伊集院 (鹿児島交通線 廃線跡)

  
 初回訪問時の入場券と今回撮影時の入場券。


 明治維新より鉄道開通前まで鹿児島市街と中部九州との物流は、陸路においては旧来からの筋、(鹿児島藩では街道のことを筋と称していました)即ち熊本方面への“出水筋”、粟野・伊佐(大口)を経て出水筋へと合流する“大口筋”、宮崎への“高岡筋”などを整備・補強して利用していましたが、鹿児島では薩南諸島や沖縄への海上輸送の経由地であったこともあり、筋によらず海路による物流の比重も大きかったようです。
 
 1889(明治22)年04月16日 静岡〜浜松間開通により新橋〜神戸間が全通。(一部連絡船)
 その10ヵ月後、2月11日に九州で初めて博多〜千歳川(鳥栖の先)間が開通します。

 以降
 1891(明治24)年04月01日 門司〜高瀬(現 玉名)間開通
 1896(明治29)年11月21日 門司〜八代間全通 (九州鉄道による)
 1901(明治34)年06月10日 鹿児島〜国分(現 隼人)間開通 (官設鉄道による)
 1903(明治36)年01月15日 隼人〜横川(現 大隈横川)間開通 (官鉄)
 同年         09月05日 大隈横川〜吉松間開通 (官鉄)
 1908(明治41)年06月01日 八代〜人吉間開通 (鉄道庁)
 1909(明治42)年11月21日 人吉〜吉松開通 これにより門司〜鹿児島間全通
 
 九州に最初の鉄道が開通してから、20年弱を要して漸く鹿児島まで結ばれることとなります。
 わざわざ山間に敷設したのは軍事上からの理由といわれていますが、山線での全通が間近になると串木野・川内・阿久根・出水を経て八代に至る海線を望む声は、より高まります。



 海線の測量は1909(明治42)年2月より開始され、2年後の1911年2月に起工されます。

 1913(大正2)年10月11日 鹿児島〜東市来(伊集院の1つ先)間開通 (鉄道院)
 同年       12月15日 東市来〜串木野間開通
 1914(大正3)年06月01日 串木野〜川内町(現 川内)間開通

 この区間は川内線と呼ばれ、開通当初は1日6往復の列車が設定されました。
 これより先、川内〜八代間は山が海に直接落ち込む難所も多数あり、海線とは言いながらトンネルと急カーブで対応せざるを得ず、最後の湯浦〜水俣間が開通し海線が全通(同時に鹿児島本線と改名)したのは、昭和に入った1927(昭和2)年10月17日のことでした。

 伊集院駅は川内線時代の1913(大正2)年10月11日に開設されました。
 6ヵ月後の1914(大正3)年4月1日に伊作までの開業にあわせて南薩鉄道伊集院駅も開設されます。開設当初は官鉄伊集院駅とは独立しており、乗り換えに手間があったようです。 (補足のページ 参照(2012/11/19)

 1954年(昭和29)年11月に旅客ホームを国鉄駅寄りに移設。 その後1963(昭和38)年2月6日に国鉄駅舎改築。

 1947(昭和22)年の空中写真では山側に貨物側線は確認できませんが、1974(昭和49)年度の空中写真ではタンク車やホッパー車が並んでいます。
ゼネラルガス梶E出光興産梶A日本飼料ターミナル鰍フ到着貨物で昭和40年代半ばから50年代前半あたりまで賑わいました。



 南薩鉄道の蒸気機関車全廃(1963(昭和38)年3月5日)と同時期に国鉄の駅舎を改築しています。

 恐らくこのとき、1番・2番線(線路が剥がされ自動車が停まっているホーム)を鹿児島交通線(当時南薩鉄道)がメイン利用し始めたのではないかと思います。 本屋に面した乗降至極便利なホームを鹿児島交通の気動車に譲り、廃線後も旅客を跨線橋で昇り降りさせて島式ホームにて乗降させている状況は変わっていません。
 
 新幹線開業で分断され、短編成ワンマン運転主体のローカル化してしまった現在、伊集院止まりの2両編成電車などは本屋前のホームを復活し、発着させることで地元旅客の負担軽減を図りつつ、地元密着鉄道としてもアピールできると思うのですが、駐車場のままのほうが収益面では貢献するのかな?

現在は旧3番線が1番線、旧4番線が2番線に変更されています。



左  : 旧2番線ホーム(車のあたりに鹿児島交通の気動車は停車していた)
右上 : 旧3番線(現1番線)より旧2番線と旧1・2番線にうえに造られた貨物用上屋を望む
右下 : 跨線橋より本屋に面する旧2番線ホームを俯瞰


 本線ホームの熊本方から鹿児島方向を撮影。
 昔の栄華を偲ぶ。

 長編成の特急や寝台列車が華々しく発着していた長大なホーム。
 ホーム上から左に何本もの側線をカバーすべく、これまた長大な架線ビームが伸びています。
 5階建てビルのあたりに、日本飼料ターミナルの巨大な円筒形ホッパーが20数基並んでいました。“S字マーク”を記したホッパーにはホキ車で運ばれた家畜飼料がストックされ、薩摩半島をはじめ近郊畜産農家への配送ヤードとしての役割を担っていました。またその奥には、ゼネラルガス鰍ニ出光興産鰍フ荷役施設が造られ、側線にはLPGタンク車・タキ車が集っていました。

 一方、右手のスペースには車扱いのワム・ワラ車などがひしめく貨物駅と、鹿児島交通線の線路が敷かれていました。


 逆方向を撮影。

 架線ビームが伸びる側線には貨車だけではなく、旅客車両も留置されていたかもしれません。

 撮影位置はホーム上を仕切っているパイプ柵より奥の場所です。もう、ここで客扱いがされることはありません。

念のため、“し”ではありません、“じ”です。



 さらに前進して、ホーム先端部より熊本方向を撮影。

 長大な架線ビームは収束せず、続いています。
 トンネル右方は昔の本線(単線)跡です。旧線は少し先で短いトンネルを抜けると、左に大きくカーブしながら新線をクロスして神之川に沿って右カーブし、新線と合流していました。
 というか、S字カーブしていた旧線を新線が2つのトンネルを新設して直線でショートカットした、といったほうが分かりやすいかもしれません。

 この旧線、電留線に至る線路として10年ほどの短期間ではありましたが一部が再利用されました。電留線は旧トンネルの左方の山を大規模に取り崩して建設しました。



 新線への付け替えは徳重・大田トンネルの新設と共に、1970(昭和45)年7月10日に行なわれました。また、熊本操車場〜鹿児島間の電化は3ヵ月後の10月1日から正式に開始され、これにより青森までの電化が完成しました。
 電留線の開設時期は調査できていませんが、1979(昭和54)年10月1日の南宮崎〜鹿児島間の日豊本線完全電化に合わせたのではないかと想像しています。また、廃止の時期も特定できていませんが、1990年前後には役目を終えていたようです。



旧線トンネル

左 : 伊集院側抗門
 コンクリート補強が3箇所もおこなわれオリジナルは上部をベースにして想像するしかありません。 

右 : 熊本側抗門
 隧道はカーブしていたため、オリジナルの抗門は電留線建設敷地内にかかり工事の際取り壊されました。現在の坑門は隧道の途中をコンクリート固めして後年に作ったものです。
 右のスペースが10年ほどしか利用されなかった電留線の跡地。

 トンネルは自動車も通行可能な道路として再利用したために、道床をかさ上げしています。(詳しくは「上日置の廃線跡」のページご参照)


 鹿児島方から熊本方向を撮影。

 ワム・ワラ車などがひしめいていた貨物駅と、鹿児島交通線の線路が敷かれていたスペース。



 南薩鉄道は1949(昭和24)年2月20日より、国鉄の客車にて鹿児島本線への乗り入れを2往復開始しますが、300型導入直後の1954(昭和29)11月11日より南薩鉄道オリジナル100・300型に変更して3往復乗り入れを行います。(気動車による3往復乗り入れ後も1962(昭和37)年2月まで1本の直通客車列車が残されていたようです。)

 戦後の乗り入れとしては相当早い時期に実施(※)していることは確かですが、“自社車両による乗入れ”という注釈をつけるのであれば、
 有田鉄道 1949(昭和24)年7月1日
 鹿本鉄道 1950(昭和25)年12月10日
 三岐鉄道 1952(昭和27)年12月1日
 各社が既におこなっていました。


(※) 「私鉄で国鉄に乗り入れたのは、南薩線が最初である。もっともこれにはちょっとした裏話があって、当時の長崎国鉄副総裁と岩崎が親しかったので、特別な配慮をしてもらったのだということである。」 (岩崎與八郎伝 末永勝介 著)


 駐車場が途切れるあたりまで前進。

 鹿児島交通線廃止から27年余り(2011年4月現在)、レールや鉄道設備は撤去され、広大なスペースだけが残されています。





 さらに前進して振り向いて撮影。

 1954年(昭和29)年11月まで南薩専用のホームがあった辺りかと思われます。
 駅は一段高い土地に造られていました。





 右方向に下りつつ、さらに前進して撮影。

 貨物駅跡地を保持する谷積みの土留壁。
 年代モノです。昔の駅構内との境界線を今もしっかりと示してくれています。




 もう少し進んで。

 貨車から下ろされた貨物のトラックへの積替え施設跡のようでもあり、建物の土台のようにもにも見えます。

 このまま進むと駅前広場に通じます。



 再び、熊本方ホーム先端より鹿児島交通線の分岐方向を撮影。

 右手のアパートに注目して次の写真を見ると。





 鹿児島交通線の築堤がはっきりと残っています。

 手前の部分は、かつては踏切だった場所です。国鉄線も踏切でした。
 空中写真を見ると1975年では踏切で、1981年には地下交差に変わっています。



 少し進んで振り返って。

 国鉄線(JR線)、鹿児島交通線とも Y の字形で分岐してることが分かります。




 

 踏切を越えるとすぐに神之川橋梁となります。



  橋脚は川中に2脚と伊集院側の川岸に1脚(写真中央部(車の横))があり、4桁の橋梁でした。





 

石造りの橋台と翼壁。
橋台は布積みにより、翼壁は谷積みにより組まれています。





 川中に残る、橋脚の基礎。

 基礎の断面は長方形ですが、橋脚は流水圧を考慮して上流部片面のみ尖頭形となっていました。
 永吉川鉄橋の橋脚と同様です。

 



2011/04/24公開

2011/05/15追記
@ F の旧線トンネルの名称は“徳重トンネル(110.64m)”と判明。因みに(新)徳重トンネルは105m。(資料 : 鉄道ファン516)


A 電留線の開設時期は1979(昭和54)10月11日と判明。(資料 : 鉄道ファン519)
「鹿児島駅設備の行詰まりを打開するため、1966(昭和41)年10月1日鹿児島運転区(のち、鹿児島運転所)が設置された。 運転所ではその後汚物処理設備が新設されたが、工事に支障する留置線の代替として、1979(昭和54)年10月11日、伊集院に電留線を設けた」 鉄道ファン519 鹿児島本線115年のあゆみD 19 鹿児島地区改良より引用(一部要約)


2012/11/19差替え
伊集院駅構内配線想像図を昭和8年4月時点の謄写図に差替え