型(〜第6次)のような凸型ひとつ目玉でバックミラーをつけています。
 塗装は赤単色、屋根や台枠側面の塗装は時期によってバリエーションがあったようです。また、スカートの警戒トラ模様はDD1201が上向き(山型)、DD1202は下向き(谷型)に塗り分けられており、遠方からでも車番の特定は容易です。
 加世田以南および支線区間の線路規格での制限により小型機関車とせざるを得なかったため、牽引定数はC12型機関車の15(150t)に比べて12しかなく、入線当初は貨物量が多かったこともあって、夏場の起伏の連続する区間ではたびたびオーバーヒートを起こしたそうです。運用に余裕があるときはプッシュプル(※)も行っていたようですが、オリジナルラジエーター性能アップのための小改良に加え、1968(昭和43)年頃にラジエーターを増設したこと、また貨物量の減少とも相まってオーバーヒートは改善されていきました。

 しかし活躍できたのは10年もなく、1971(昭和46)年4月3日の貨物営業廃止により定期運用はなくなり、以降は工事列車などの利用に限定されます。
 晩年はDD1202のみ稼動していたようでDD1201は車庫の中で埃をかぶり、廃車然となっていました。


※プッシュプル 編成先頭機関車が引いて後尾の機関車が押し上げる 


DD1201・2 2両とも鉄道廃止後は南さつま市加世田で保管されています。(2009年12月現在)。






ディーゼルカーからみた南薩鉄道(鹿児島交通)

 1945(昭和20)年の終戦から6年後、漸く気動車の量産が可能となる。
 翌年の1952(昭和27)年に国鉄向けの20両のキハ07とともに、南薩鉄道の6両の100型テーゼルカーは製造された。
 国鉄でもまたまだ車輌不足で、石油統制が解除されたばかりのこの時期に、日本最南端の一私鉄が最新式のディーゼルカーを一挙に6両も新製したのだ。しかも床面をフラットに保ち、扉床とプラットホームとの高低差を緩衝するために、扉下部の床下にエアーを動力としたオリジナルの “引き出し式ステップ”を装備して。
 さらに、2年後には国鉄に先立ち日本初の、貫通扉を持つ両運転台ディーゼルカー300型3両を新製。合計9両で旅客列車の大半を受け持った。
 この時点で南薩鉄道は間違いなく日本の非電化私鉄の最先端に位置していたはずだ。九州はもとより、大阪・東京にだって恥ずかしくない車輌である。当時の鹿児島本線(伊集院〜西鹿児島)の列車はすべて蒸気機関車牽引であり、“最新式ディーゼルに国鉄職員も見学に来るほど”だったそうだ。戦後の復興・成長に加え、さつま湖・吹上浜の観光開発ともあわせ南薩鉄道は前途洋々としていたに違いない。
 さらに、1962(昭和37)年2月にディーゼル機関車DD1201の運用を開始、九州初の門司機関区へのDD13(No.122〜125)4両配属1ヶ月前のことである。1年後の1963(昭和38)年3月には蒸気機関車を全廃する。(因みに島原鉄道の蒸気機関車廃止は1968(昭和43)年、国鉄九州での蒸気機関車廃止は1975(昭和50)年)

 しかし、南薩鉄道が持ちこたえることができたのはこのあたりまでで、高度経済成長とともにヒト・モノ・カネが都市部へ流入し国策で道路整備が進むと、南端のしかも半島という地理面から旅客数・貨物量の減少は他所よりも顕著にあらわれる。
 支線の廃止を前後に挟み1964(昭和39)年9月、バス運輸会社の三州自動車に実質吸収、社名から“鉄道”が外され、バス運輸主体会社「鹿児島交通」の鉄道部門という位置づけとなる。
 
 旅客のバス・自動車への流出防止には、正確性・快適性・スピードなどのサービスに加えて、乗客数に応じたきめ細やかな車両の増結提供が必要であるが、総括制御のできる車輌は300型3両のみ、100型6両は車輌毎に運転手の手配が必要で、人件費抑制の観点からも100型の総括制御改造が要望される。しかし、変速機に加えて逆転機の変更、老朽したエンジンの交換(300型は併せて台枠補強も必要)と、導入時の先見不足と詰めの甘さより多額の改造費支出が見積もられた。
 当然のことながら過疎化著しい地域で、一時支出を伴う積極投資をおこなってまで同社内の鉄道部門とバス部門を競合させる必要はなく、必要最低限のメンテナンスで現状を維持する消極策が選択される。同時期に鉄道人員も大幅に削減され100人程度で60km、23駅、11両の動車を管理することとなる。
 他の私鉄が国鉄から程度の良い中古車輌を取得したり、次世代気動車の新製導入が進むなか、古い・狭い・見劣りのする車輌を永きに亘り使用するしかなく、保線や駅舎の管理も最低限に抑制される。外的要因と、サービスの低下が更なる旅客減少を招くといった内的悪循環も加わり、鉄道離れは加速する。
 戦争直後の旅客は 404万人、戦後のピーク(1956(昭和31)年度)では 367万人を記録したが、1983(昭和58)年度の旅客数は戦後ピークの85.5%減、53万人にまで落ちた。

 終焉間近、“最先端で地元の自慢だった車輌たち” 即ち300型の手本となり総計730両余りも製造された国鉄10系気動車「昭和40年代には既に陳腐化していた。特に外板や台枠の腐食、すき間風の発生、照明の暗さ、乗り心地の悪さなどは保守とサービスの両面において問題となっていた。そこで近代化工事を開始し・・・ 略 ・・・しかし、延命工事もさほどの効果はなく、昭和52年から40系気動車による置替えがはじまり、昭和57年までに国鉄線上から消滅した(RM POCKET 10 「キハ58と仲間たち」 第4章「量産された液体式 不評をかった末路 ネコ・パブリッシング」より引用)
また、100型は「鹿児島交通には昭和二七年製の車両が六両、二九年製が三両ある。いずれもディーゼルカーで、国鉄ならとっくに廃車にされるような旧式車両ばかりだが、とくに私たちがこれから乗る前方丸型の二七年製は、「総括制御」のできない超旧式の車両である。・・・略・・・こんな珍品列車は、鹿児島交通のほかにはないはずだ。」(「宮脇俊三 著 時刻表おくのほそ道」 「鹿児島交通」 文春文庫 より引用)と、時代に取り残された鉄道であった。

 最盛期には400名余りいた従業員も約40名まで削減されギリギリの運行を続けていたが、1984(昭和59)年3月についに鹿児島交通(南薩鉄道)は廃止される。
 戦争直後の小柄な日本人体型に合わせたビニール張りの「幼稚園バスの如き」窮屈な座席に加え、南国鹿児島にあって非冷房(※)の超旧式車輌は当然地元旅客にも不評だったはずである。それでも国鉄の乗り入れ規格を最後まで維持し、“国鉄ではとっくに廃車されていた超旧式車両” が事故なく安全運行されていたことは、大切に使い続けたいとの想いと、細やかなメンテナンス、そしてなによりも鉄道を存続させたいとの強い思いが現場の従業員にあったからに違いない。

 地元資本の南薩鉄道のままであったならば、奮起してレールバスや他社の中古車輌を導入していたかも知れない、しかしもっと早い時期に廃止となっていた可能性の方が大きいだろう。
 鹿児島交通だったからこそ1984(昭和59)年まで存続し、超旧式な気動車が使われていた(鉄道ファンの視点では“残っていた”)のではないだろうか。


1984(昭和59)年夏の通勤線区の冷房率
 関東地区78%(横須賀・総武快速100%、〜東海道99%、〜山手78%、〜武蔵野12%)
 関西地区77%(福知山100%、〜関西59%)、北九州地区66%


  
鹿児島交通気動車の集合写真1983(昭和58)年3月13日 15時59分前
左から104、正面103、横301、右前より302、101、106、105 
102は伊集院、303は枕崎にて発車時刻待ち



 


 

         このページの追加参考資料

             鉄道ピクトリアル  No.105 132 139 211 515
             鉄道ファン      No.57 
             Rail Magazine   No.3 15 23 30 40 43 149 153
             RM LIBRARY    キハ07ものがたり(上・下)、戦後生まれの私鉄機械式気動車(下)
             RM POCKET    DD51と仲間たち、キハ58と仲間たち
                         国鉄・JR・私鉄 乗入れ列車ハンドブック(新人物往来社) ほか


2009/12/24 公開

2009/12/31 300型について (補足)を(資料)とし、説明追加ならびに写真追加
        DD1200について 写真追加
        参考資料追加

2011/11/27 F&PS様写真3枚、説明追加