上日置 (鹿児島交通線 廃線跡)
国鉄伊集院駅本屋正面に接する2番線を発車した気動車は、左手に広がる車扱いのワム・ワラ車が集う貨物側線を束ねる入出線と合流するとともに、南薩線と国鉄線との最終分岐となるNo.9ダブルスリップ・スイッチポイントを左に進行します。すぐさま構内を横断する幅員2.7mの踏切を過ごし、八重山(676.8m)西面、三方塚山(542m)南面、上宮岳(551m)東面の沢水に端を発し、伊集院市街で長松川・下谷口川を集めて東シナ海へと注ぐ二級河川・神之川を伊集院川橋梁(45.11m)で渡ります。
左上 : ダブルスリップ・スイッチポイントを渡り、南薩線に入ってすぐの位置から撮影。 かつての踏切は鉄道廃止数年前に地下道化されました (線路はイメージとして描き加えたものです)
左下 : 上流(伊集院駅寄り)より伊集院川橋梁(通称 神之川鉄橋)方向に撮影(鉄橋はイメージとして描き加えたものです)
右 : 対岸(加世田方)より伊集院方向に撮影。背後の架線ビームは鹿児島本線
伊集院川橋梁は伊集院方から15フィート(4.57m) × 1連 と 40フィート(12.19m) × 3連、合計4連の上路式プレートガーターで架けられており、15'
がハーコート鉄工橋梁会社(独)、40' は3連ともパテント・シャフト・アンド・アクスルトゥリー会社(英)製造の桁でした。
伊集院川橋梁に限らず、大正時代に開通した伊集院〜加世田の区間の 17橋梁と 1避溢橋(※)の桁はいずれも外国製でした。
(※)径間3.65m以上を橋梁と定義 コンクリート陸橋架け替え前の大田橋梁を含む17箇所と19.3km地点の入来避溢(いりき ひいつ)橋を加えた合計18橋
A の右写真位置より振り返って撮影。 右下には神之川が流れています。
B の拡大写真。
保線用具倉庫としての用途か、木造有蓋貨車が軌道の側らに置かれていました。
羽目板は土に還るにしても、せめてナットや金具の類でも残っていないかと思い探してみましたが、竹林の生命力(自然の力強さ)と30年の歳月を実感しました。
伊集院〜加世田間(通称 伊集院線)での最急カーブ(最小曲線半径)はR=100.58.で当該区間に8箇所(※)ありました。写真奥のカーブが1番目の最急カーブとなります。カーブ途中辺り(489.84m地点)には伊集院場内信号機の現示を予告する遠方信号機が設置されていたはずです。カーブには(当然の如く?)ガードレールが設置されていました。
(※)伊集院〜上日置に4箇所、上日置〜日置に4箇所の合計8箇所です。日置〜加世田間また、加世田〜枕崎間・万世線・知覧線にはR=100.58もの急カーブは設けられていません。8箇所目は5.8km地点に位置しており、つまり支線も含めた全線68,954m(車止め・終端部まで)にあっても最急カーブは伊集院口に集中していたということになります。
左上 : 鉄道廃止後すぐに C のカーブ途中に道路橋が造られました
左下 : 相当急カーブなR=100.58(左の裏返った葉っぱの辺りが軌道の中心です)、法面は岩盤(シラス?)剥き出し
右 : C カーブ完了地点(交角73度)から先、200mほど続く直線区間を望む
1番目のR=100.58を曲がり終えた汽車は、標高144mの城山の山懐を200m弱直進します。次のカーブが2番目のR=100.58となり、今度は左に111度も曲がります。(8箇所のうち最大交角) カーブ開始地点の勾配は10‰、終了間際は最急の25‰と、まるで遊園地のアトラクションの如き敷設でした。曲がり終えてからは交角の浅いR=120などのカーブは散在するもののほぼ直線の区間が約1km続きます。伊集院川橋梁から軌道の右下を進行と同一方向で流れていた神之川は次第に間をとり始め、里山の水田と林に遮られ離れていきます。幅員1.8mの上坂元田(大田上)の4号踏切を越すと左側にも水田が開け、軌道は水田の真ん中に造られた築堤を進行します。前方には神之川に流入する長谷川に架かる長谷川橋梁が望めます。
神之川の支流、長谷川に架かる上路式プレートガーターと丸型気動車キハ102。
左が枕崎、右が伊集院方。 川の流れは右から左方向に。
約30年後の定点撮影。 竹やぶに阻まれ鉄橋は望めない。
左 : E の車内から前方を撮影するとこのような軌道敷が展望できました、手前が伊集院方、奥が枕崎です。 (この写真はE D 撮影の3年前に角型気動車キハ300型の車内から撮影した前面展望です) 1本目の電信柱の足元に長谷川橋梁、2本目の電信柱との間にはL(Level : 水平)から25‰への勾配標、3本目の足元には大田陸橋(コンクリート橋)、奥はR=301.75(交角20度)の左カーブが確認できます。
右上 : D の位置からは竹やぶに阻まれ定点撮影が叶わなかったため反対側(下流)から撮影。 即ち、左が伊集院、右が枕崎方です。
現役時代を髣髴とさせます。
右下 : E -1 と同位置にて撮影。左右の樹木が30年分成長しています。奥の草むらが長谷川鉄橋。
a : 下流側から撮影、長谷川橋梁と枕崎方向に続く築堤
b : 築堤上より枕崎方向に撮影、右の流れが長谷川の下流
c : 下流より伊集院方の橋台
d : 伊集院方より枕崎方向
e : 下流より枕崎方の桁
(言い訳 → いずれの写真も鮮明さを欠いているのは、腕前にプラスして早朝のモヤも理由です)
長谷川橋梁は起点より1,549.500mに位置し、桁の長さは20'-0"(20フィート 0インチ、《1'=0.3048m》)、約
6.1mあります。
メーカーはハーコート鉄工橋梁会社(独)です。
2013/01現在、南薩線で唯一架橋時の姿のままで残されている橋梁です(径間3.65m以上を橋梁と定義 3.65m未満の桁橋は開橋と定義され、知覧線を含めれば10箇所強の桁が現存しています)
左 : 枕崎に向けて進行するキハ300の車内より。 手前のガーターが長谷川橋梁、鉄橋と左カーブとの中間地点が大田陸橋。
中 : 長谷川橋梁を背に同方向 (2012/12 朝靄で不鮮明)
右 : 鉄橋と陸橋の中間地点くらいから大田陸橋を撮影。(2011/01 当時は猛烈な藪で鉄橋まで行けず)
大田の築堤と、鹿児島県道24号鹿児島東市来線を跨ぐ大田陸橋。 左が枕崎、右が伊集院方向 (手前が鹿児島方、奥が串木野方向)
大田陸橋は軌道建設当初からコンクリート橋だったわけではありません。 開業時は径間15'-0"(4.572m)(※)のハーコート鉄工橋梁会社(独)の鉄桁が架けられ、橋台も石積みでした。
1976(昭和51)年6月11日に道路拡張のためコンクリート橋への架け替え工事が起工されますが、鉄桁時代は道路面から桁下までの高さが充分でなく、クレーン車のクレーン部分が鉄桁に衝突する事故により鉄桁を架け替たことがあったそうで、併せて“車高制限”を確保するための道路掘削も行われました。
架設工事は石組みの橋台をコンクリート橋台に造り替えるとともに仮桁で渡し替え、最後に工場で製作したプレテンション方式のホロー桁を搬入し、大型クレーンにて仮桁と架け替えたそうです。架け替えは最終列車通過後から行われ、翌
1977(昭和52)年3月17日の始発列車から桁長10.92mの新コンクリート橋に切り替わりました。
因みにクレーン車衝突から、コンクリート橋架け替えまでの期間使用されていた2代目の鉄桁は、(2013/01現在)加世田バスターミナルの脇に置かれています(2桁置かれていますが、桁高の大きいほうです)
(※)15'-0"の桁は「吉利川」、「高橋川」、「第二広瀬川」、「作田川」でも架けられていました。
反対側から。 左が伊集院、右が枕崎方。
朝靄の不鮮明な写真ですが、道路の右側にはコンクリート壁が造られています。道路の勾配具合とも併せ、法面上部の位置に通っていたであろう道路を車高制限確保ならびに路幅拡張のために掘削した際に建造したものと推測できます。
奥が枕崎方向。桁の右には(保線用)簡易歩道が設けられています。
かつて歩道にはスチール製の防護パイプ(高欄)が付けられていました。
道路とは81.26°で交差しているため地覆の起点が左右でずれています。
橋台はいずれも枕崎方のものです(夏と冬に撮影)、右は簡易歩道側の橋台。
伊集院方から枕崎方向に撮影。
25‰の勾配にふさわしく、軌道と並列に区画された水田もそれなりの段差で登っています。
コンクリートの鉄道橋としては支線も含めた全線で大田陸橋が飛び抜けて大型でした。歩行者が潜り抜けられるコンクリート橋としても全線で唯一だったはずです。
(伊集院〜加世田の区間で次に大きなコンクリート橋(函橋)は、用水路に架かっていた下原口函橋(阿多駅 A 1.83m)となります)
コンクリート橋の上には枕木が残されています。
築堤はR=301.75(交角20度)で左カーブしながら丘陵に挟まれた谷地に入り25‰と20‰の勾配で大田トンネルへと進みます。
左 G-4 に写る一本杉を反対方向から眺めています(要するに枕崎方から伊集院方向 25‰の下り坂 カーブはR=301.75)
右 ここから先、トンネルまで850m余りの区間に人家は存在しません。
このカーブが3番目のR=100.58(交角65度)で、曲がり終えると水田も絶え、丘陵を切り通して進行します。
切り通しを枕崎に向けて進行。電信柱(2,157.53m地点)の足元には25‰から20‰への勾配標が確認できます。この切り通しを抜けると、左後方から右前方に向けて
「明るい水田」 が広がります。前方の右カーブは、R=120.70(交角34度)です。
大田陸橋(大田のコンクリート橋)から日置川橋梁(日置鉄橋)までの軌道は山間部に敷かれていますが、常に山懐に沿っているわけではなく山と山との間、即ち谷や沢を渡る場合もあります。一般的に深い谷や落差が大きな沢であれば架橋せざるを得ないでしようが、里山の丘陵間の“谷津”程度であれば、コスト面から堤を築いて渡ることとなります。
谷津には必ず川が流れており、昔から田畑が開かれています。築造によって水流が分断されてしまえば山側一帯は水没することとなり、築造と同時期に水路トンネル(※)もしくは架橋工事が必要となります。
(※)正式には築堤完成後に建造する場合が“トンネル”、建造してから覆土して造築する場合は“橋”とされています。伊集院〜日置間の6暗渠も橋梁表に記載されているため正確にはアーチ橋(拱渠)の可能性が大きいですが、本ページでは「見た目重視」で
“水路トンネル” として表現します。
伊集院〜上日置間の築堤には水路トンネル、即ち暗渠(あんきょ)が3つ造られました。
最初の暗渠が伊集院から2,392m地点(大田トンネル伊集院側坑門の227m手前)の大田暗渠、2つ目が3,779m地点(大田トンネル枕崎側坑門から807m先)の第一毘沙門暗渠、3つ目は上日置駅手前4,259m地点の第二毘沙門暗渠(第一毘沙門から479m先)です。
(2013/01現在)かつての 「明るい水田」 は耕作放棄され、大田陸橋から「気持ちの良い小径」的に続いていた軌道跡は切り通しあたりから様相を一変させ、兇猛なヤブが間断なく連なる禍々しい様相となります。
「明るい水田」背後の雑木林との境界には灌漑で利用した小川が流れています。
小川は水田を潤す役目を解かれ、もう誰の目にも触れることもなく自然の姿に返りつつありますが、立ちはだかる築堤に対しては建造時と変わらぬ姿のままの暗渠に服しています。
a : 上流から撮影、手前の掘り起こしはイノシシによるもの
b : 上流の坑門
c : 上流より内部 幅1.2m、半円アーチは3枚巻 R=0.6m
d : 下流より撮影
e : 下流の坑門
f : 下流から上流に向けて内部を撮影 川底はシルト状でしっかりとしています
g : 上流から下流に向けて内部を撮影
仰拱(インバート)は確認できませんが、資料ではR=1m、拱頂から仰拱までの内部空間の高さは1.6mと記録されています。 1.6mだったとすれば石組みは3段強積まれていたはずで、1〜2段分が泥に埋まっていることとなります。(灌漑に利用されていた頃は定期的な江浚い作業がされていたことでしょう)内部は全体的に白化(白華
T ご参照)が進んでいますが、水面より1段目の石組みは増水時に磨かれているようで、オリジナル色です。大水のときに運ばれてきたのか、拳大の石
が点在しています。
大田暗渠は4番目の最急カーブ R=100.58(交角66度)のおおよそ中間地点に造られていました。築堤上から始まった最急カーブは暗渠を越えて、水田背後の雑木林の中へと続きます。
最急カーブを終え、ほんの僅かな直線に続いて R=120.70(交角22度)の右カーブを終えると、南薩線最大の遺構である大田トンネルを正面に見ます。
20‰の勾配はトンネル入り口まで続きます。
大田トンネル 全長352.04m 伊集院側坑門
大晦日の豪雪(1959年以来の25cmの積雪)で左右から軌道上(跡)に倒れた枯竹を除けて撮影。
20分ほどの作業でしたが大汗をかきました。28年前も大汗をかいたような。
このあと坑門上部に掛かる枯竹も苦戦の末除去。(K 右)
1983(昭和58)年3月11日撮影 2011(平成23)年2月18日撮影
扁額や要石などの装飾もないシンプルなデザイン。
煉瓦の積み方もオーソドックスな“長手積み”。
入り口には後年施工された(※1)古レールによる補強がされています。
天端部(広角レンズのため歪んで写っています)と拡大写真。
何の変哲もない“長手積み”
伊集院口より枕崎方に撮影。
側壁は石材による“布積み”、アーチは煉瓦による“長手積み”、正統的な施工です。
別の言い方をすれば、“当時の一般工法により施工された特長のないトンネル”です。
延長352.040m、最大幅2,133mm、レール面からの高さ4,267mm、巻厚457mm、床道280mm
枕木で10本ほど先に進むと、煉瓦の色に変化が。
さらに歩みを進めると古レールによる、セントル(支保工)が出現。
左上部(枕崎方へ進行時)に不安があり、補強する必要(※2)があったのでしよう。
とはいえ、か細い古レール利用で間隔もずいぶん空いており、華奢な印象です。
トンネルに加わる圧力に対してのものではなく、劣化による煉瓦の剥離防止を目的としているように思われます。
どうして、この部分の煉瓦に不安があったのでしょう?
「(略)・・1983年6月21日の大水害で、とりあえずの復旧に約7億円を要するという被害状況、7月11日より部分的な運転を復活したものの、伊集院−日置間では大田トンネルのろう水がひどく、万一の場合を考慮して回送列車のみ運転(鹿児島本線内の乗入れ列車)していた。巨額の累積赤字をかかえる会社として、もはや本格的な鉄道復活を行う意思はなく、結局自然廃止の道をとることしかなかった。」 鹿児島交通・南薩鉄道沿革史 谷口良忠 6.終焉にいたるまで 鉄道ビクトリアル NO.434
28年前、
“前方が通じているとはいえ、どんどん暗くなってくるし、なによりもなによりも「この足元の悪さと、頭上から滴り落ちてくる水は何なんだ!」 トンネル内部は雨が降らないのだから当然乾いていると思っているじゃないですか。
一箇所だけではあったが、枕木の上だけがわずかに水没を免れている、といった場所もある。一歩一歩足元を確認していかないと泥靴になってしまう。「全力疾走なんて出来ないよ〜、おまけにまだ1/4もきていないのにほとんど真っ暗だし”(拙作 上日置のページ)
まさにこの場所です。
鹿児島交通線廃止を決定付けた直接的理由の1つ、「大田トンネルの漏水」の場所です。
28年前、伊集院方坑門から連続して“ポタ・ポタ”と滴る水滴が、この場所では“パタパタ”といった本降りの雨の勢いで落ちていました。
足元に注意して駆け抜けたことを覚えています。(この場所以降枕崎方坑門まで目立った漏水はなかったように記憶しています)
再訪時不思議なことに、この場所に漏水はありませんでした。此処にとどまらず、大田トンネル全体でも目立った漏水は確認していません。1ヶ月前に探索したコンクリート造りの加世田トンネルのほうが遥かに多量の漏水がありました。
漏水を理由に旅客列車の運行を停止させたトンネルが、28年間崩落もせずに当時の姿のまま残っていることが意外なのに、水漏れ自体がなくなっているとは思ってもみませんでした。
セントル間を渡しているのも古レールですが、中心部に継目板をセットして強度をアップを図っています。
進行方向より逆向きに撮影。
伊集院方の坑門からはこの程度の距離。
入坑してすぐの場所です。
隧道内のレールはすべて撤去されていますが、枕木は残され犬釘のついているものもあります。
さらに枕崎方に進むと今度は待避所(待避坑)が出現。
大田トンネルが掘削されたのは開通前年の、1913(大正2)年と思われます。
待避所については、明治時代の規程では「20m程度毎に左右交互に設置する」とされていましたが、後に40m毎に変更されます。
1925(大正14)年9月には、直線区間にあっては左右のどちらか一方、曲線区間では外側に、またトンネル長が800m未満にあっては40m毎に(トンネルの幅がレール面上で3.74m以内の場合は20m毎)幅1.2m・高さ2.0m・奥行き0.8mの待避所を設けることとされました。
大田トンネルでは幅1.2m、高さ1.9mで設けられていました。
Rを正面から撮影しています。
伊集院方・@ の待避坑です。
352mの大田トンネルには7箇所の待避坑があります。左右交互方式ではなく、すべて片側に設置されています。
352÷8=44m なので坑門から正確に44m毎の設置なのか、坑門から@迄とFから坑門迄の距離をを56mに調整して、@〜F迄を40m丁度としたのかまでは調査できていませんが、感覚的には56
+(40×6) + 56 = 352のような気がします。
1913(大正2)年10月11日に開通した“官鉄”川内線・徳重トンネル(110.64m)と、1914(大正3)年4月1日に開通した南薩鉄道・大田トンネル(352m)との待避坑の比較写真です。
両トンネルは開通時期に6ヶ月しか差がなく、石材による“布積み”の側壁、煉瓦による“長手積み”のアーチなど共通点が多くありますが、官製と比べて私設鉄道トンネル故の軽便部分もあり相違箇所についてまとめてみます。
待避坑については、アーチの頂点をスプリングライン(トンネル本体のアーチと側壁との境界線)にして石材3段で収めているところは同じですが、レンガアーチの巻が大田トンネルの3枚に対して徳重トンネルは1枚多い
4枚で巻かれています。また、アーチを形成するレンガの個数が大田トンネルでは内側から29・34・39枚に対し、徳重トンネルが33・38・43・48枚であるところが異なっています。
待避坑内部については、徳重トンネルはすでに埋められていて比較することは叶いませんが、L の坑門と同様に端物レンガを用いて角を揃え 、ヒトが充分に待避できるだけのスペースが確保されていたはずです。
奥行きについては徳重トンネルの全長は大田トンネルの1/3程度しかなく、大きな違いはなかったのではないかと想像します。
坑門のアーチ天端部とパラペット。
左 徳重トンネル(官)
右 大田トンネル(民)
アーチは粗迫持の4枚巻きで竪積みもされず、両トンネルに相違はありません。パラペット(胸壁)についてもベースは共に石材による布積みですが、徳重トンネルは天端部の3石が2段にまたがって積まれています。
扁額もどきの装飾(?)です。
坑門でのアーチを形成するレンガの個数は、大田トンネルが内側から105・110・115・120枚に対し、徳重トンネルは134・141・148・155個と、同じ規格のレンガであるならば約3割増となっています。
ナゼ、3割増にしたのでしょう?
坑門全体の比較写真です。
(注 位置・高さ・焦点距離など諸条件を同じにして撮影していません、長さ 1 に対する比率はおおよそです)
最大の相違はトンネル断面にありました。
アーチの高さが随分異なっています。
徳重トンネルは従来の規格より高さを約 1m上げて、トンネル断面を大きくし蒸気機関車煤煙対策を施した幹線向け最新設計だったようです。 このタイプのトンネルは2年半後の1916(大正5)年4月に乙型として制定され規格となりました。
一方、大田トンネルは鉄道創業時代の14フィート規格のようです。北海道や四国そのほか幹線以外の全国の線区で用いられた1916年制定の甲型よりも古いタイプです。
1970(昭和45)年7月10日の新線付け替えに伴い廃止された徳重トンネルは、道路として再利用するために路盤を盛って(待避坑の位置から推測して、側壁3石分) 人と車が安全にやり過ごせるだけの路面幅を確保しました。
アーチ(レンガ部分)の面積が随分違っています。(同じ撮影条件ではないので歪みが生じており、厳密ではありませんが)
路盤のかさ上げはアーチ部分に余裕があるからこそ可能だったので、仮に大田トンネルが道路化されても通行車輌の高さ制限が設定されたかもしれません。
トンネル断面は、徳重トンネルを1916(大正5)年4月制定の乙種と仮定するならば、「かさ上げ後」の高さは約4.8m、同じく大田トンネルでは3.0mとなり道路交通法の車高制限(3.8m 現在4.1m)を確保できません。
ほぼ同時期に開通した両トンネルですが、南薩鉄道は“小型蒸気機関車の入線しか想定していなかった”のに対して、官鉄・川内線は将来の本線化を見据えて“大型蒸気機関車入線にも対応できるように”当初から準備していたということが結論のようです。
いつの間にか真っ白になってしまった南薩線大田トンネル。
伊集院方入口では、トンネル本来のレンガ色と石材のコントラストが美しかったのですが。
結構厚みのあるふくよかさは、カビのように見えて息苦しさを覚えてしまいます。
白化(白華)といわれる現象です。
レンガ内の成分を含んだ水がレンガ表面に滲み出て空気中の二酸化炭素と化学反応し、乾燥・結晶化したもので、低温・日陰・多湿の条件下で多く発生するそうです。
煉瓦屋さんのサイトを拝見すると、特長のひとつで耐久性の低下や劣化は伴わないと説明されています。実際そのとうりなのでしようが、素人としてはレンガ内の成分がレンガ自体を覆い隠してしまうほど多量に排出されている様子は、“スポンジ化→硬度不足→ひび割れ→抜け落ち→
一気に崩落”といったことを連想させ、見た目ともあいまってあまり気持ちのいいものではありません。
4番目の待避坑。
大田トンネルには全部で7個の待避坑が造られています。よって、この場所がトンネルの中心地点(起点より2,796.24m)である可能性が大です。
出口まで最も遠い待避坑なので、大きさ・奥行きなど形状に他の待避坑との差異を期待しましたが、違いはないようです。
伊集院方に勾配はついていませんが、トンネル内で20‰の勾配となります。
最後の待避坑を過ぎたあたりから枕崎方を撮影。
枕崎方。
未だ残る電信柱。
振り向いて伊集院方向を撮影。
水面を反射する太陽光が天端部を照らす。
枕崎方坑門。
伊集院方は古レールによる補強(※1)が2本されていましたが、こちらは3本です。
伊集院方同様に壁面には電信線の碍子が残されています。
上日置にかけて下り勾配が続くので、水が滞留する場所ではありませんが、排水路が埋もれて機能しておらず路盤全体が水没しています。藪も酷く坑門全体をスッキリと撮影することは叶いませんでした。
(撮影日:2011/02/18
冬季でこの状態です、新芽が吹けば所在すら危うくなるかもしれません)
(※1) (※2) 「セントル」 について
“坑門への設置(伊集院方2支、枕崎方3支)は戦前からされていた、一方伊集院方隧道内は昭和30年頃に煉瓦の崩れ・抜け落ちが発生したため設置した”
との情報を頂戴しました。
2013/03/17 追記
つまらない話
鉄道趣味のジャンルのひとつに“廃線跡探索”があります。
本線は廃線跡探索のガイド本にも掲載されており、駅跡周辺に限定すれば容易に探索できる路線ではあります。
しかしながら、駅間においてはサイクリングロード・自動車道路、宅地として転用されている区間や、草刈りなど人手の加わっている例外的な区間はあるものの、半分の区間はレールや橋梁の撤去後、そのまま放置され現在に至っています。
筑波鉄道・旧北陸本線(有間川〜浦本)など、長大な区間でサイクリングロードとして自治体により整備されている路線や、旧福知山線武庫川・足尾線藤間などハイキング気分で踏査できる路線とは異なります。
「水没トンネルにボートを浮かべて」といった箇所こそないものの、山間部の路盤跡踏査にはそれなりの準備をもって望むべき路線です。
本ページで大田トンネルを紹介しましたが、アプローチには充分な準備が必要です。
両サイドの抗門には有刺鉄線が張られていた跡があります。所有者(管理者)は軌道跡およびトンネル内への立入りを望んでいないものと思われます。
整備されていない山中に分け入る自由は自己責任においてです。
怪我をしたのは「しっかりとした立ち入り禁止を明示していないからだ」、「物理的な立入防止柵の設置をしていないのが悪い」などは理由になりません。
漏水を鉄道廃止理由のひとつとした隧道です。廃止以降28年間(2011年現在)保守されずに現在に至っています。伊集院方の入り口近辺以外はものの見事に白化しています。
すべてのリスクと結果は自身で負わねばなりません。
以下、道理の分かっている方へ向けたアドバイスです。
(2011(平成23)年2月18日時点の状況)
・アプローチは冬枯れの時期以外は難しい
(※1)と思われます。
・リュック、ヘッドライトを利用し両手が自由に使えることは必須です。
・足元はしっかりと固めて(くるぶしをカバーできる高さがあり、かつ厚底の靴)
・滑り止めのついたグローブ(軍手)も必要です。
・ゴーグル(眼鏡)装備尚可。
・セーター等引っかかる素材ではなくサラサラの化繊素材が良好。
・飛び越えない、飛び降りない、歩幅を大きくしない。
当初、伊集院側からアプローチしようと計画しました。高速道路の橋脚に沿って谷を下り、軌道跡に出たらわずかに進むだけで抗門に到達できると考えたからです。
しかし、一般道に駐車スペースがなかったこと、パッと見た目で高速道橋脚に管理歩道のようなものもなく密度の濃い藪が連続していたことから、確実と思われる加世田側からアプローチ
(※2)することに変更しました。
毘沙門近辺は例外的に下草が刈られて、自転車でも走行可能なくらいきれいな軌道跡となっています。
しかし、抗門まで120m余り前で藪に閉ざされてしまいます。
(写真は2011年1月9日と2月18日 冬季です)
藪を掻き分け路盤を進むのも一法ですが、進行方向右の田んぼ跡を回り込み杣道跡を進むと比較的容易です。ただし杣道跡と軌道路盤までの間は足元に充分注意してください。
トンネル内から出る排水が路盤脇を通っていますが、草に隠れて見えにくくなっています。落とし穴のようになっていてうっかりはまると、ひざや関節を裂傷する危険があります。飛び越える場合も、着地点の状態が草に覆われ定かでない場所は避けるべきです。着地の際、竹の切跡が靴底を貫通したり、バランスを崩して転倒した場合手や顔に刺さる危険があります。両手も使って安全を確保しながら進んでください。
棘のある枝植物がかなりの頻度で遮ります、引っ掛かりのない化学繊維素材の着用を勧めます。枝で眼球を突かないように注意してください。崖の上り下りも必ず両手を使って歩幅を小さくしてしっかりと地面を捉えてゆっくりと進んでください。
加世田側の坑門は水没しています。靴を濡らさずにトンネル内に入ることはできません。
水深は10cm程度、水底は踝まで沈み込む泥濘です。丈の長さが充分にある長靴を用意しておくことがベストですが、「靴の上からビニール袋3枚重ね」といった緊急避難的処置で一気にトンネル内に駆け込むといった粗暴な行動でリスクを負うよりも、ここまで継続した慎重な行動を最後まで貫いて、泥靴になることもためらわず、最後まで集中力を切らさず確実な行動をとることが安全面からは最良でしょう。
充分な準備と覚悟をもって実行すれば、意外と簡単にアプローチできるでしょう。
くれぐれも自己の責任において適宜状況判断を行い、安全第一で自分の実力に見合った方法でアプローチを試みてください。
(※1) 春〜秋の季節不適切な理由
@ 葉が茂れば藪の度合いは当然酷くなる
A 雨量の多い季節は足元が極端に悪くなる
B 雨量に比例し加世田方坑門付近の状態悪化
C マムシ、毛虫、蜂などの活動期
(※2) 1月9日に予備調査をして2月18日に実行しています。
その他のアプローチの可能性としては
@大田の築堤(伊集院方)からのアプローチ
I のような整備された路盤は長く続かず、藪の距離は加世田方のアプローチより長く続きます
Aトンネル上部から伊集院方坑門への直接アプローチ
高速道路高架と一般道との立体交差から一般道を鹿児島市街方向にセンターラインで13本目(画像取得日2006年5月4日のGoogle Earthより)を左直角に竹林の中を下ると、(地図の上では)最短距離で伊集院方の坑門に到達できそうです。自身は道路から見た藪の状況より
“イケル” とは思いませんでした。(竹やぶと斜面の状況は J の写真を参考にしてください)
Bトンネル上部から加世田方坑門への直接アプローチ
高速道路高架と一般道との立体交差から一般道を鹿児島市街方向にセンターラインで23本目(同グーグルアースより)を右直角に進むと(地図の上では)最短距離で加世田方の坑門に到達できそうです。ただしAの3.8倍くらい距離があり、自身の選択肢には含めませんでした。
C高速道路橋脚(鹿児島市街方)からのアプローチ
熊本方からのアプローチに固執してしまい、盲点でした。
帰宅後、1/25000地形図で確認したところ、軌道跡まで道路標記されていました。高速道路高架と一般道との立体交差から一般道を鹿児島市街方向にセンターラインで62本目(同グーグルアースより)が入り口となっています。調査していないのでコメントできませんが、藪になっていなければ軌道までは500m余りと最長距離ではありますが、長靴の用意も要らず、一番安全なアプローチができる可能性があります。(だだし藪の茂る軌道跡も地形図では道路として記されているので、廃道となっている可能性も大きくあります)
2011/05/08
追記
トンネルについてご教授いただけたので追記いたします。
マムシだけではなく「イノシシ」にも注意が必要とのことです。
トンネル内および切り通し上部から集まる流れに沢ガニが繁殖し、それを求めてイノシシが集まり、快適なトンネル内で休んでいることがあるそうです。
“猪突猛進”、反対側に逃げてくれれば良いですが、突進してきた場合は大怪我のリスク(イノシシ-Wikipedia
ウィキペディアの“習性・特徴”を参照ください)があります。イノシシは冬眠しません、充分注意してください。
(2011/07/16)
追記-2
藪について
一般的な山歩きのルールに、「枝は必要があれば手折りしてもよいが、生木の幹に刃は入れない」 という考え方があります。
“刃の入れ方如何によっては後から来るヒトに危険をおよぼす”、“必要以上に自然に手を加えない” など理由は様々あるようです。
マナー面から考えたときに、天然林と人工造成跡地の植生は本質が違うのかもしれませんが、法規面から杓子定規に考えてみると、山林(軌道跡)の所有者の承諾なしに過度に手を加えることは問題がありそうです。入会権の延長として地元の方ならば問題にならない行為でも、部外者が同様のことを行えば地元の方(所有者)は快く思わないかもしれません。そもそも所有者のいる土地の探索なのですから、“こそっと通してもらっている、見せてもらっている”という謙虚な気持ちを持って、「部外者立入禁止」の札を設置されないよう、永続的な探索が叶うよう、行動したいと思います。(枯れ竹とはいえ、坑門をきれいに撮影するために排除したことを自戒を込めて)
(2012/09/08)
大田トンネルを後にして藪の中を145mほど下った、3116.994mに位置する下水溝
(※)
(※)付近に人家もなく、生活用水が流れ込んでいるわけではないので、“沢水”、“小川”、“清流”、“排水”、“用水”、何でも良いのですが、人家や田畑(耕作放棄)がある場合は収拾がつかなくなりそうなので、本ページでは桁を用いない短距離の渠(溝)を“下水溝”として表現します。
奥が枕崎方。
流れは右手前から溝にて線路を潜って左前方に抜け、東シナ海へと注ぐ大川に落ちます。
2013/01現在、下水溝の上には枕木が隙間なく架けられています。
a : 上方から上流部を撮影、脚は下水であっても流水圧を考慮して尖頭形で造られています
b : 下流より600側の溝を撮影、脚の寸法は長さ2,700、高さ1,100、幅310ほどです
c : 下流より側面を撮影 下流の脚は尖頭形になっていません
下水溝模範図からの謄写です。
手元の資料では伊集院線(伊集院〜加世田)では29箇所の下水溝が存在しました。このうち溝の個数が1つのシングルタイプが22箇所(76%)、ダブルタイプが6箇所(21%)、トリプルタイプが1箇所(3%
北多夫施駅南多夫施方に)ありました。
本、下水溝はダブルタイプとなります。
右図は実測できた範囲での凡その寸法ですが、模範図と比べて“溝幅”と“溝高”が随分大きく造られています。鉄道設備の法規に詳しくありませんが、径間450mm以上をレールのみで渡してよいのか、疑問が生じます。
因みに昭和初期に敷設された枕崎線(加世田〜枕崎)では下水溝は18箇所存在しますが、すべてシングルタイプだったようです。若干大きな下水については、保守コストと桁価格との見合いから下水溝を造らずTビームで架橋したことが理由のようです。(桁の低価格化→大量採用→大量生産→さらなる低価格化)
シングルタイプの下水溝は近年開通した路線でも必要に応じて設置されていると思いますが、ダブルタイプは桁が高価であった時代の産物であったと推測され、石組みや煉瓦を材料とする溝は改修や廃線などにより淘汰が進み、現在では結構希有な存在かもしれません。ましてや高さが1,100もある石積みの中間脚は廃線とはいえ貴重な遺産だと思います。伊集院線ではダブル・トリプルタイプ7箇所のうち、現在でも完全な形で残されているのは、この下水溝だけです。
4枚とも南薩線の写真ではありませんが、シングルタイプの下水溝、Tビームによる開渠、ダブルタイプ下水溝(煉瓦材)のイメージです。
ダブルタイプ下水溝のもう一例。
ここも100年以上の歴史を持つ(明治36年開通)路線です(コンクリートは後年施工)
下水溝より藪を若干下ると、手入れのしてある軌道跡が出現。
奥が枕崎方向。 カーブは R=201.17(交角32.25) 勾配は20‰(下り)です。
木々に囲まれ山岳路線のような雰囲気ですが、軌道の左手一段下がったあたりを注意して眺めてみると、かつて水田であったことが分かります。鉄道廃止の頃であっても棚田は良く手入れがされ、周りの雑木林の下草は刈られて風通し良く、澄んだ水音が響き、明るく見通しの利く場所でした。
大田トンネルを出てすぐの場所から県道に至るまで17段くらいの棚田が続いていました。県道から見上げると10段程の奥に写真の突端部(右カーブのあたり)を走る気動車の姿があったはずです。
先祖が開墾し代々受け継いだ水田を自分の代で放棄せねばならなかった心情は如何許りかと思いやります。南薩線沿線だけの話ではありませんが、放棄されてしまったもの達と、ハイブリッド自動車や蛍光灯が眩しい清潔感あふれる大型スーパーマーケットなどとの落差を感じざるを得ません。
自宅から雨にも濡れずに会社まで通勤できる便利な都会に住んでいる者の感傷ですが。
左 : Aの右カーブが終わったあたりから枕崎方(上日置駅)に向けて300型の車内から撮影
中 : 左写真の位置より、電信柱1本分前進して撮影
右 : 中写真と同位置より、28年後に撮影 山間部でありながら約400mもの直線区間が続きます
B-1より少し進んだ、3,388.0m地点の踏切です。奥が伊集院、手前が枕崎方。
坂道を登ると、集落 (毘沙門集落?)があります。県道から集落へ車で行くには若干の迂回が必要だったため、ショートカットした生活通路として造られたのでしょう。 正式な踏切としての扱いだったのかどうか、踏み板や
“ふみきりちゅうい” の札も整備されていません。
2011/01現在、軽トラックであれば通行できる幅に拡張されていました。 シングルタイプの下水溝も土管(塩ビパイプ?)に代わっています。
B-2の位置から枕崎方向を望む。
(3枚とも枕崎方向を撮影しています、朝靄のため霞んでいます)
a : B-2の踏切より 190mほど進んだあたり、依然として20‰もの下り勾配で、かつ直線区間が続いています
b : 長かった直線区間も R=201.17(交角24.59)で終わりとなります
c : カーブ終了地点の外側には毘沙門天が祭ってあります、ここから70mほどの区間は左右に水田を望む築堤となっていました。
3,779.70m地点に造られた第一毘沙門暗渠(下流の坑門)と、暗渠に隣接する毘沙門天とクスノキ。
クスノキは幹回りが 6m、高さが20mほどだそうです。各地にある樹齢数百年の銘木から比べると若手ではありますが、それでも用地測量・線路敷設、蒸気機関車・ガソリンカー・ディーゼルカー・2軸客車をはじめとするすべての客車・貨客車・貨車、傍らを駆け抜けた全運行、そして線路撤去、すべてを知っているはずです。
下流側坑門の大まかな寸法と模範図面の寸法を比べてみると、アーチの内径は600mmで一致するものの、厚さがレンガ3枚巻で模範の2.4倍に変更されています。伊集院〜日置間に造られた他の5箇所の暗渠もすべて3枚巻で150mmでの施工はありませんでした。
記録では大田暗渠と第一毘沙門暗渠において“開通後拱ノ中央部ニ亀裂ヲ発見セシモ其後擴大スルヲ認メズ”との記載があり、予見のうえでの施工だったのかもしれません。
a : 下流から上流に向けて(上流の坑門付近が暗いため坑口が写っていませんが暗渠内は直線です)
b : 上流から下流に向けて
c : 上流から下流に向けて オリジナルの底面は石組みだったと思われますが、近年コンクリート施工されフラットととなっています
伊集院〜日置間の6箇所すべての暗渠(水路トンネル)は現在も水路として利用されていますが、ここ第一毘沙門暗渠は
@ 道路に面して坑口があること
A 道路と水路との間を容易に上り・下り出来ること
B 水路底面がコンクリート施工され平であること
C 水深が浅く深さが一定していること
以上より、降雨後の増水時でなければ特別装備がなくとも(懐中電灯くらいはあったほうが楽しいと思いますが)厚底の運動靴で探索が可能です。(他の5箇所はアプローチが難しかったり、足元をしっかりと固める必要があります)
暗渠内には比較的大きなクモ
がいただけで、コウモリ、ヘビ、カマドウマ、ムカデ・ヤスデ類との遭遇はありませんでした。(今後もお住まいにならないとは言えませんが)
物好きな方はトライしてみてください。
第一毘沙門暗渠より110mほど進んだ 3,889.332m地点の第11号踏切跡。
この踏切は幅員1.8mで鉄道末期にはC規制(大型自動車通行禁止)がかけられていました。
ここより、上日置駅手前までの400m余りの区間は藪に閉ざされます。この地点での勾配は20‰ですが、左 R=160.93(交角22.6度)に続く右
R=120.70(交角82.1度)終盤あたりで25‰に変わり、続く左 R=120.00(交角66.3度)のやはり終盤あたりで10‰となって上日置構内に進入します。
第11号踏切より370m程進んだ藪の築堤に遠矢ヶ原から大川に落ちる小川を通すため、第二毘沙門暗渠が造られています。大田と第一毘沙門暗渠の幅は(記録では)1.22mと両手を伸ばすと簡単に壁面に届く大きさでしたが、上日置駅進入直前に位置する第二毘沙門暗渠は、幅2.44mと2倍の規模で造られました。
側壁は惜し気もなくヒスイ原石を、煉瓦状の天井は赤珊瑚と一部ルビーの原石も使用しています。
壁面に括り付けられた竹竿は原石を削りに来る不届き者を見張っているモンスターの仮の姿、金槌を振り下ろした瞬間に背後から襲われることでしょう・・・。
当初洞内の掃除に使うのかと考えましたが、農作業か何かで使用するための保管場所として利用しているのかもしれません。
上日置駅から大川に架かる日置鉄橋までの区間にも幅1.22mの暗渠が3箇所があります。
上日置駅スイッチバック線の分岐器(ポイント)あたりから、暗渠のある築堤を撮影。
(線路はイメージで描いています)
こんな気持ちの良い軌道跡が、ずぅ〜と続いていればいいのにね。
暗渠はすぐそこにあるのですが、藪に阻まれ築堤上から眺めることは叶いません。
築堤サイドから上日置駅を撮影。
30年前の写真で待避線の軌道敷跡をイメージすることは容易ですが、今では山が地形までも飲み込んでしまっています。
山の木々はすぐそこまで迫ってきているものの、
どなたが手入れされているのかは分かりませんが、
年末の大雪の重みで軌道跡に倒れこんだ竹もきれいに撤去されて、“春うららの気持ちの良い小径”といった風情です。
手入れがされていなければ、給水塔ですら山に飲み込まれていたかもしれません。
樹木の侵攻に加えて雪による倒れこみや枝下がりのため、同地点からの比較撮影は叶いませんでした。
現役の頃は“ちょっと寂しい”雰囲気でしたが、それでも今と比べれば見通しが利いて開けていた駅との印象です。
2010(平成22)年12月31日の大晦日に降った雪は、鹿児島地方気象台で12月の“降雪の深さ”としては2005年11cm以来の極値更新となりました。
25センチメートルもの湿った重い雪は竹・樹木だけではなく冬枯れの草の上にも長期間積もり、丈のある雑草を根元から押し倒し、今まで何年も覆い隠し続けててきた構築物を冬の日向に出現させることとなりました。
大雪さん、ありがとう。
2番線ホーム(スイッチバック(待避線))、コンクリート製の側壁です。
上日置駅のスイッチバックが現役だった頃の写真は、
Rail magazine No.153でしか見たことがなく、木杭と板でホームの土盛を支えるタイプの側壁(同タイプは吹上浜、薩摩湖、南吹上浜各駅
(※))しか写っていなかったために、ホーム全体がこの様式だとばかり思い込んでいました。側壁が残っていたことは大変な驚きでした。
幻のプラットホームと言ってもいいでしょう。
待避線が開通当初から敷設されていたか、どうかは調べ切れていませんが、ホームについては1914(大正3)年の開通と同時に開業した各駅
(※)のホーム側壁が例外なく石積みであったため、1年10ヶ月後の1916(大正5)年7月25日の毘沙門駅開業時か、またはそれ以降に1番線と同時期に造られたのではないかと推測できます。
(※)伊集院〜加世田間 開通は1914(大正3)年4〜5月、以下の4駅開業は開通以降
吹上浜
1915(大正4)年5月1日
薩摩湖 1955(昭和30)年1月1日
南吹上浜 1916(大正5)年7月25日
毘沙門
1916(大正5)年7月25日 (1934(昭和9)年6月1日上日置に改称)
薩摩湖、吹上浜両駅の側壁素材が石材・コンクリートでなかったのは 「国有地内に存在したから」 という話もあります
駅跡整備に際して、幻のプラットホームを覆い隠していた藪が刈り払われ待避線が露わ(2014(平成26)年1月10日撮影)になりました。
a : 伊集院方のホーム起点、スロープが設けられています
b : コンクリート製側壁の終端部、現役時代は板と杭の側壁による盛土ホームが枕崎方に向けてさらに延長されていました
2番線ホームのコンクリート製側壁は給水塔の手前より始まり、全長は35mあります。
給水塔の水は大田トンネルから引いていました。
トンネルの出口付近は約82m、給水塔のあたりが53m、給水塔が概ね6mなので(水圧を考慮しなけれは)23mもの余裕があることとなり、トンネル出口で直ぐに鉄管で取り込む必要はありません。戦中・戦後の物資が不足だった頃は余裕のある位置まで(流しそうめんのように)竹を利用して通水していたそうです。
上部が解放されている貯水槽内には鯉が放され、折々のタイミングで職員の腹に納まったそうです。南薩のカマには鯉を肥育した水を飲ませていたということになります。
朝日を浴びて佇む給水塔。
2013/09/07 撮影
上日置駅がスイッチバック駅であった理由は“上日置”のページで
「伊集院〜上日置間は全区間で最長の4.4q、上日置〜日置間も3.5qなのでどうしても列車交換のための施設をつくる必要があったわけです。 とはいえ山間ゆえ、充分な有効長を確保できるだけの水平スペースがなかったため、やむなく効率の悪い行き止まりの待避線ということになったのでしょう」と記載しました。
実際の列車交換はどのようだったのでしょう?
1955(昭和30)年9月20日改正列車運行図表(RM LIBRALY 109に収録)から部分転記したものを、整理しながら推測してみます。
結論として、赤のラインは待避線への進入列車(想像)を示しています。(根拠は以下に記載します)
斜数字が列車番号、
は隣駅までの(からの)所要時間をあらわします。
まず、読み取れることは、
@旅客列車、貨物列車、混合列車が1日に9交換している。
A1955年なので、運用車両は貨物列車・混合列車が蒸気機関車牽引(DD1200は1961(昭和36)年入線)、旅客列車はキハ100・300(キハ300は1954(昭和29)年入線)の気動車列車である。
B9.11・15時の3交換は下り列車が先着し上り列車の停車時間がいずれも30秒である。これ以外の6交換は上り列車が先着である。
C上り列車が先着の6交換のうち7・17・20時の3交換は蒸気機関車が牽引する貨物列車・混合列車であり、下り列車到着までの時間に余裕がある。
D気動車旅客列車の停車時間は上りが最短30秒・最長2分(6列車平均55秒)、下りが最短1分30秒・最長2分30秒(8列車平均1分45秒)と、下り列車の平均停車時間は上り列車の約2倍となっている。
Eすべての交換で上り列車発車1分後(11時の貨物列車のみ2分後)に下り列車が出発している。
さらに、すべての非交換列車についても整理してみると。
F非交換の貨物・混合列車はともに下りが30秒停車(455列車は通過)、上り貨物列車は3分停車、気動車旅客列車は全時間で上り・下りともに30秒停車(唯一418列車のみ1分停車)となっている
G隣駅までの所要時間については交換と非交換で差がない
以上より確証が得られるのは、B の“下り先着”により 「9・11・15時の3交換は下り列車が待避線に入線して交換した」 ということだけです。
B以外の6列車交換については、@〜Gのデータだけでは待避線利用だったのか否かを断定することが出来ません。
再度検証してみると、
C→下り列車到着までに時間の余裕があるため、1番線を通過しバックで2番線に進入して下り列車と交換することが可能だったかもしれません。とはいっても交換のために本線に進入することでスイッチバック最中での衝突リスク(下り列車の停止信号見落とし、ブーレーキ障害など)の可能性があります。時間に余裕があっても、1番線で機関車への給水作業などをおこないながら待機して、2番線を空け下り列車を進入させた後に交換することが安全面からは望ましいことでしょう。
D、E→下り列車が先発であれば上り列車が待避線を利用していたことに他なりませんが、下り列車は上り列車発車1分後(11時の貨物列車のみ2分後)に発車しています。
Gでどの時点を上日置駅の発着時間と定義しているのか(上りの到着時刻は本線上の1番線通過時刻か2番線到着時刻か、下りの発車時刻は2番線発車時刻か1番線通過時刻か)を交換と非交換列車で調べても、隣駅までの所要時間に差がないということは、下り列車が待避線で交換した後のスイッチバックを行う時間についてスッキリしないものの、逆に上り列車が1番線を通過してスイッチバックを行い待避線(2番線)に進入出来たかといえば、18・21時の交換では上り・下り相方の到着に30秒の差しかなく、安全面からありえないと考えざるを得ません。
よって、9.11・15時の3交換以外の6列車についても下り列車が待避線(2番線)に入線していたと推測しました。
上り列車が1番線より発車した後に、待避線(2番線)から上り列車の後を追うように本線に出て、スイッチバックをおこない1番線を通過し非交換列車より若干速度を増して日置駅に向けて駆け下りていった。ということではないでしょうか。
(1955年9月20日改正のダイヤで筆者が勝手に推測する限りです)
とは言いながら、蒸気機関車牽引時代 “伊集院方面への上り列車はスイッチバック線の最奥まで詰め、一旦体制を整えた後に大田トンネルまでの上り勾配に挑んだ” という記録が複数存在しています。17時と20時の上り貨物列車はその重量と時間的な余裕から、待避線に入線していた可能性を否定できません。(だとすると、7時の混合列車はどうなるのかなぁ〜? 時間が微妙。 悩!)
交換のための行き止まり線に設けられたプラットホーム。
本線ホームより幅が狭く、背後にはすぐ山が迫っていた。
それでも本線ホームと同じ数の旅客が行き交い、運転席の移動のために運転手も降り立ち、晴れた日には上り列車が到着するまで、車掌ともどもホームの上で一服していたかもしれない。
交換の賑わいが過ぎれば、四季折々、早朝の山霞、鳥たちの囀り、雨あがって花輝き、蜩の音、ススキと満月・・・、静かな山里の停車場。
もう二度と列車が停まることも、人が行き交うこともない。
冬の陽を浴びて春までの一瞬の奇跡。
1ヶ月後にLを改めて撮影。 軌道敷に覆いかぶさる樹木。 それでも辛うじて定点撮影出来ました。
(左)上段がスイッチバック(待避)線。まだ電信柱が踏ん張っている。
(右)30年後、すべては飲み込まれてしまった。
それでもPの位置より少し前進して斜面を登ると軌道敷跡が確認できます。
(右)伊集院方向
(左)加世田・枕崎方向
下段が本線。 手前がスイッチバック(待避)線。
左が伊集院方(手前のスイッチバック線に立って左を見ればQ)
右が日置・加世田・枕崎方(手前のスイッチバック線に立って右を見ればR)
(G、O、Q、R、Sの線路はイメージで描いています)
このページの追加参考資料
鉄道と煉瓦 その歴史とデザイン 小野田 滋
鉄道構造物探見 小野田 滋
2011/05/03 仮公開
2011/10/16 完結
2012/02/05 線路図・線路略図表追加、図表加筆・修正、説明文章加筆、補足説明用写真2枚追加
2012/09/08 つまらない話 追記-2 追記
2013/02/02 伊集院川橋梁〜長谷川橋梁の区間 文章補足および写真挿入 ・入換
2013/02/10 長谷川川橋梁〜大田暗渠の区間 文章補足および写真挿入 ・入換
2013/03/17 大田トンネル〜第一毘沙門暗渠の区間 文章補足および写真挿入 ・入換
2014/06/08 ダブルタイプ下水溝参考写真追加、待避線および給水塔写真挿入 ・入換、文章補足