南薩鉄道の保存車輛 保存へ


本線のレール撤去と車輛処分後、加世田駅は本屋・旧本社(事務室)・石蔵・倉庫・電気室・動車庫・機関車庫を残して更地となった。
枕崎方を撮影。


更地となった旧加世田駅構内 (背後のマンションは池田製菓(当時)の社宅)
伊集院方を撮影、 その後寿屋スーバーの駐車場として舗装され貸し出された


まだ駅本屋や旧本社が残っていた頃


取り壊された客車庫があった辺りから、構内枕崎方末端部を撮影
右の倉庫に接する道路に、打鐘式(機械式)警報機の1号踏切(29,131m地点)があった。

(左) : 左の車庫は早々に取り壊されてしまった客車庫、右の建物が上の写真の倉庫  (右):: 加世田-上加世田1号踏切を倉庫側から撮影



商業施設駐車場整備に続き、鉄道廃止以来バス営業所として活用されていた加世田駅駅舎に代わりプレハブ仮設営業所が造られ
加世田駅舎はほどなく取り壊された



鉄道施設は石蔵倉庫(左端)、電気室(左奥)、動車庫(左)、機関車庫(右)を残すのみとなった
鉄道駅舎跡とその周辺はバスターミナルとして簡易舗装 (砂利圧縮) され、
かつての駅構内はバスと自動車にとって代わられた



広大な鉄道駅構内跡の片隅に残された機関庫と動車庫と石蔵倉庫と電気室
奥の池田製菓(当時)の社宅辺りまでが加世田駅構内だった



機関庫(左) と動車庫(右)
片隅に位置していたからこそ保管庫として車輛を残こすことが出来たのかもしれない、
構内のセンターに位置していたならば、新たにコストをかけて車輛保管庫を新設しただろうか、
土地の有効利用を優先して、他の車輛たちと一緒の時期に解体整理されていたかもしれない



閂の下された機関庫のなかには蒸気機関車3両と丸型気動車が保管されていた



一方、動車庫のなかにはDD 2両が保管されていた
いずれも庫内だけが唯一残された現役時代の加世田駅構内であり、時の止まった南薩線であった



その保管庫もついに屋根が崩落
鉄道廃止から8年(1992年) 


 車庫内なのに機関車に陽が射す
 (前方から) 1号(※)・2号・4号機関車
((※) このページでは1号機と2号機について、廃止時に付されていた番号で整理します
1963(昭和38)年の廃車時以前より鉄道廃止数年前までの期間と、廃止時から現在に至るまでの付番とは相違しているようです)


1号機関車 (1963(昭和38)年の廃車時は2号機としてプレートが付されていたように思われます)



丸型気動車キハ103にも陽が燦々と降り注ぐ



機関庫の長さの分だけ残された線路へと移動させるために
閂が外され、機関庫の扉が開かれる



車輛とホイルローダーとをワイヤーで繋ぎ、1台づつゆっくりと庫外へと移動させる



最後に丸型気動車 キハ103が引き出された



廃止から8年、
舗装され自動車とバスで埋め尽くされた構内へと、
いきなりタイムスリップしてしまった車輛たち
足元に先へと続く線路はない


機関庫は空となり、ビームジャッキ共々役割を終えた




2両のDDが保管されている動車庫の状態も機関庫同様に酷かった
屋根が一部抜け、天窓のような状態



機関庫の車輛と同様に、DDをホイルローダで引き出す
左 : DD1202    右 : DD1201
車番の簡易な特定方法は、スカートの警戒トラ模様がDD1202は上向き(山型)、下向き(谷型)はDD1201



 他社売却を目論み処分保留となったようではあるが、主目的たる貨物輸送での使用は10年間と短期間ではあったものの ( DD1201は1961(昭和36)11月20日製造 1971(昭和46)年3月31日貨物輸送廃止) 鉄道廃止時ですでに製造より23年を経ており、鉄道貨物輸送縮小傾向著しい環境下、非力な中古車売買契約は成立せず、不良在庫のような存在となってしまった2輌の内燃機関車。
 この時点で解体処分も検討されたようだ。

 DD背後の石蔵は南薩鉄道本社に隣接して造られた、貴重品保管倉庫。
 建物としては唯一解体させず、鉄道記念館として現存している。



動車庫内には先に解体された修理工場や木工所から運び出された旋盤など、工作機械類が保管されていた


 動車庫内全景。
 中央の赤い機械は各駅から回収された閉塞機。
 工作機械類は一部鉄屑売却されたものの、外国製旋盤などを中心に保存された。 一方閉塞機の多くは処分された。
 左右ピットを埋め、ホイルローダーでレールを引き抜き、フラットにしたうえで建物を解体した。 現在も左右のコンクリート・ピットはそのままの状態で埋まっているものと思われる。


1992(平成4)年10月、動車庫は取り壊された
隣接する電気室も同日解体された
石蔵を除き旧加世田駅鉄道関連建物の解体は完結した
白く新しい建物は、16日完成した乗合自動車整備工場(現在のバス整備工場兼機関車等車輛保管庫)
追って、木造の乗合自動車車庫も取り壊された


車庫解体後、上屋を失った車輛と工作機械類にはシートが掛けられた


   ビームジャッキについて


竜ヶ崎のリフティングジャッキ
台座に位置するハンドルで内蔵ローラーを展開させ、鉄板上をベストポジションまで移動
位置決定・ローラー格納後、スクリューロッド回転によりビームをリフトさせ使用
4台2対で1セット (4台1組)


他社のジャッキ
最近はスマートかつ軽量、移動も簡単に出来るようだ、何れも4台1組で稼働



1986(昭和61)年廃線、小松車庫のジャッキは (昭和40年前後の設置? ) 不思議なことに1対しか確認できない
もう1対のジャッキは電車横の小屋にでも備置してあるのだろうか?


重量感あるジャッキの基礎は掘削してコンクリートで固めており、線路に沿った横方向の移動は出来ない


移動式ジャッキの備置はなく、車庫前の引込みレールを活用し、“馬”を利用してジャッキアップしたのか?
はたまた、車両の一方 (片側) だけをジャッキアップするだけで、充分メンテナンス可能だったのか?



さて、南薩鉄道の加世田機関庫はというと、1台が1対となっているビームジャッキ 
ビームが線路を潜り繋がっており、1対が一体化している
この方式での今現在も稼働可能なジャッキは梅小路だけかもしれない?




南薩鉄道のビームジャッキ据付年月日は1950(昭和25)年7月とあり、実は2代目である。
初代は1934(昭和9)年8月に、自社製作(※) している。
初代の形様は不明であるものの、荷重25瓲・揚程910mmとの記録が残されている。
C12タイプ蒸気機関車(12〜14号機)入線以前の1〜11号機の運転整備重量は概ね30瓲弱であったものの
C12タイプは、
・12号機 新製入線1944(昭和19)年2月 運転整備重量50.05t
・13号機 新製入線1948(昭和23)年2月 運転整備重量50.00t
・14号機 新製入線1949(昭和24)年5月 運転整備重量50.00t
と、大型となったため荷重・揚程ともに従来のジャッキでは不足が生じ、C12タイプ3輌入線完了をもって1950(昭和25)年7月に50tジャッキに置換えしたものと思われる。
(※) 2代目製造の昭和起重機製作所創業時期と一致してたため、念のため一部部品等協力の有無について同製作所に確認をおこなったが、「残念ながら弊社製ではない」との回答を得ている
開業から昭和9年までの期間、1号機から6号機までの動輪を外して行うメンテナンスは如何にして行っていたのか新たな疑問が生じるが、大井川鉄道のようにピットに落とし込む方式だったのかもしれない(推測)



2代目ジャッキは、ビームが線路を潜って繋がっていることに加えて、
特筆すべきは、ジャッキが車長や形式の異なる車両に対応すべく、線路に対して平行移動が可能であったこと
全長8.5mの1号機と11.35mの14号機、20m弱の気動車まで自由調整できたと思われる


大阪市に本社を構える 各種クレーン・立体駐車場設備機械等、設計製造メーカー 昭和起重機製作所様より資料提供いただきました
移動部分の構造について記念館所蔵の青図では不鮮明であったため、昭和起重機製作所様から提供頂いたコピー図を転載
但し、コピー図は南薩鉄道納入時期に製造された同形式の図面であり、南薩鉄道に製造・納入されたビームジャッキとは
ホイルベースが1,100mm (南薩は1,000mm) であることなど若干の相違がある


同コピー図

ジャッキ2対のうち1対が車輪を用いて移動できるように設計されている。
・軌間650mm、軸距1,100mm、車輪径(踏面)250mm(フランジ径278mm)、車軸40mm
・鉄道台車同様に車軸からの重量を軸受を通してスプリングで吸収する仕組み  スプリング中心径56mm、線径16mm、巻数9.5巻
・ビームが空の時、ジャッキ自重のみではスプリングは伸びた状態であるためジッャキ主枠基底部はピット面 (車庫のコンクリート面) とは接せず、移動可能状態
・一方ビームに車両が載れば、車輌重量が加わることでスプリングは圧縮され、ジャッキ主枠基底部が接地することにより、華奢な車輪・車軸に一定以上の荷重負荷が加わらなくなると同時に、ジャッキ自体がしっかりと固定される仕組みとなる



もう一対のジャッキ (写真 左と中) は最初からボルトによってピット面と固定され平行移動は叶わない
右は伊集院方に設置されていた 移動式ジャッキ


昭和起重機製作所様から提供いただいた図面の一部



 一方駆動については、モーターからの高速回転を三段の歯車を介して低速回転に変速させるとともに、二段目のかさ器歯車(20度)で回転方向を90度転換してネジ軸に伝達

 主枠毎に取り付けられたモーターの動力によりジャッキアップ&ダウンさせるが、4台各々のモーターの回転数の差異・歯車の抵抗具合から、ネジ軸回転が4台ともに完全一致するとは思えず、ジャッキ高低差が大きいほど水平位置の確保は困難だったのではないかと推測される

 左右の水平差異 (左右の高低差) は個々のモータにもスイッチを設け、ON/OFFすることで微調整可能としたのだろうか?




50tの荷重を4台のジャッキで支えるが、
1台当たり約20t弱の重量は、ローラー等を用いて主枠全体で吸収する構造ではなく
ジャッキ軸ナットを通してネジ軸に集中させて支える構造
万が一ネジ軸が破損したとき、対を成すもう一方のネジ軸がフェールセーフを担う?



車庫解体にあたり、展示館への移設保存を企図したものの、
既に展示館建物基礎工事が終了しており、移設叶わず惜しくも解体処分されてしまった



南薩鉄道導入製品とは異なるものの、同時期・同形式の組立図面



南薩鉄道加世田駅機関庫内に設置された2代目ビームジャッキの青図
昭和起重機製作所が引いた図面ではなく、恐らくメンテナンス等社内利用のために自社で引き直した図面と思われる



1950(昭和25)年2代目ジャッキ入換えに際して、比較検討のため昭和起重機製作所から提案されたと思われる図面

軌間1,435mmとなっており、関西私鉄への導入実績製品であろうか。
特徴的なのは
・4台1組の独立方式であり、ビームが繋がっていない
・移動用車輪を基礎フレーム内と基礎フレーム上部の2段重ねで配して、前後左右に移動可能
・軸受と対をなすスプリングが装備されていない
・主枠両面への車輪装備により、車輌重量をジャッキ軸ナットを通してネジ軸に集中させず主枠全体でバランス良く吸収
・主枠たわみ防止の筋交設備
などの機能を有している。

終戦から5年後の1950(昭和25)年でありながら、現在主流である 自由移動可能な各々独立方式が既に製品化されていたことは驚きである。 (竜ヶ崎のように鉄板上を無制限にとはいかず、事前に敷設したレール範囲に限定されてはいるが)

2代目ジャッキ導入から数年後に当時大都市でも走っていなかった最新式丸型気動車・角型気動車を新製購入した新進気質の南薩鉄道ではあったが、ジャッキについては最新式を選択せず、ナゼ旧来型を選択したのか?
メンテナンス機材については、過去実績第一として保守的な考え方だったのか?
蒸気機関車のメンテナンスは最新型では不安があったのか?
如何に?


お ま け 


梅小路蒸気機関車庫 6番庫に設備
準鉄道記念物  現役のビームジッャキ
転車台側 (手前) が固定式、奥が移動式



奥の移動式ジャッキ
南薩同様に、車輛長に合わせるためにレールと車輪によって移動可能ではあるが、レール下格納を定位とする曲線加工をビームに施さず、直線ビームを採用。よって、ビームを取り外さない限り常時レール上に位置することとなる。移動式ジャッキ上を車両が通過できる南薩と相違。



(転車台から眺めたとき) 左方の固定式ジッャキ
(左) 5番庫方からの撮影  (中) 正面から  (右) 7番庫方から

南薩ではギアを下部基礎フレーム内でコンパクトに処理していたが、梅小路では電動機を主枠にぶら下げ処理するとともに、最上部で再度処理している、結果足元にはスペースが確保される。



固定式ジャッキ渡にされたビームのレールとの接合部
ビーム上のレールは溶接されているようだ
設置当時のレール?


京都鉄道博物館 梅小路蒸気機関車庫。

2004(平成16)年12月10日、扇形車庫ならびに 5t 電動天井走行クレーン・引込線が重要文化財に指定。 同年度に土木学会選奨土木遺産選奨。
2006(平成18)年10月14日、蒸気機関車・転車台等関連施設・保守用装置工具など “群” として準鉄道記念物に指定。
重要文化財の5t電動天井クレーンは収容20線のうち1〜7番線:検修線上部に設備されている。
検修線は現在も仕業検査・交番検査で使用され、準鉄道記念物のビームジャッキは6番線に設備されている。


重要文化財に指定されている扇庫は現在でも軽微な検査が行われているが、全般検査や中間検査などの大規模検査実施は効率性の観点から、扇庫に隣接した第2検修庫を京都鉄道博物館開館に合わせて建設し、おこなわれている。
近代的な第2検修庫天井には最新式天井クレーンが設備されている。