日置駅



 上日置駅を出発した汽車は、暫くのあいだ前方に標高237メートルの城山を眺めつつ、左手は県道と大川を見下ろしながら、山懐に沿って標高を下げていきます。住吉小学校横を過ぎ左にカーブした後、さらに大きく左カーブして上路式3連のプレートガーターで   一気に県道と大川を跨ぎ、今度は右に方向を変え諏訪の水田に接するまで高度を下げ、東シナ海へと続く水田の中を古里の集落を左手にみて進んでいきます。上日置駅より3.5q、高低差で47メートル下った先が日置駅となります。

 独特の雰囲気の(チョット寂しい)上日置駅をあとにして、前方に腕木式信号機が見えてくると、「賑やかな人里に下りてきた」との感慨があります。

 日置駅に進入するキハ300の車内から、1980(昭和55)年3月撮影。

 


駅構内の「信号テコ」から下り場内腕木式信号機の足元までワイヤーを誘導する滑車が点々と続いています。




 伊集院方より枕崎方向を撮影。
 鹿児島交通を知らない方々が、この写真をご覧になっても「どこが賑やかな人里なんだ」、もしくは「取り立てて特徴の無いごくありふれた村の駅」、のような感想しかお持ちにならないでしょうが、実は廃止間際の鹿児島交通にあって、この日置駅こそ押しも押されぬ「主要駅」のひとつであったということを以下に示します。


 主要駅であった理由


 私の勝手な思い込みや思い入れではなく、如何に特筆すべき「主要駅」であったかということがお判りいただけるかと思います。

 見方を変えれば「鹿児島交通って超ローカルって感じ」という感じなのです。


 伊集院側からの構内写真はこれ1枚だけなので少し拡大してみました。

 主要駅に見えてきましたか?


 伊集院方からはあまりパッとしませんが、枕崎側から見てみると平凡な配線ながらも、蔦の絡んだ丸い給水タンクと標高237メートルの城山、ホーム中心を貫く電信線、どっしりとした造りのホーム上屋がアクセントとなり、なかなか良い雰囲気を醸しだしています。


 鉄道模型のような写真。

 写真手前部分にあるトングレールとリードレールとの継ぎ目部分の「ずれ」が更に模型度を増しています。



 転てつ器標識の定位の色は一般的には「真っ青」のような気がしますが、鹿児島交通ではユニークな青色でした。
 
 単に経年による退色の結果だったりして?

 白いラインは純白ですからそんな訳はありませんね。
 


 ポイントは、駅員が都度切り替えを行う方式ではなく、常に定位が開かれているスプリングポイントでした。

 「ダイヤ」ページの昭和58年3月の時刻表をご覧いただくと、伊集院発20:05分日置止まりの汽車は、20:23分に伊集院に向けて折り返しますが、ここ日置駅で西鹿児島発加世田21:03分着のキハ300型最終列車と交換をしています。交換がなければ、同じホームに18分間停車し続けて反対方向に戻ればいいだけの話ですが、後続列車が同じホームに進入してくるため立ち退かざるを得ません。
 つまり、20:05分に右側の線路に到着した汽車はお客さんを降ろしたあと、回送列車として前進をしてスプリングポイントを乗り越え写真手前の踏切を越えたあたりで停車します。その後、方向を逆向きに変えて真ん中の線路に進入しホームの左側に停車して伊集院方面へのお客さんを待ちます。やがて写真奥より加世田行きの最終列車が右側の線路に進入し、20:23分同時に両列車とも発車し日置駅の一日が終わるということになるわけです。(実際、見たわけではありませんが多分そうだと思います)

 どなたか一部始終を記録された方はいらっしゃるでしょうか。
 


 本屋正面のホームの中にあった「信号切替てこ」

 右が「上り場内」枕崎方の腕木式信号用、
 左が「下り場内」伊集院方の腕木式信号用。

 「テコの原理」・「ワイヤーの張力」・「おもりの利用」により信号機の遠隔操作が可能となる。



 コンクリート土台とコンクリート覆いの「信号切替てこ」を中心に、可愛らしい階段と小さな松の木、松の根元にはこれまた小さな石組みが。 



 日置駅本屋。


 現行の税法で停車場に用いられる木造建物の償却期間は15年(因みに住宅は20年)と定められています。
 常識的に考えて、如何に鹿児島交通が物持ちが良いといっても南国の強烈な日差しの下、台風銀座の鹿児島にあって、まさか大正3年の開業時からの70年ものの「ビンテージ本屋」ではないですよね?

 昭和30年前後くらいに改築された駅舎でしょうか?

 でも、ひょっとしてひょっとしたら。
 ビンテージもの?



 純和風の有人駅舎です。

 さて、カメラは一台しか所持していないのに、カラー写真から白黒、またカラーになったり、後半にかけては晴れ・曇り・雨上がり・雨と忙しいですが、これは3日間の行程を日置駅をベースにしたためです。


 若者が初めて自由旅行を計画する際に一番悩むところは宿泊先でしょう。
 自身も高校卒業記念として田舎の松山まで行ったとき、電車が好きだったこともありますが、初日は夜行の「大垣行き」、2日目は「うわじま1号」、帰路は「鷲羽」の車内で過ごし、外では一泊もしませんでした。
 これは「ホテルは正装していないと泊めくれないはず」、「旅館は温泉のついていない駅前旅館であっても旅館と名がつく以上、食事は部屋まで運んでくるはず」といった恐るべき思い込みからでした。大学に入学し、ビジネスホテルなるものの存在を知り、旅館と名がついても食事なしでも泊めて貰えることを知りました。もう少し早く知っていれば行動範囲が広がっていたし、松山までずーと車窓を楽しめたのにと残念な思いをしました。
 ユースホステルなる「若者向けの健全・清潔・安価な宿泊施設」を知ったのもこの頃です。



 ユースホステルとは?

 当時のユースホステル会員証の裏面に記載してある「ユース・ホステル運動の目的」には以下のように説明があります。
 「この運動は国際ユース・ホステル連盟の規約にのっとり、青少年がその自力による簡素な野外旅行活動によって、国内外の地理、風物、文化、歴史及び産業等各方面の知識をひろめ、規律あるグループ活動及び日常生活の良習慣を体得するため、これに必要な教義の場としてのユース・ホステルを設置管理し、これを提供利用せしめ、もって社会有為の青少年を育成することを目的とする」

 崇高なる理念のもと、日本全国に協会直営、公営、民営(旅館兼業、お寺、廃校利用、民家の一部改造など)合わせて当時多数の施設がありました。学生の休暇時期には全国からバイク、自転車、鉄道利用などで若者が集い
「どこからですか?」⇒(居住地ではなく前日の宿泊地の意味、(ほとんど全員が前日は近隣のユースに泊まっている))ではじまり、
「明日行く予定だけど、どんな感じですか」「あそこの背の低いほうのヘルパーは・・・」「ミーティングのときゲームで・・・」「早見優似の子が連泊する」「松本伊代似は○○ユースにいくと言っていた」「おお、この前はどうも、どこ回ってきたんですか」等々ユース利用者共通の話題と、自身の旅行成果、近隣情報のやりとりなど、話題に事欠かないので見知らぬ同士でもすぐに打ち解けることが出来、和気あいあいとした雰囲気で一緒に食事をして、リラックスして一晩過ごすことが出来るといった宿泊施設でした。
 二食風呂付で\2,500.-前後
                といった値段で、飲酒は不可。通常個室はあてがわれず、二段ベットの4〜8人部屋や大部屋で枕を並べての就寝でした、シーツは枕カバーの機能も兼ね備えた封筒型のユース指定品を持参もしくはレンタルして用います。口元が直接布団に触れることがない優れもので、今でも寝袋を使うときに重宝しています。
 食後にはエッセイストの野田知佑さんが「魚眼漫遊大雑記」のあとがきで「日本の幼稚園のようなユースホステル」と評している、「ミーティング」なる全員参加の集いがあり、ユースごとのオリジナルゲームをしたり、歌をうたったり踊ったりと小学生に帰ったような気分でおおいに楽しく過ごしました。
 入会3年以上継続かつ、国内のユースを100泊以上すると協会特製銀バッチがもらえる制度があり、初心者ホステラーは銀バッチ保有者を「世捨て人」と称し一目置いていました。銀バッチ3個あつめて本部に持っていくと金バッチに変えてくれるといったウソか本当か分からない話もありました。
 イデオロギーも宗教色も排除されていましたが、(今はどうか知りませんが当時は)到着時には「ただいま」、出発時は「行ってきます」、管理人は「ペアレント」、世話役は「ヘルパー」と呼ぶなどユニークな特徴もありました。

 日置の「吹上浜ユースホステル」は民家を改造した施設だったように記憶しています。風呂は近所の公営(?)の温泉施設を利用していたような気がします。ペアレントは西郷隆盛のような風貌の元校長先生だったかな?ミーティングは別棟でギターに合わせて声が枯れるまで歌ったような記憶がありますが、別府ユースや指宿ユースのような笑い転げて腹筋が痛くなるような盛り上がりではなかったかもしれません。

 宿泊するたびにユースごとの色とりどりなスタンプを押してもらうことも楽しみのひとつでした。


 朝のホステラーお見送り風景。

 エプロン姿と柱の影の両名がヘルパーさん。
 日の丸を振っている一団は見送りに加わる、時間に余裕のあるホステラー。
 軽ワゴンの屋根には右翼の街宣車の如き拡声器が置かれ、柱の影のヘルパーの右手にはマイクが握られ・・・、「○○さん、あなたの・・・」
 昨夜の失敗やら極秘情報などが次々と披露されていきます。車内の本人も笑って応じます。思い出に残る暖かな見送りでした。

 近隣にお住まいの方々、車内の一般乗客は若者に鷹揚に接してくれていたなぁ〜と、今改めて思います。


 初日、上日置から日置まで乗車後16時41分の交換風景。

 どうしてこんな時間に幼稚園児(保育園児?)が沢山いるのだろう、普段の通園列車じゃないですよね。
 様子からしてこれから乗車するというふうには見えない、リュックサックを背負っているから遠足帰りかな?

 ひとりの男の子が乗降口あたりを覗き込んでいますが、
 「踏み台がプシューって引っ込むんだよ」
 なんて教えていたのかもしれませんね。



 本線と貨物側線のバラストの違いにも注目!


丸型気動車キハ103。
解体されず、唯一現存する気動車。


 上日置から乗車したキハ102が枕崎に向けて日置駅を出発。

 一方、この102は加世田豪雨で枕崎に取り残されてしまい、加世田の仲間のところにも帰れず、日置〜加世田間の区間運転再開後も枕崎駅の錆びついた線路の上にポツンと放置され、廃止まで270日間を残して予期せずその生涯を終えてしまった悲運な気動車です。
 取り残されてる時の様子は、豪雨の数ヶ月後にNHKの情報番組で取材されました。このときの様子は改めて別のページで紹介したいと思います。


 以下2枚は、1980(昭和55)年3月21日伊集院から枕崎まで乗車したときの交換風景です。
 恐らく10時11分の交換(伊集院行きは10分発)だと思います。

 随分と咲き誇っていますが、椿の花でしょうか。


 風景としてとくに意識もせずに見ている給水塔の石垣ですが、どうして上日置のように直方体にしなかったのだろうかと不思議に思います、石垣一つ一つにアールをつけて全体としてバランスの取れた円筒形にすることは長方形の石垣を単に積み上げるより随分手間がかかったことでしょう。
 もっとも出来上がりは手間を要した分だけ直方体に比べて柔らかく親しみのある美しいものになっています。
 職人さんの、経験に裏づけられた確かな手腕で作り上げられたのでしょうね。
 今、近代工具を使わずに当時と同じ時間で作れ、といわれても技術がついていかず出来ないでしょうね。




キハ300の先頭部からみた、日置駅構内に進入するキハ100。

 木製の電信線に固定された笠付き電球とホーロー引きの駅名票。


 以下4枚は、83年3月13日16時41分の交換風景です。

 枕崎行きが入線してきます。



 上日置駅のページで紹介したとおり、給水塔の給水口は枕崎方面行きの線路に向いて設置場所も枕崎方にありました。
 
 蔦の絡まり具合、錆のつき加減といいテーマパークにそのまま持って行きたいような味わいのある給水塔です。




 給水塔の下部構造 (石組み) は、保存されています。

 仔細は拙作、 のページでどうぞ。


 反対方向に目を転ずれば、加世田始発伊集院行きの汽車が進入してきます。

 美しいバラスト。

 清潔感のある構内。
 確かに無人駅の駅舎は凄まじいものがあったし、薩摩湖あたりの線路状態もかなり凄かったですが、こういった美しい線路も鹿児島交通の一面です。

 駅長さんも写っています。



 前々日の運用も枕崎行きがキハ102、伊集院行きもキハ103でした。

 赤い気動車をバックに西日を受けた真っ白な駅名票が映えています。


 給水塔と枕崎に向け出発する100型。

 構内の端にある第4種踏切に向け、警笛を鳴らしていたかな。



 こちらは雨がそぼ降る1983(昭和58)年3月12日、同じく16時41分の交換。
 進入する枕崎行きキハ103。

 この日は朝から「しとしと」降ったり止んだりで、歩くには辛い日でした。
 強風が吹いていたわけでもありませんが、ホームの待合所内は水が溜まり、ベンチもずぶ濡れで機能を有していません。



 1983(昭和58)年3月13日17時 17時26分の交換。

 300型 (角型気動車) キハ303西鹿児島行きと、加世田止まり100型 (丸型気動車) キハ103。



日置-吉利1号踏切(7,982.96m地点)から枕崎方向を撮影。

線路左の犬走りには8キロポスト (伊集院起点) と11.2‰の下り勾配標、車輛の右横(8,044.70m地点)には腕木式場内信号機。
R=301.75のカーブに向けて進行する、.加世田行き キハ103。


2007/02/25 公開
2012/05/14 文章一部修正・一部高画質写真に差換え
2014/12/21 文章一部修正・一部高画質写真に差換え