国鉄 五日市線 大久野駅 (岩井支線 武蔵五日市〜武蔵岩井)


エル特急「あずさ」が行き交う中央本線。東京から「特別快速」に乗って立川駅で下車。
中央線や京浜東北線を退いた昔の電車が走る青梅線(37.2km)に乗り換え、5っ目の拝島駅でさらに五日市線(18.0km)に乗り換える。
五日市線は中央本線からみると支線の支線にあたる。
(定義めいた難しい話は抜きにして)
その五日市線の終点武蔵五日市駅の少し手前から武蔵岩井駅まで所謂、岩井支線(2.7km
(難しい話は抜きにして))は分岐していました。

山梨県のお話ではありません、東京都下に支線の支線の支線は存在していたのです。






父親も含め周りの大人に電車好きがいない環境で、インターネットなどない昔に電車好きの子供が欲求を満たす手段のひとつは地図を見ることでした。
父親が持っていた道路地図巻末には「東京近郊交通図」なる私鉄を含む鉄道路線図のページがあり、前ページの地図と照らしながら飽きることなくイメージの世界を膨らませていました。
ほどなく 「青梅・二多摩」の地図ページで、線路マークに加えて「大久野」、「武蔵岩井」として駅が描かれているのに、巻末の「東京近郊交通図」では線路も駅も描かれていない変な路線があることを発見しました。     

   
(表紙欠落出版元不明(転載許可未取得))

不思議には思っても足立区に住んでいる子供が武蔵五日市まで見に行けるはずもなく、長い間「使われなくなった線路」との認識のまま高校時代の「旧型国電や二俣尾の謎の引込み線、水根貨物線、日向和田の青き洞窟」など青梅線が一段落したあと、二十歳過ぎにようやく初訪問(最後の訪問)となりました。


 当時は休日に新宿発のホリデー特快(当時、そう呼ばれていたか否かは不明)が入線していたほかは、朝夕に数本の東京直通と何本かの立川直通があるくらいで、日中は拝島折り返しの地味な線でした。変化に乏しい11.1kmを20分ほど要して昼も遅い時刻に武蔵五日市駅に降り立ちました。


 1996(平成8)年7月に高架駅となったそうですが、当時は緑に囲まれたのんびりとした雰囲気です。



リクエストにお答えして(?) 引き伸ばしてみました。

低窓、非冷房ひとつ目玉のカナリヤ色103系です。
プラットホームは1本しかありませんが、本屋手前までの短い1番線と本屋に面するメインの2番線、2つがありました。写真ではホームに面していない留置線(?)1線も確認できます。大昔はa・bの架線柱の下にも線路が敷かれていたのかもしれません。

「五日市線武蔵岩井支線縦断面図(東京鉄道管理局作成)」(トワイライトゾーンMANUAL1)をベースに、a・bの架線柱が活躍していた頃を想像して描いてみました。
その後、想像図Cの渡り線およびbのあたりが撤去され、写真Cのホームが新設されたようです。機関区については1961(昭和36)年の電化まではあったようです。


 
 武蔵五日市駅本屋から650mほど拝島方面に向けて進んだ(戻った)ところが支線への入り口「三内信号所」です。

 手前が拝島、左奥が武蔵五日市、右奥が武蔵岩井となります。
 ポイントは片開き分岐となっており貨物列車はそのまま本線と支線とを行き来していました。
 旅客列車も同様に武蔵五日市を通らずに直接支線に入るのかと思えば・・・・。

     
JTBパブリッシング刊「JTB時刻表 1967年12月号」より転載


 



JTBパブリッシング刊「JTB時刻表 1967年12月号」より転載

 

 交通公社の時刻表を見ると武蔵五日市を発着としています。

 架線柱と架線に注目してみてください。
 旅客運送を行っていた頃のポイントはダブルクロスポイント(両渡りポイント)で、写真右側の草が茂っているあたりにもう一本線路が敷かれていました。

 すなわち東京都下に「スイッチバック」が存在していたのです。

  つまり、
  本線は@ ⇔ A
  貨物列車はA ⇔ B
  武蔵五日市発・武蔵岩井ゆきは@ ⇒ C ⇒ B
  武蔵岩井発・武蔵五日市ゆきはB ⇒ C ⇒ @
  となるわけです。


 大久野〜スイッチバック〜武蔵五日市の2.1kmを概ね6分30秒要しています、東秋留と西秋留(現、秋川駅)2.2kmが3分30秒ですのでスイッチバックのために3分ほど時間を織り込んだということになりましょうか。

 1967(昭和42)年10月では、早朝6時台に2往復と17時から21時までが4往復、1日合計6往復が運転されていました。
 西武池袋線の飯能駅(埼玉県)や東武野田線の柏駅(千葉県)、小田急江ノ島線の藤沢駅(神奈川県)のようなターミナルとは異なり、山里にあって客扱いをしない(旅客ホームのない)スイッチバックが東京都に存在していたのです。しかも武蔵五日市駅に6時55分到着後は17時14分発まで、日中の時間帯に10時間19分間も運転がないというオマケまでつけて。
 因みに運用車輌はチョコレート色の両運転台のクモハ40があたっていたそうです。




1961(昭和36)年9月5日撮影の空中写真では“青の点線”部分が撤去されているほかは“赤の実線”、“赤の点線”は使用されているように見えます。
1974(昭和49)年12月26日撮影の空中写真では“赤の実線”を残して、ほかの線は撤去されているように見えます。


 


 大久野駅遠景。中央ドア(貫通扉)を開け放ち、お昼寝中(時間調整)のED16。

 高原の駅のような雰囲気です。
 本線から比べるとずいぶん細くなった線路。

 架線柱はほぼ木製です。
 ビームはアングルを渡していますが、昔の側線がたくさんあったときの名残なのか2線以上に渡る長さのものもあり、全体的に華奢な印象です。



 

 旅客営業廃止より9年後、車庫と化した本屋。

 「おおくの」駅ではありません。「おーぐの」駅です。

 駅名票はオブジェではありません。
 1971(昭和46)年2月1日に武蔵五日市〜武蔵岩井間の旅客輸送を廃止(同日付で大久野〜武蔵岩井間は路線も廃止)した後は、貨物駅として「大久野駅」の駅名票を掲げていました。


 廃止前の大久野・武蔵岩井、両駅の1日あたりの利用者数は定期旅客240名、普通旅客18名でした。因みに同区間を平行して走る路線バスは1日55往復運行されていたそうです。
 蛇足ですが2月1日の旅客営業廃止の改正で、東京〜武蔵五日市間の直通電車1往復が新設されています。また、青梅線の氷川駅が奥多摩駅に変更され、青梅止まりだった東京からの直通電車が1本だけですが奥多摩まで延長されています。(鉄道ピクトリアル 1971-04 No..249)



 

 鉄道ビクトリアル1977-02 No.330に掲載されている、1976(昭和51年)10月の「青梅・五日市線機関車運用表」から五日市線の部分のみを列車ダイヤ風に引いてみました。

 台地形の窪み部分については、武蔵増戸駅が標高173メートル、三内信号所が182メートル、大久野が210メートル、工場が概ね220メートルあり、三内信号所から大久野まで高低差28.67メートルを1,183メートルで登坂(24.23‰)するため、ED16機関車の牽引定数を超える貨物量があった場合は武蔵増戸で貨車を分割留置し武蔵増戸と日本セメント間を、2回に分けて輸送していたためのようです。


   
 生産量に対する鉄道輸送利用の割合は1956年では91%を占めていたものが、1970年では13%に激減しています。
 到着貨物については、奥多摩工業氷川鉱山からの石灰石や焼成のための燃料受入れなどと思われます。(西多摩工場では1980(昭和55)年4月に焼成を止めています)
 




 

 拝島方向に撮影。

 その昔、武蔵増戸から上ってきた機関車は大久野駅構内で一旦貨物を切り離し、機回り線をつかって貨物後方にまわり推進運転でセメント工場へ押し上げていったそうですが、訪問時すでに機回り線は使われておらず、
     
 そのままセメント工場内まで牽引していったようです。



 機関車の写真はどうした! 何号機だ! と怒られるのは当然です。


 多くのファンの皆様が、ED16の前面・サイドからの雄姿を記録されていたなか機関車には目もくれず、五日市線の貨物列車の最後尾には「ヨ」が連結されていたとわかる貴重な(?)記録写真です。

 もちろん負け惜しみです。


 日本交通公社刊 「鉄道廃線跡を歩くT五日市線旧岩井支線」に掲載されている、“25km速度制限標識”の現役時代。


 

大久野駅のはずれにある踏切から武蔵岩井方を撮影。

安全側線のように見える車止めから先が、昔は武蔵岩井駅に続いていた、いわばクモハ40の専用線路。左がED16が通った日本セメント工場線です。

この先がどうなっているのか、当然興味はありました。
配線の具合、構内専用の機関車、廃車輌、荷役ホーム、詰所、建物、ひょっとすると工場からさらに奥に延びてゆく専用鉄道・トロッコ(※)・・・・。
しかし、工場内へ軌道を歩いてノコノコ侵入できるはずもなく、また公道から覗くこともままならないと思われ、これ以上進みませんでした。
という訳で、大変残念ながらこれがラストカットです。

(※)トワイライトゾーンMANUAL 14によれば、戦後しばらくの間まで工場から平井川を渡って鉱石運搬のための手押しの、軌間610mmの軌道が存在していたそうです。



最後に岩井支線の主要部を1枚に収めた俯瞰写真。



 当時のことは良く覚えていないのですが、目的があって登ったのではなく気持ちよさそうな山だったから(単に同じ道を武蔵五日市と大久野を往復するのはつまらないから)登ったような気がします。しかし、予期せずAの写真もそうですが、今となっては岩井支線を紹介するうえで機関車の記録とは違った貴重な(?)1枚を記録することが出来ました。
 復路は公道を武蔵五日市駅まで歩き、103系に乗って帰宅しましたが、誰もいない車内のロングシートの上に「大平首相急死」の号外が残されていたのを覚えているので、1980(昭和55)年6月12日の訪問だったはずです。


 朝夕にしか走らなかった旅客列車が1971(昭和46)年2月1日に廃止となったあとも11年半ほどの間、一日に何本かのセメント工場の貨物を扱っていましたが、1982(昭和57)年11月14日に役目を終えました。翌年にはED16も全車廃車となっています。



《追記》 2011/10/21
 通りかがリの K さんより、“鉄道ファン149に大塚正氏 REPORT による、セメント工場の構内図やダイヤが載っていますよ”との、タレ込み情報(K さん曰く)を頂戴しました。
 以下、その他の情報も合わせて追記いたします。
 
 工場内について
 ・本ページ公開当初より不明としていた、工場内の配線図を鉄道ファン149号をペースに描き直して差換えました(配線の位置は厳密ではありません、とくに線路が収束し引上げ線に至るあたりは想像して描いています)
 ・機関車車庫を背にして右端の線(平井川寄り)には「石油類の備蓄タンク」が2基あり、タキ車が集っていました。
 ・構内機関車は三菱重工業三原製作所にて1961(昭和36)年2月製造、25トン、 L型(エンドキャブ)、ジャックシャフトからのロッド伝達方式による2軸動車2輌が在籍していました。
 ・Hを別角度から広角で撮影した写真がRail Magazine 152に掲載されています。

 運用について
 ・Eにて、鉄道ビクトリアル1977-02 No.330より1976(昭和51)年10月の「青梅・五日市線機関車運用表」から五日市線の部分のみを列車ダイヤ風に作画しましたが、同様に鉄道ファン149の「五日市線ED16運用」からもデータを書き写し、列車ダイヤ風に作画してみました。(いつ時点の時刻かは REPORT に記載がないため不明です 1973(昭和48)年9月号に掲載されていることから春前後の運用ではないかと推測します 拝島発着の時間は記載がないため大凡です )


 山が2つある理由については、“ED16機関車の牽引定数を超える貨物量があった場合は武蔵増戸で貨車を分割留置し武蔵増戸と日本セメント間を、2回に分けて輸送していた”Eにて記載しましたが、到着貨物が少なく1回で輸送完了であれば、もう一度武蔵増戸駅まで往復する必要はなく、拝島まで戻るスジの時間がくるまで大久野駅構内で待機・長時間停車していました。


 武蔵岩井駅について
 ・現役当時の写真では単式ホームの上には、木製の小さな片流れ上屋しかありません。現・太平洋マテリアル(旧 日本セメント)の敷地内にある大型の切妻屋根の自転車置き場は鉄道施設ではなく、鉄道廃止後に建築されたものではないでしょうか? 





《更なる追記》 2011/11/18

武蔵岩井駅について-2
 武蔵岩井駅について「モヤモヤ」するので現地に行って、調べてみました。

 @は五日市郷土館、「五日市線86年の歩み」に展示してあった写真パネルの一部を写したものです。
 説明票には昭和55年撮影・昭和46年廃止と表記され、矛盾しています。本当の撮影年月日は不明です。したがって廃止間際に上屋が改築された可能性は排除出来ません。
 しかしながら、同駅を終端部の線路サイドから撮影した写真が、山田俊明氏「多摩幻の鉄道 廃線跡を行く」ならびに「東京の鉄道遺産 百四十年を歩く  発展期篇」両誌に、廃止3日前の“1971年1月29日撮影”との注釈と共に掲載されていました。両誌の写真ではホームならびに上屋の形状が郷土館展示の写真と同様であり、廃止まで@の小型上屋であったことが確認できました。
 即ち、現・太平洋マテリアル社(旧 日本セメント)の敷地内にある “大型の切妻屋根” は鉄道施設ではありません。鉄道廃止後に建築されたものです。


  次に、プラットホームは現自転車置き場と同位置に存在していたのか?自転車置き場の土台はプラットホームなのか? という疑問について。

 結論から言うと、ほぼ間違いなく武蔵岩井駅のプラットホーム跡です。ただしホームすべてが自転車置き場の土台になったわけではありません。
 @とA、EとFを比較してみてください。
 表層の劣化具合など雰囲気が似ています。
 Bでの側壁は路肩に用いるようなコンクリートブロックが2段積まれていますが、これは植樹した際の土止め用で、ひとつ奥の厚みのある石材()がプラットホームの側壁のようです。また終端部はもっと大久野方に存在し、かつ傾斜が付けられていたので線路と垂直方向の玉石の側壁も後年に造られたものでしょう。ホームの長さについては全長の2/5は撤去されたようです。
 CとDは上屋の柱の位置を比較しています。CにはD・Hの束石の跡が残っています。
 C・Gの束石が角度のある“角錐台”であるのに対して、D・E・Hの束石は“角柱”であり、かつ柱の下部には保護板が4面に付けられていることも、上屋が新たに造り替えられたことを裏づけます。
 国土地理院の空中写真では、1941(昭和16)年7月4日以降、1948・1949・1961、1974(昭和49)年12月26日迄の5年すべてで現駐輪場の位置に小型の上屋を載せたプラットホームを確認することができます。1979(昭和54)年12月9日の空中写真では大型の上屋に変わっています。

  


 武蔵岩井駅廃止より3年11ヵ月後の空中写真です。プラットホームと小型の片流れ屋根の上屋はそのままの姿で残されています。プラットホームの長さについては、「百年史  日本セメント株式会社」に掲載されている工場全景写真ともあわせて確認し、(鉄道)上屋の3.5〜3.7倍程度の長さがあったと推測します。
 軌道敷跡はコンクリート製品(?)が置かれ、また線路と平行して1961年当時3面あったテニスコートも駅寄りの1面が駐車場に転用されています。

 終端部に位置するコンクリート壁(写真K・N・O)も確認できますが、1940年代の空中写真では存在しないように見受けられます。コンクリート壁は一見すると鉄道用の車止めのようですが、何トンもの車両を止めるにしては肉薄(写真Iと比較してください)ですし、無駄に横長です(※) さらに、テーパー面を線路側に設けており(写真K)、またホーム側壁の延長線と垂直の位置に造られていません。
 鉄道車輌の暴走防護ではなく鉄道施設の防護、即ち自動車等の軌道敷内への誤進入防止と、トラックなどの自動車が工場から坂道を下ってくる際(写真N)の運転手への視覚効果により、徐行を促すことを目的として設置したのではないでしょうか。

 旅客線は廃止になっても工場内の貨物線は営業しており、機関車車庫も確認できます。 石灰石はコンベアーなどで運び込まれる勝峯山産と、鉄道貨車で搬入される奥多摩工業氷川鉱山産とを合わせ、工場内にて粘土などと混合調整して加工・焼成(燃料運搬のタキ車)、最後に微粉砕して製品となります。貯蔵された製品は荷姿に応じ積荷ホームから“ワム・ワラ・ホキ”など有蓋車に積み込まれED16に牽引されて山を下ります。

(※)2線共用車止めの可能性について
 武蔵岩井駅については1925(大正14)年9月20日開業から1941(昭和16)年7月の空中写真までの期間について、駅位置を含め線路配線に関する資料が手元にありません。蒸気機関車時代には機回り線が存在した可能性も考えられますが、1940年代の空中写真では機回り線もコンクリート壁も写っていないように見えます。 仮に2線存在していたとしてもホームがもっと山寄りに位置しないと、2線分をカバーすることはできません(写真 J・L参照) また、壁全面が直線ではなく、一方の端(平井川方)のみが大久野方(線路の方向)に角度が付けられている(写真K)ことも鉄道用として合理的な説明ができません。




 ということで、“自転車置き場は武蔵岩井駅のプラットホームの3/5程度を土台として利用しているものの上屋は鉄道時代のものではない、防護壁は恐らく自動車などから鉄道施設を防護するために設置されたもの”という結論となりました。
 建物自体は鉄道と関係ないとは言いながら、なかなか良い雰囲気を醸し出しているので、貨物駅モデル製作の参考になればとM〜Sまでまとめてみました。 “21”は大久野方向の廃線跡、“22”は平井川に架かる橋と自転車置き場です。
 秋にイチョウが紅葉すればもっと素敵な雰囲気になるかもしれません。

(会社の管理地内です、守衛さんに「駐輪場の写真を撮らせてください」 など、許可を求めることが必要です)


おまけ


 工場内について
 浅野セメント西多摩工場は1929(昭和4)年4月に竣工、各種ボルトランドセメントの製造を開始しますが、当時の記録写真(切り通し道路から工場に向けて撮影)を見ると平井川に沿って1本線路が敷かれています。「百年史 日本セメント株式会社」に工場平面図として工場内の線路配線図が掲載されていたので転記してみました。(配線の位置は厳密ではありません また、工場線の機関車車庫近辺ならびに大久野方、引上げ線は平面図に載っておらず、想像で描いています)

 赤の点線「‐‐‐‐」については1929年の工場竣工時の写真や1937年の記録写真では1本の線路が敷かれていることを確認できますが、1940年代の空中写真では線路の有無までは確認することができません、水色枠で囲った切り通し道路との交差をどのように処理していたのか(橋梁もしくはトンネル?)、興味のあるところです。また、青の実線については工場平面図の範囲外で記載されておらず、想像で描いています。

 ※以下、文中での点線、台地の上を平井川寄りに旧正門の脇を通る線路を “上部-正門脇線”と仮称します
           
の実線」、台地の下に平井川に沿って敷かれた(現 自転車置き場)線路と駅を“下部-旅客線”と仮称します


 都道より平井川を渡って正面に見える切り通し。奥にコンクリート橋が見えますが、当初より鉄道橋ではなく道路橋です。軌道は道路橋の奥あって山に沿って敷かれていました。
 そして、“上部-正門脇線”の軌道跡といえば(



わなわな

 橋台跡 切り通し道路の上をプレートガーターで渡っていた
 五日市鉄道では1925(大正14)年4月の開業から4年後には内燃動車を導入し、14年後には9両もの気動車を保有していました。しかし、蒸気機関車牽引客車列車については開業当初は当然としても、(燃料事情が悪化した)戦中戦後も運用していたはずです。機関車の付け替えをどの場所で行っていたのか、(付け替えをせずに大久野駅まで(大久野駅、三内信号所から?)推進運転をしていた?)疑問が生じます。
 1941〜1974年まで年代別に6枚の空中写真で見る限り、“下部-旅客線”に機回り線や、側線があったかは微妙です。しかし、百年史に載っている“上部-正門脇線”の終端部には機回り線として使える配線になっています。
 それは鉄橋の手前にあったのでは



鉄橋の手前に、階段まであるし。

 利用者からすれば公道より平井川を渡ってそのまま進み、階段を登れば直ぐのベストポジションであり、会社側からしてみれば一般の旅客が会社敷地に深く立ち入るリスクの無い場所です。

そして、とどめ。
“昭和11年10月7日(水)  五日市鉄道岩井駅が6日に竣工となる”
“昭和11年11月18日(水) 五日市鉄道の岩井駅が落成する”
 「日の出町 近代年表・統計資料」 日の出町史編さん委員会より

1925(大正14)9月20日の武蔵岩井駅開業から1936(昭和11)年11月17日までの11年2ヶ月間使用された、

初代、武蔵岩井駅が自転車置き場の斜面上にある?

切り通し道路の大久野方の写真を公開することにより、すべてが明かされる・・・。      無理。ムリ。

なぜならば、自転車置き場の上屋と土台にだけ注意がいって、その辺りをまったく撮影していなかったからです。 実は “わなわな” の写真も自宅でNを拡大して発見したものです。

《更なる追記》 




《更なる追記-2》

武蔵岩井駅について-3
 切り通し斜面の上、大久野方の工場建物土台の一部にホームが利用されていたりして。
 うまくいけば側壁が確認できたりして。
 初代、武蔵岩井駅の存在は調べた限りで資料にない。広く知られていないのでは。
 橋台跡がなぜ、広く知られていなかったのか。
 これって初公開?

 そんな想いを胸に、鼻息も荒く再び現地へ。

そして 大久野方の写真



橋台 びみょ〜。 でも、直感8割方違うような。

もう一方の橋台跡との水平位置確認のために振り向くと。

へっ・・・・・!

罠?ワナ?
違う意味で わなわな

“ ちゅどぉ〜ん ”


「恥の多い生涯を送ってきました・・・・」 まず、最初に浮かんだ一節。
次に頭をよぎったこと、「なるほど、広く知られていないはずだ、資料に載っていないのも納得」


 呼吸を整え(荒かった鼻息も“しゅ〜ん”と)、冷静に観察。 前回は守衛さんに声をかけることが出来たが、今回は祭日で守衛さんが居らず敷地内へは入りづらい。
 立ち入り禁止のトラロープ手前で観察できる範囲では、目を凝らしても鉱山方の切り通し面に構築物は確認できない。
 大久野方はというと、一見橋台を土台としてコンクリートで新たに壁を積み上げたようでもあるが、同じブロック材がサイド奥の垂直面でも使用されている。廃れ具合から両ブロックとも同じ年代の施工のようであり、支承から線路面の高さ(胸壁 )が随分あるような気がする。 微妙である。 階段を駆け上がって支承取り付け跡の有無や細部を観察できれば、確証を得られるかもしれないが、「許可なきもの立入禁止」札を漢字が読めないふりする年齢でもなく、“楽をしないでもっと資料収集に励みなさい”という神慮と受け取り撤収。


武蔵岩井駅について-4

 新たに収集した資料も加えて以下に、もう一度整理します。


<史実>
 1.五日市鉄道は拝島(現 拝島駅の手前)〜五日市(ほどなく 武蔵五日市に改称)間を 1925(大正14)年4月21日に開業、5ヵ月後の9月20日に武蔵五日市(三内信号所)〜大久野〜武蔵岩井間を開業。開業時より、貨物専用駅ではなく旅客輸送も行っていた。
   
 2.五日市鉄道では早くから内燃動車を導入した。開業から11年後には流線形の新製ボギー車2両を加えて総勢7両、その3年後(1939年)にはさらにボギー車2両を増備し総計9両(このほか客車6両)で旅客輸送を行っていた。蒸気機関車も在籍し、1940(昭和15)年10月3日に南武鉄道に吸収される時点では6両が在籍し、うち5両が移籍した。

 3.南武鉄道は1944(昭和19)年4月1日に国有化され、拝島〜武蔵五日市〜武蔵岩井間を五日市線とされた。

 4.蒸気機関車は1961(昭和36)年4月17日の電化まで貨物列車を中心に運用されていた。

 5.ED16牽引の到着貨物列車については大久野駅にて機関車の付け替えをおこない、推進運転で工場内へ運転していたという記録がある。


 A.明治時代終期より、勝峰(勝峯 かつほ かつぼう)山にて石灰石の本格的な採掘が開始され、大正時代終期に浅野セメントが採掘権を取得、1929(昭和4)年に同社西多摩工場として稼動。

 B.1929(昭和4)年および1937(昭和12)年の記録写真では“上部-正門脇線”が確認できる。機回り線として利用できる終点付近(引上げ線とは接続していない)は工場の裏手にあたり、物品倉庫や機械修理工場があった。
 
 C. 「日の出町 近代年表・統計資料」に“昭和11年10月7日(水) 五日市鉄道岩井駅が6日に竣工となる”、“昭和11年11月18日(水) 五日市鉄道の岩井駅が落成する”との記載がある。( 竣工 と 落成 の使い分けはよく分からない)


<疑問>
 a. 1925(大正14)年9月20日開業時の駅の位置。
   →“下部-旅客線”の、現 自転車置き場のあるスペースに存在したのか。
   →「日の出町 近代年表・統計資料」にある、“昭和11年11月18日(水) 五日市鉄道の岩井駅が落成する”の意味は。

 b.蒸気機関車牽引客車列車での機関車の付け替えの有無。
   →付け替えは行われなかった?、プッシュプル運転?
 
 c.蒸気機関車牽引客車列車で付け替えがあった場合の機関車付け替え場所。
   →“下部-旅客線”? “上部-正門脇線”? それ以外の浅野(日本)セメント構内? 大久野駅?

 d.付け替えはなく、推進運転していたとして。
   →大久野〜三内信号所間はどうしていたのか。
   →三内信号所〜武蔵五日市間はどうしていたのか。

 e.“上部-正門脇線”はいつから敷設されていたのか。
   → 1925(大正14)年9月20日開業時か
   →1929(昭和4)年4月の工場竣工に合わせてか
   →工場本体の建設用地よりより少しずれた位置に敷設されており、工場建設資材搬入のためにも利用されたのでは


<その他の事項>
 イ.1941〜1974年まで年代別に6枚の空中写真で見る限り、“下部-旅客線”に機回り線や、側線があったかは微妙。
   →1940年代、戦中・戦後は燃料事情より蒸気機関車牽引の客車列車が運用されていたと思われる。
    (軍需産業として特配により比較的遅くまで内燃動車が運用されていた可能性もある)

 ロ.1941年7月の空中写真では、切り通し道路は確認できるが“上部-正門脇線”に線路が敷かれているか否かは定かでない。
   同写真では、“上部-正門脇線”の切り通し道路の手前に、プラットホームのような細長い構築物と思われる筋が写っている。
   →1973(昭和48)年3月に発行された「明日への跳躍 創業90周年 日本セメント株式会社」に掲載されている工場写真でも、同位置に細長い構築物と思われる筋が写っている。

 ハ.1948年9月の空中写真では、“上部-正門脇線”の切り通し道路にガーターと思われる影が確認できる。線路の有無は定かでない。

 二.1961年9月の空中写真では、“上部-正門脇線”に草木が生い茂っているように見える。

 ホ.“上部-正門脇線”の切り通し道路手前にプラットホームが存在した場合でも、ホームを水平に設置出来たかどうかは微妙。
 
 へ.開業当初より武蔵岩井を発着する旅客列車は例外なく武蔵五日市を経由していたと思われる。


<以上より推測されること>

 早い時期から内燃動車が投入されたとの史実より、武蔵五日市〜武蔵岩井間の旅客列車は内燃動車での運用を前提として1936(昭和11)年11月18日に“下部-旅客線”と、2代目武蔵岩井駅を落成した。その後の燃料統制による内燃動車休車は“上部-正門脇線”の初代駅復活、もしくは“下部-旅客線”に機回り線を設けたかして蒸気機関車に対応した。との前提で
 T.1925(大正14)9月20日の開業から“上部-正門脇線”の切り通し道路の手前の位置に初代武蔵岩井駅は存在した。
 U.1925(大正14)9月20日の開業から“上部-正門脇線”の旧 正門・守衛所と機回り線との間に初代武蔵岩井駅は存在した。

開業当初より“下部-旅客線”は敷設されていた。
 V.機回り線も敷かれていた。
 W.機回り線はなく推進運転を行っていた。



西多摩工場関連年表(鉄道関係中心)
日本最初の超高級セメント(早期高強度性)の安定生産を目的に1926(昭和元年)12月、浅野超高級セメント株式会社として設立

1925(大正14)年      勝峯採掘場を浅野セメント株式会社が買収。
1927(昭和2)年1月     工場建設決定
   〃    年5月17日  浅野セメント株式会社に吸収
1928(昭和3)年1月8日   基礎工事開始
1929(昭和4)年4月     工場竣工 部分的試運転開始
   〃    年5月21日  11時40分 回転窯の正式火入れ 操業運転開始
   〃    年6月15日  西多摩工場と命名 “アサノベロセメント”(ベロ:迅速の意)の試験製造開始
1936(昭和11)年12月   岩井珪石採掘場 直営にて採掘開始 トラックにて運搬
1938(昭和13)年末月    勝峯原石採掘場の軌道 レール12ないし20ポンド、軌間24インチ 延長5,000メートル (6〜10sレール、610ミリゲージ)
   〃             〃 土取丁場の軌道 20ポンド、延長1,500メートル 
   〃             大久野粘土採掘場の専用線 レール18ないし20ポンド、延長1,500メートル、貨車積桟橋 幅3メートル・長さ60メートル
   〃             岩井珪石採掘場 軌道  レール20ポンド、延長100メートル
1946(昭和21)年9月     勝峯採掘場  下綱式 840メートル エンドレス竣工
1947(昭和22)年5月    日本セメント株式会社に商号変更
1948(昭和23)年      岩井珪石採掘場 採掘休止(1957(昭和32)年4月〜1958(昭和33)年3月 一時的に出鉱)
1951(昭和26)年10月    1.65トン鉱車を廃し、3トンの鉱車の使用を開始
1952(昭和27)年7月     勝峯採掘場  下綱式 600メートル エンドレス竣工
   〃     年11〜12月 30t積みタキ2200形15両を東京都が新製 東京都水道局小河内線(通称 水根貨物線)開通
1953(昭和28)年3月     小河内ダムコンクリート打ち込み開始 西多摩工場〜水根間でタキ2200(その後ホキ)による輸送
   〃     年6月     小河内ダム向け、マスコンバラ積み設備完成
1954(昭和29)年4月     アサノコンクリート田端工場向けバラ積み輸送
   〃     年11月    トラックによるバラ積み出荷開始
1957(昭和32)年5月10日 東京都水道局小河内線 資材輸送終了
1961(昭和36)年4月    国鉄五日市線電化、工場側線の一部の電化実施、 構内操車を三菱重工業三原製作所製の25トン内燃機関車2輌にておこなう
   〃     年6〜9月  焼成燃料を重油(大手元売業者のC重油)に転換 タキ車の入線(?)
1968(昭和43)年4月    グローリーホール法から階段採掘法へ切り替え(坑内トロッコの廃止?)
1969(昭和44)年4月    エンドレス運搬を廃しトラック運搬に切り替え
1971(昭和46)年2月1日  武蔵五日市〜武蔵岩井間の旅客輸送を廃止(同日付で大久野〜武蔵岩井間は路線も廃止)
1979(昭和54)年5月    石灰石の奥多摩工業所からの受け入れ中止
1980(昭和55)年4月     セメントの焼成中止 
1982(昭和57)年11月14日 武蔵五日市〜大久野間貨物営業廃止、路線廃止
1998(平成10)年10月1日 秩父小野田株式会社と合併 太平洋セメント株式会社に商号変更
2001(平成13)年1月19日 太平洋セメント株式会社の100%子会社、太平洋マテリアル株式会社に編入


写真左:真ん中の構築物が建設中の大煙突だとすると、勝峯山の麓あたりから大久野駅方向を撮影していると推測できます。武蔵岩井駅は煙突を正面に見て左後方(Uの場合)もしくは煙突の真後ろあたり(Tの場合)に位置していたと思われます。

写真右:大久野粘土採掘場を見下ろした写真です。
 セメント製造では石灰石(8割強)の他に粘土(2割弱)や珪石(微量)などの原料が必要とされます。石灰以外の原料についても輸送コスト削減のために工場隣接地で採掘されていました。
 粘土については三内信号所と大久野駅との間に位置した大久野粘土採掘場にて工場開設時から採掘され、長きにわたり西多摩工場のセメント生産を支えてきました。
 工場までの運搬は、採掘現場から専用線の積込み施設まではトロッコ(第78図の拡大写真)で運び、積込み施設では高低差を利用して原石を専用運搬貨車に積み替え、工場内の入換えにも使われる25トンの内燃機関車により国鉄大久野駅構内を通過して(※1)工場へと運び入れていました。(仔細は トワイライトゾーンMANUAL1 渡辺 一策氏 “大久野粘土線の「リ」” ご参照)

 珪石採掘は工場隣接地2箇所より採掘していたものの採尽のため、1936(昭和11)年12月より第31図の左方に位置した岩井珪石採掘場より1948(昭和23)年まで(※2)採掘していました。運搬方法は「七十年史 日本セメント株式会社」ではトラック運搬とあり、採掘現場の軌道が平井川を渡って工場まで引き込まれていたか否かは社史からは推測できません。(仔細は トワイライトゾーンMANUAL14 竹内 昭氏 “50cmの軌道が語るもの” ご参照)

(※1)昭和32年板全国専用線一覧表(トワイライトゾーンMANUAL7)では“経常費徴収”とあります
(※2)その後、1957(昭和32)年4月〜1958(昭和33)年3月まで一時的に出鉱


 日本セメント一辺倒で、五日市鉄道や国鉄、大久野村村史からアプローチを試みれば、また地元のご老人にお話を伺えば、簡単に解決できるのかもしれません。

 実際のところは、「開業時より“下部-旅客線”は敷設され、1936(昭和11)年11月18日の武蔵岩井駅落成とは上屋など施設の充実を意味したもので、会社資産である“上部-正門脇線”に旅客駅など当初から存在しない」という結論かもしれません。
 正直疲れました。しばらく休憩した後に、再調査するかもしれません。
 結果が出れば、<武蔵岩井駅-5>として追記したいと思います。

 武蔵岩井駅についてご存知の方は red50kei@gmail.com (←copy貼り付けで まで頂戴できればうれしいです。





 このページの参考資料

 日の出町史 通史編(下巻)
 日の出町 近代年表・統計資料
 浅野セメント沿革史 浅野セメント株式会社
 七十年史 序編 日本セメント株式会社
 七十年史 本編 日本セメント株式会社
 八十年史      日本セメント株式会社
 80年の歩み   日本セメント株式会社
 明日への跳躍 創業90周年 日本セメント株式会社
 百年史      日本セメント株式会社
 浅野セメントの物流史
 西多摩今昔写真帖
 目で見る西多摩の100年
 多摩幻の鉄道 廃線跡を行く
 東京の鉄道遺産百四十年をあるく 発展期篇
 国土地理院空中写真・1/50,000地形図 

 トワイライトゾーン MANUAL T 14
 鉄道ピクトリアル No.249 330 568
 鉄道ファン     No.149
 鉄道線跡を歩く  T
 ほか

 


 新たな“謎”?  都道184号線より平井川を挟んで撮影。
 




機関車の写真を紹介できなくて申し訳ありません。
岩井支線の機関車や青梅・五日市線の旧型電車の記録は是非とも下記のサイトをご覧ください。

8404レ さんの<SHINO'S RAIL GALLERY>
クモハ40の横並び(しかもカラー)、三内信号所での旧型国電・大久野駅構内でのED16など、これでもかという枚数を公開されています。
“懐かしの青梅線”では・・・ すごいです。  懐かしの下河原線、157系の内部、EFなどの記録も貴重です。


トム平 さんの 追憶の電機〜青梅路のED16〜
大久野駅構内のED16はもとより、岩井支線最終日の様子、23年後の岩井支線を記録されています。
膨大な枚数、大判で青梅線の電車や機関車を公開されています。
また、103系、201系のページで駅間での四季折々、早朝や夕刻の撮影は“愛情と想い”がなければできません。

2009/07/16 公開
2009/11/22 文章追加(廃止前利用客数)、資料追加(ピクトリアル249)
2011/10/21 文章追加 セメント工場構内図・写真C 差換え、ED16運用表-2 追加
2011/11/18 《更なる追記》と《更なる追記-2》 追記、セメント生産量と大久野駅貨物発送量表 追加、文章追加・一部修正