吹上浜駅(永吉〜吹上浜)


 永吉駅を発車した汽車は緩やかに左に大きくカーブしたあと、0.4kmほど水田の中を進行して、永吉川水系とはいうもののちょっと大きめの用水路といった大田川をわたります。

 ほどなく水田が終わると、台地に突入するように林の中の勾配を一気に駆け上がり、あとひと踏ん張りで登りきるといったあたりがこの写真となるようです。

 すぐ先からは左右に畑の広がる小野浜の台地が始まります。
      

 下の写真ともども、キハ300型車内から1980(昭和55)年3月撮影。



 上の写真より0.5kmほど進行すると台地も終わりとなり、再び林の中を高度差で20mほど下って小野川の鉄橋をわたります。

 続く水田のなかを緩やかに左カーブし、今度は吹上浜から続く台地には真っ向から挑まず、台地の端に身を寄せて吹上浜駅まで25mの高度を1.0km弱の距離をかけてゆっくり上っていきます。

 写真は台地の縁に沿ってから0.4キロメートルほど進んだあたりの地点と思われます。鬱蒼とした森林地帯の中を進行しているかのように見えますが、左の林の層は薄く、すぐに広々とした水田につながっています。

 突き当りを左カーブしてカーブし終わった先が下の写真となるはずです。

 




 

 亀原の切通しを進む丸型ディーゼルカーのキハ103。

 吹上浜駅前と国道270号線とを結ぶ道路の跨線橋上から伊集院(永吉)方向に向けて撮影しています。
 つまり上の写真から連続させると、写真奥の右手から気動車は現われて、撮影している跨線橋を潜り抜け、Aの写真へと続くわけです。


 屋根が真っ白ですね。

 最近のディーゼルカーは屋根までパイプを通して空に向けて排気をしているため屋根が煤けていますが、昔のディーゼルカーは床下で排気を行っていたため排気ガスの煤煙で屋根が汚れていません。
 手入れも行き届いていたのかもしれません。


 100型気動車の車高は3メートル60センチ余り(最大高さ3,622ミリ)だそうですが、切通し側面の下草がほぼ屋根と同位地まで刈られています。軌道を維持し続けるための苦労が想像できます。


 気動車の真下の枕木が新品に交換されています。
 交換したてのようでその箇所のみ、まだ雑草が侵攻してきていません。

 






交換後の枕木が切通し側面に立てかけられています。

ピンと張られた4本の電信線。

カーブを曲がりきると勾配は終わり、吹上浜駅となります。





※@、Aの写真は説明上、@→Aの順番に並べましたが、本当はA→@の順に撮影しています。
@とAの写真での標識灯(尾灯)を比べていただくと@は半月版が開かれ永吉(伊集院)方向に進行してていることがわかります。

  

  








両線路図画像の向きが一致していません
一方の図を上下左右回転させてイメージください



 吹上浜駅に進入する100型キハ102。(奥が伊集院、手前が枕崎方)
 
 突然ですが
 Q:この102に最後に乗車したヒトは誰でしょう?
 A:根本 三香(女性)
   ・・・・・・誰? 

 根本アナウンサー曰く「日本の最南端の私鉄駅、枕崎のこのホームから動くディーゼルカーに乗ることができるのはおそらく私が最後になるでしょう」


 日置駅のページでさらりと触れましたが、この102号は加世田豪雨により枕崎に取り残され、日置〜加世田間の区間運転再開後も枕崎駅の錆びついた線路の上にポツンと置かれ、加世田の仲間のところにも帰れず、廃止まで270日余りを残して予期せずその生涯を終えてしまった悲運な気動車です。
 豪雨より3ヶ月半後にNHKの情報番組「600 こちら 情報部」の企画でエンジンを駆け枕崎駅構内を自走しています。

 枕崎駅の本屋とホームを結ぶ旅客用通路まで人力で102を移動させ、そこで12個のバッテリー交換とエンジンの調整をおこない2時間10分後、加世田機関区員の方が床下に入り運転席とエンジンとを結ぶワイヤーを手で引っ張ると「クゥルル・キュウルル・カラ・・クゥルル・キュウルル・カラ・・クゥルル・キュウルル・カラ・・クゥルル・キュウルル・カラ・・クゥルル・キュウルル・トゥン」
エンジンが駆かる気配なし。
 
 床下での作業を見守っていた工場長が、やはり横で見守っていた最年長と思われる機関区員に顔を向け
 工場長        :「選手交代やってみっか」 「ねえ」 「はぁ」
 床下の機関区員 :「代わってみましょうか」
 工場長        :「あ〜」
 床下の機関区員 :「代わろうか」
 工場長        :「代わってそんなら」 「うん」 「やってよ」
 最年長の機関区員が代わって床下へ
 「クゥルル・キュウルルトゥルルトゥルルルトゥルルルルトゥルルルルルルルルカラカラガラガラガラガーーーピーーーー
 排気煙はエンジンがかかってから3秒ほどで見事、白→灰白→灰→黒灰→濃紫→透きとおった紫色 と変色していきました。 

 根本アナウンサー:「鹿児島交通の加世田基地の皆さんの力でみごと3ヶ月半ぶりに甦りました。 工場長感想を一言」
 工場長       :「感激っ・・・です」
 
 最後、根本アナウンサーを乗せて鹿籠駅方向へ警笛を鳴らして自走する場面で締めくくっています。

 (600 こちら 情報部 「幻のSL発見! 〜鹿児島交通枕崎線〜」(83/10/10放送 NHK))より


 
 枕崎側から伊集院方向を撮影しています。

 伊集院駅から永吉駅まで各駅のホーム側壁は石作りでしたが、ここ吹上浜と薩摩湖、南吹上浜の3駅は板と杭でホームの土盛りを支えていました。
 



  
 改札口を立体的に視覚できるように工夫して貼ってみました。

 『左』 本来、窓枠を台風のような突風でもっていかれないための保護板だったのでしょうが、もはや半分欠損しているガラス窓が自然崩壊しないための支えとしての役目に代わっています。

 『中』 差し掛け屋根を支える4本の支柱のうち1本の根本は「爪楊枝状態」。
どうしたらこんなふうになるんだろう。

 『右』 鹿児島市内天文館にある高島屋(現 タカプラ・Takapla)のことでしょうか。


 

 昭和37年8月駅員の常駐がなくなった。
 塞がれてしまった出札口。
 内側からも窓枠を保護している。
 上部は「当駅列車発車時刻表」、左は「当駅発旅客運賃表」




 お金がなく、白黒フィルムを使ってしまったことが悔やまれますが、羽目板が経年により剥げており、かつて塗装が施されていたことがわかります。
 ジャーナル誌No.194のカラー写真では、加世田駅ホームの上屋と同様、白ペンキで塗られていたことが確認できます。

 吹上浜という観光地を意識して特別仕様の駅舎だったのでしょう。


 入り口とホームに架かる庇は、真新しい青色のトタンに張り替えられていました。

 庇を支える支柱の基礎部分が ン・・なんだこりゃ?


 厠シリーズ第一弾。

 見上げれば裸電球の周りには見事なクモの巣があって、黒い羽の便所蜂はぶんぶん旋回し、足元のコンクリートのたたきには緩慢な歩みで避難する足長蜘蛛、傍らにはひっくり返りピクリとももしないカナブン・・・「これ以上凄いものがでてきませんように」と、上下左右見回しながらイザ放水しようと着水位置を確認すれば、食事に熱中している便所蝿をみつけ、狙いを定めて発射するも寸でのところで逃げられ、その飛跡を「こっち来るんじゃねーぞ」と追いながら足していると、時間差で大の便壷に流れ落ちる水音が意外と大きく響いて「ああ、こういった構造になっているんだ」などと、どうでもいい納得をしながら用が足せるといった古典的おトイレ。


 ロングな男子用。5人同時使用可。

 「九州随一の国設の野営場があり、夏はキャンプ村としてにぎわった」(軌跡より)といったことからでしょうか。

 5人もの同時使用はさすがになかったでしょうが、もしあった場合、写真で確認する限り女性用は5人をスルーしないと辿り着けない構造だったようです。(もしかしたら、ホーム側に女性専用口があったのかもしれません)

 当時のうら若き女性が切羽詰った状態だったとき、背後から5人越えを決行したのか、ノック返しされたらその場にとどまるのか、再び5人戻りするのか、はたまた首からIDカートを下げて昼のオフィス街を闊歩する現代のOffice Ladyが突然タイムスリップしてしまったらどう対処するのか? 

 「ウッソォ〜、ムリ・むり・無理
 もっともOffice Ladyはこの構築物を「女性もできる」、トイレと認識しないかもしれませんが。
 いくら周りを見回しても小ぎれいな女性専用トイレなんてありませんょ〜。

 今では絶滅してしまった(?)貴重な(?)写真を見つめていると時間を忘れアホなことを想像してしまいます。
 こちらは白く塗られてなかったようです。

 

 手前のホーム面が黒光りしており、草地とはっきりと区別できるためアスファルト張りのように見えますが、雨がしみ込んだ砂地です。
 停車位置(汽車のドアの位置)により、くっきりとした境界線ができたのでしょう。

 この駅もかつては交換駅でした。写真左手に線路とホームが存在していたはずです。

 ひょろひょろですが、松が現れはじめました。
 次の、薩摩湖駅まで全区間最短の0.9Km。
 ひたすら松林の中を進行します。

 薩摩湖方向を望む。


2007/09/18公開
2022/03/18画像追加 ・高画質写真に差換え