(薩摩湖~伊作)
全23駅間で吹上浜~薩摩湖が0.9kmで最短でしたが、次の短距離区間は薩摩湖~伊作駅間と上津貫~薩摩久木野間の各々1.2kmとなります。
※基準を 「駅中心キロ程」 とするならば
①吹上浜~薩摩湖間 0.891km
②薩摩湖~伊作駅間 1.150km
③上津貫~薩摩久木野間 1.180km
(資料 : 鉄道ピクトリアル173号)
伊作駅方から薩摩湖駅方向に撮影しています。 薩摩湖駅から写真奥の踏切までが約130m、奥の踏切から手前の踏切までが同じく約130m程の場所です。(進行方向とは逆向きです)
写真右手は薩摩湖(中原池)、左手は県立吹上高等学校となります。
伊作駅までは下り一辺倒です。
当時の旅行ガイド(ブルーガイドパック35「南九州・奄美」昭和57年発行)には「吹上浜・薩摩湖」について「玄人好みのほんとうの旅が楽しめる薩摩路のアナ場だ」との前説に続き、「薩摩湖」について、薩摩湖駅から徒歩2分「吹上浜砂丘が川をせきとめてできた湖。水の色はよくないが湖畔の桜、サツキが美しい。展望台からは吹上浜砂丘の松林が一望できる」との案内がされています。
時は流れて、1984(昭和59)年3月の廃線から9ヵ月後に公開された、映画「男はつらいよ」第34作のエンディングでは、廃線と知らずに待合室のベンチで来ない列車を待っているシーンのなかで、Bの撮影位置より若干本屋寄りからレールが剥がされた構内に向けたショットがあります。
廃線直後の情景については、映画公開前後のタイミングで訪問されている、堀 淳一氏の「消えた鉄道を歩く」に詳細な描写がありますので引用させていただきます。
「改札口の外も昔のまま。蘇枋色の枯れ草にボソボソと覆われながらも、ホームが完全な姿で残り、道床も、レールは取り外されているが枕木と砂利はほぼもとのままであった。・・略」
「軒の線が波打っているホーム側の庇と、これも軒、棟ともにゆがんだその上屋根とに、やや赤みを帯びた黒紫の瓦を、いかにも重くてくたびれた、といった風に載せ、庇の下に鉄道駅特有の支柱をズラリと並べた駅舎は、改装されて明るい玄関側とは対照的に、昔なつかしく古びていた。」
「ホームの北外れに、おそらく数千本もの錆びたレールが、山と積み上げられて、また哀愁をそそった。」
駅本屋は鉄道廃止後もしばらくの間、バス待合所とバス乗車券発売所を兼ねて活用されていたそうです。
現役時代の堂々たる本屋。
「差し掛け」はトタンではなく、屋根と同様に瓦が載っています。
訪問当時の駅舎のなかでは唯一のスタイルです。
「方杖」にアールがついていることにお気づきでしょうか。
加世田のホーム上屋と薩摩万世駅(開設の1916年10月から枕崎開通の1931年3月まで終着駅だった)でも同様の様式を確認できましたが、それ以外では手持ちの資料(南薩線内)のなかでは見つけることができませんでした。
改札口のコンクリートアーチも特徴があります、同じく薩摩万世駅でも採用されていました。(鉄道ピクトリアルNo.360) 伊作駅では下部がレンガ風に装飾されています。
実用本位の施設にあって、何気ないアートが見えてくると 「町の玄関口として、町の誇りとして、皆から大切にされてきたんだろうなぁ~」との思いが巡ります。
また、駅舎を引き立てる小道具として、いい位置にリアカーが置かれていますが、これは遠路はるばるやってきた鉄道ファンへのサービスとして、雰囲気を盛り上げるために設置したもので、移動できないようにコンクリートに埋め込んだボルトで固定されていました。⇒ウソです。手荷物・小荷物の取り扱いをしていたので現役バリバリです。
訪問当時は宅配便が全国展開を進めていた時期で、仮に鉄道が存続していたとしても小荷物扱い終焉直前の一枚となったはずです。
本屋正面。
「南薩鉄道唱歌」 6番 (軌跡より転載)
入来(※)をすぎて停車する
駅夫の声に伊作駅
のりもおりるも賑わうは
温泉客と思わるゝ
NHK「風雪の鉄路」では
早くも次は伊作駅
温泉客と思われる
乗り降り客も忙しく
とも歌われています。
※入来 : 1916(大正5)年7月開設
1925(大正14)年7月「入来ノ浜」に改称
1928(昭和3)年6月「南吹上浜」に改称
吹上温泉(伊作温泉)への玄関口としての役割も担っていました。
1979(昭和54)年当時の1日あたりの平均乗降客数は313名で、日置駅の441名に次ぎます。
ホーム中央に立つ電信線から分岐して、本屋へラインが取り込まれています。
移動している小荷物運搬用リアカー。
⇒固定されていません(しつこい)
貨物輸送があった時代には輝いていたと思われる側線もまったく使われているふうには見えません。昔は本線くらいにはバラストがあったのでしょうが、どこに消えてしまったのか。不思議です。
さて、側線にポイントもどきがありますが、これはどのようにお考えになりますか?
自身はこういった「廃」なものが好きな性分で、当時じっくりと観察したつもりでした。
結論は、枕木は(写真手前)2本だけが若干長めだったものの、それ以外はどれも通常の長さであったこと、枕木の「削げ具合」もポイント前後のものと同じで、交換されたとは思えなかったこと、なによりも(次のF参照)、「The End」 線路が延びていけないことから、脱線ポイントだと思い込んでいました。
しかし、今回改めてじっくりと見てみたところ・・・。
写真Fご覧のとおり、右に分岐しても先に延びていけません。
しかし、カーブに沿ってつけられた脱線防止のガードレールとは独立して、短いガードレールが存在しています。(B')
これはどう考えても、ポイントのクロッシング部に対応する曲線主レール用のガードレールというほかはありません。
脱線ポイントの類ではなく、その昔Fの写真右方向にもう1本線路が延びていたはずです。
Fの写真右手に僅かに確認できる、アスファルト舗装されている場所はバスの駐車場として使われていますが、大昔は貨物駅だったのではないかと想像しました。
このような木造貨車に荷物を積みおろししていた場所だったのではないでしょうか。
ここまでは想像です、ここより先は妄想の世界に突入です。
もし、貨物駅ではなかったならば・・・・。
「実は脱線ポイントモドキは昭和36年2月に廃止された伊作線の遺構だったのです。伊作線は「伊作」と「伊作温泉」間2.2kmを結んでいました。
伊作駅では専用ホームを持たず、本屋前に小さな気動車が待機し本線からの乗換客を迎えていました。(写真E 連絡通路奥の位置)
本線の列車が交換し、各々出発すると温泉客を乗せた豆列車はドアが閉められ、高らかなエンジン音とともに伊集院方に向けてポイントを右に進みます。すぐさま右に90度方向転換して本線と別れ、軽くタイフォンを鳴らしながら併用軌道へと入っていきます。ゆっくりと伊作小学校横、役場裏、窪田地区の軒をかすめて進行し、伊作川に架かる道路併用橋の「橋元橋」手前にある伊作線唯一の中間停留所「窪田」に停まります。橋を渡ってから伊作温泉駅までは専用軌道となり、汽車は軽快なジョイント音を発して「小牧」の集落を抜け、湯之浦川に沿って水田の中を快走しますが、ほどなく前方に川の両岸に立ち並ぶ「南湯之元」が迫り、町並みに突入する寸前、「天神橋」の袂に作られた機回り線のみの小さな終点、伊作温泉駅に到着します。」といった具合です。
(ターンテーブルの必要性、加世田方からのアプローチ優位性、各種法規ほか諸問題は一切無視です)
推測を土台にして、その上に妄想を積み上げて楽しんでいると現実の世界に戻ってこれなくなりそうなので、これくらいにします。
伊集院方面行きの線路です。(手前が伊集院)
ホームの側壁は石材です。
直線ブロック同士の接合面に角度をつけることにより線路と同じ曲線に仕上げています。
気動車の停車位置が決まっていたことと、雨が降れば手前のスロープへの流れ道となっていたことで、側壁と比べてホームが削られています。
側壁がしっかりしているのは、堅牢さに加えて100型独特の昇降ステップの存在もあるかもしれません。
古びた鉄道を見下ろす近代的な集合住宅。
1983(昭和58)年3月12日撮影。
南吹上浜から丘陵を下って、伊作川を渡り、今田・中原にまたがる水田地帯に敷かれた築堤の上を大きく左右に車体を揺らしながらやってくる キハ102。
日々に溶け込んだ当たり前の風景。
田おこし、代田、田植え、濃厚な土の香り、梅雨曇り、青田波、油照り、台風、入道雲、草いきれ、穂を垂れ黄金色に色づく田、稲刈り、稲架掛け、高く青い空、穭田、小春日、冷雨、冬枯れ、澄んだ空気、
赤い気動車との最後の一巡。
翌年3月17日鉄道廃止。
季節の巡りは変わらないが、折々の風景のなかに赤い気動車はもういない。
2008/1/11公開