干河駅 








 上内山田駅を出発すると国道270号線の跨線橋を潜り、すぐに農道に付けられた踏切を渡ります。踏切りを過ぎて、16.7‰の勾配標が立てられているあたりから100m強の区間は高さ30mほどのほぼ垂直な崖下を通ります。崖は全面岩盤で掘削跡が筋となってくっきりと残されています。ここも落石覆いを設置しておかしくないほどの難所でした。
 右に旧道を従え左(R=240)、右(R=260)にカーブし、踏切で旧道を左に移すあたりからは束の間の平坦区間です。加世田川支流の大野川を大野川橋梁(9.10m)で渡リ終えると、左右に広がる水田に造られた築堤を25‰で登坂していきます。間もなく、右手は丘陵で閉ざされ、左手も線路に沿っていた生活道路が直角に線路から離れると、両方向から迫る丘陵を切り通しで進みます。最深部はトンネル計画もあったほどです。右カーブ(R=240)の途中から水平区間となりますが、相変わらず両サイドともに木々が連なり深山の雰囲気です。しかし、永吉〜吹上浜間の勾配のように林の層は薄く、左は広々とした畑に、右は加世田川に接しています。
 長い林間区間も加世田川に向けて左から右に傾斜する畑に出て終わり、前方に見える集落を過ぎて右手の加世田川を第二加世田川橋梁(12.20m)で左に過ごせば、右手に本屋を持つ干河駅に到着です。
 

 手前が伊集院、奥が枕崎。


 上内山田〜干河間(2,567m)の高低差は25.7mあります。これは上日置〜日置(3,454m)の46.9m、薩摩久木野〜金山(2.773m)の46.5mに次いで3番目です。本線(伊集院〜枕崎)は25‰を最急勾配として敷設されており、25‰区間の距離(1箇所区間)では薩摩久木野〜金山間の1,190mが第1位、第2位が永吉〜吹上浜の929m、第3位が上内山田〜干河の840mとなっています。
(高低差1位の上日置〜日置は20‰の勾配が1,626mも連続しており、25‰の区間は1箇所100mしかありません)
 25‰の区間の多くは道路や人里に隣接していましたが、上内山田〜干河の25‰区間については2/3程度は広大な畑に隣接する谷間に敷設されていました。乗務員はこの区間で旅客避難を必要とするようなトラブルが起こらないことを願っていたことでしょう。


 隣駅の上内山田の駅舎は早々に撤去されてしまいましたが、袴腰屋根の干河駅は鉄道廃止まで役目を果たしました。
 この駅の改札口はコンクリート製ではなく木組みでした。



 干河駅前には新田集落、干河川に沿って大原・中原・干河上の各集落 本屋とは反対側の山中には大野集落などがあり、昭和57年度(1982年)には1日平均で乗車・降車ともに19人強、定期4人弱(加世田市史 上巻より)と、上内山田駅の3倍程度の乗降者数がありました。
 畑地の無人区間の存在と一段山中という地理的要因より、市の地域区分では上内山田駅までが加世田市北部・東部として、干河は津貫と一緒に加世田市南部として区分けされています。学校の校区も異なっています。

 駅の無人化は、1953(昭和28)年6月25日に南吹上浜・内山田・薩摩久木野の3駅と一緒に本線(伊集院〜枕崎)で先陣を切って貨物廃止・荷物扱い廃止と同時に実施されました。上内山田駅のページで記載しましたが、利用旅客数の多少によるものではなく、列車交換など運行管理上からの理由と推測されます。



 国道から本屋を撮影。(奥に線路は敷かれています)
 丸型気動車が停車していればもっと良かったのですが、残念です。

 無人化から30年、屋根の両端から崩れ始めガラスも失われているものの、それでも窓枠は残り昔のにぎやかなりし頃の姿を想うことは容易です。

 出入り口には庇があり、雨天時には庇の下で傘の開け閉じがされていたことでしょう。
 左手には便所と物置がありました。
 正面には出札口が、待合室には窓を背にして長椅子が造られていたかもしれません。
 事務室につながって本屋の半分程度を宿直室が占めていたようです。
 畳敷きの宿直室には縁側も設けられています。左手には井戸が掘られていたかもしれません。
 戦前・戦中・戦後、夏の宵には裸電球が照らす宿直室の縁側を開ければ、蛍が飛び交い前面の水田や背後の加世田川からは河鹿蛙の鳴き声が湧きあがっていたことでしょう。


 ホームの全長は55m、中央部のかさ上げ部分は22m、幅は3mありました。

 右の草むらが貨物線の敷かれていたスペースです。
 貨物積卸場(貨物ホーム)は全長10m、幅5m(水平部分)で3方向に勾配が付けられていました。

 有効長は50mでした。
 旅客ホームの延長が55mなので矛盾するように感じますが、「停車場配線略図」を確認ください、伊集院方ホームに車両接触限界を示す“×”印があります。もう一方の枕崎方の“×”印との距離と、プラットホームの長さを目測するとピタリと一致します。

 ということは、貨物列車が常に先着するダイヤであるならば、旅客ホームを目一杯使う機関車牽引の貨客混合列車であっても、交換は可能だったでしょう。
 しかしながら、実際は干河駅での交換はなかったようです。干河駅での貸切扱いの貨車があったときだけ、下り貨物列車が貨物線上に貨車を切り離して留置し、伊集院方面行き上り貨物列車として枕崎もしくは津貫から戻ってくるまでの時間を利用して荷役をおこない、ピックアップする運用だったと思われます。



2012/02/18 仮公開
2012/04/22 完結