南薩鉄道の保存車輛 整備
庫を失い、バスと自動車に取り囲まれ、名実ともに進退窮まった車輛たち
機関車と比べて資産価値・文化財的な価値が少ない客車についても、車体が崩れ落ちても尚且つ放置し続けることに、前向きな理由を見出すことは困難です。
会社が将来の方向性や強い意思をもって、積極的に保管していたとは言えないでしょう。
意思決定も明確な方針もないまま、日々放置され続けた。 ということが本当のところだったように思います。
別の視点からすれば、採算悪化著しい鉄道部門において最優先事項は、現稼働資産の維持ならびに安全輸送でしょう。
欠車寸前・運行ぎりぎりの人員状況にあって、直接的な輸送や安全に関わらない (日銭を生まない) 廃車輛メンテナンスや整理・処分業務などは行う余裕がなかった、ということは現実であり、事実だったと思います。
(それでも、邪推が過ぎるかもしれませんが・・・、
鉄道廃止間際に 「14号機を整備復活させ、南薩線で観光列車として走らせる」 といった計画が持ち上がり、煙管を抜いて具合の確認を行うとともに、ボロボロの外観に赤色の錆止めを施しています。
が、結局のところ会社主体で整備のうえ運用するには費用負担や採算性から、実現していません。
これは、会社の本音は “早期廃線” であったものの、地元資本を傘下に収めた経緯や地域密着の運輸事業者として、地元住民から 「会社は無為無策で切り捨ててしまった」
と、後々言われないためのパフォーマンスだったのでは・・・・。
貴重な資産との認識のもと、観光計画や再利用の方向性が以前から真剣に検討されていたのであれば、状態維持のための最小限のメンテナンスや継続的な屋内保管はおこなっていた、と思うのですが・・・・。)
鉄道廃止時にあっても車輛について方向性は示されませんでした。
鉄道廃止後、加世田駅構内は車輛共々そのままの姿で手を加えられませんでした。
機関車の時と同じく、会社は跡地利用についてもビジョンを明確にせず、主体的に動かなかったのかもしれません。
やがて隣接する大型小売店舗より “駐車場として”、との引き合いを受け、加世田駅は更地化されることとなります。
ついに、車輛たちは “残存・廃棄” に振り分けられましたが、選択基準は将来の保存展示などを具体的にイメージしたものではなく、転売価値基準をもって未だ土地利用が定まっていなかった構内隅の車庫にて、当面の間(コストを要せず)保管が可能な6輌
(1号機・2号機・4号機・キハ103・DD2輌) とされました。
残される 1号機と2号機
残されなかった5号機 13号機 14号機 キハは銘板や札枠、尾灯などが外され販売会に出品されました
4号機は残された
鉄道廃止より2年、“廃棄” と振り分けられた車輛たちは加世田構内で解体されました。 (12号蒸気機関車とキハ102を除く)
13・14号機の動輪は残された 加世田車庫に戻れず、枕崎駅に残された丸型気動車キハ102
12号機は廃棄と振り分けられたものの、解体業者から所有者変更を経て、最終的には自治体が買い受け、加世田市(当時)の運動公園に保管展示されることとなりました。
上段3枚移設後 : 錆び付いたまま運動公園に搬入され、設置後に塗装作業された バラストが真っ白
下段左 : 再塗装された際に主連棒・連結棒(ロッド)に赤が入れられた 案内板を設置
下段右 : 再々塗装された際に動輪の釣合重りに銀色の化粧が施された
鉄道廃止から8年、一斉解体処分から6年後、機関庫が崩壊。
帰るべき庫も失い、進退窮まった車輛たちでしたが、時期を同じくして進捗していたバスターミナル整備など自治体の加世田駅周辺再開発事業のひとつに、
“鉄道跡地の証” として 「記念館的な構築物建設」 が盛り込まれます。
「鹿児島交通では、南薩鉄道時代の面影を残そうと、現在残っている機関車や客車を使って、鉄道博物館を建設する計画で、具体的なことについては検討中・・・」 (1992(平成4)年10月19日 鹿児島新報)
この時点で方向性が定まっていなければ、もしくはこれより以前に庫が崩壊していたならば、6車輛は (一部もしくは全部が) 解体処分されていたかもしれません。
鉄道廃止より9年後、1993(平成5)年4月より車輛整備および展示館ならびに記念館建設に向けた準備が始動。
最初の準備作業として、上日置駅構内に側線として敷設レール(30s)、信号機(場内・
キハ103 整備
整備は高圧洗浄機による車洗いから始まり、車体を囲む足場を組み上げた後に、屋根の錆取りから開始された
背後の建物は、建設中の乗合自動車整備工場 (現在のバス整備工場兼機関車等車輛保管庫)
雨樋の状態は悪く、腐食・穴あきが進行、一部を残して大部分は取り外された
作業は屋根の錆取りと同時に行なわれ、車体接続面の錆や腐食部を削り、補修後に錆止め塗装された
僅な部分でしかなかったが、オリジナルの雨樋は修繕に耐えうる箇所は極力残された
新たな雨樋はトタン板を折り曲げて製作され、オリジナルとの間をブリッジで渡された
(写真を拡大すると、点のようなオリジナルが8か所確認できる)
接合は双方ともにドリルで穴をあけ、リベッターで “かしめ” 、パテを塗って磨いた後に塗装された
ベンチレターもボディーとの接合部は腐食著しく、4か所で雨漏りが進行していた
同じく、トタン板で補修し、リベッターで “かしめ” 修復された
雨樋の腐食はスカート部分全体にも錆を進行させていた
鋼板表面で留まった箇所は、錆落し後にパテ補修で了と出来たが、深部まで腐食してしまった扉横下部分などは、
切り取り → トタン板当て → リベットでの貼り付け → パテ塗り → サンダーでの均し → ペーパーでの仕上げ → 錆止め → 塗装、
の手順で修復された
大きな補修は完了、仕上げ作業へ移行
先ず車体を薄く塗装、車体番号の103は消えてしまった
窓枠のひび割れ部分(木部)はボンドで修復、窓枠部と鋼板の隙間にはパテを充填
雨水の進入を防止
1993(平成5)年4月中旬〜6月初旬まで約50日間を要し、旧機関庫前での整備は完了した
、1993(平成5)年11月12日展示館に向けて移動、車内と床下部の整備が始まる
綺麗になった外装と比べて落差のある車内
廃止記念? 通学時?
コンクリートの上に枕木を並べた軌道に移動。DMH17Cまでの高さが確保されるとともに、排水も容易になった。
車内改装作業で発生するゴミも直接コンクリート面に落とし、コンクリ面を清掃することで作業環境は格段に改善した。
車内は当初、軽食堂として部分改造に留める計画であったが、車内からエンジン部の観察が出来るように仕様変更。
床を強化ガラスに張り替えるため、全面改装へと変更。
エンジン部の点検蓋を取り外した状態
新製時の点検蓋は床板同様に木製蓋であったと思われるが、晩年(※)は市販の鉄板 ( 縞鋼板 ) で代用していたようだ
(※)1970(昭和45)年9月の記録写真では縞鋼板で確認できる
現役時代の写真
全面改装時に縞鋼板は廃棄処分されたが、一部の板は現在も南さつま市内で活用されている
座席撤去 床板も撤去
床板の下には 協調運転のためのブザー、車内マイク、ラジオ、前後計器類等のための電気コードが走っていた
床板のウラ面に碍子を固定し、各々のコードを配線していた (写真は床板撤去なのでコードと碍子は宙ぶらりん状態)
ブレーキシリンダー(左) と 引き出し式(乗降)ステップと駆動部(右)
全面張り替え時の一瞬だけ全容を窺うことが叶った、貴重な一枚
万世線で使用されたであろうハフとテフ。
万世線のホーム高さは460mm、
本線の開業時も同様だったのではないかと推測する。
(昭和30年頃(万世線終焉の頃)の記録写真を見ると、
盛り土をして側壁の上に角材を置くことでかさ上げをしていたようだ)
4号機関車 整備
残された蒸気機関車は皆そうであるが、運用停止から30年弱、
“雨ざらし”であったり、“雨漏りする車庫”に隙間なく閉じ込められ、酷い状態
鉄道廃止後にあって、鉄道車庫・整備工場も失われたなかで、外部の業者に頼らず、社員だけでよくぞここまで美しく復活できたものだ
単なる業務としてではなく、携わった社員の熱意と愛情があったからこそここまで綺麗に仕上がり、保存が叶った 2013(平成25)年9月撮影
左から、4号機・2号機・1号機
下廻り整備には不向きなグラウンド
4号機の石炭庫 (石炭専用であり、テンダーとは異なり水タンクは一緒に設備されていない)
5月下旬から修繕開始
腐食の激しい後部石炭庫を取り外し、キャブ内の床板も張り替え
取り外された石炭庫はフレームも腐食激しく、すべて処分せざるをえなかった
(運転席搭乗手すり・バック誘導手すり・解放テコ受け・尾灯固定フックなどのパーツを除く)
煙突も腐食が進行しており、切断された。
、1993(平成5)年6月に新製された石炭ケースを載せる
運転席搭乗手すり・解放テコ受けはオリジナルを戻しているが、
バック誘導手すりはこれから施工される状態
ストレーナーの拡大写真。
錆と腐食
2017/05/15 仮公開