(伊集院〜上日置)


 「一刻も早く "ナマ鹿交" と接触したい」と伊集院駅を飛び出し、軌道に取り付いて、漸く思いを遂げた記念すべき「First Shot!

 ところが、情けないことに20年を経た今、この場所がどこなのか不明なのである。ずーと大田トンネルの手前の地点とばかり思っていたのですが、今回あらためて確認してみると太陽の方向とフィルムの順番から考えたとき伊集院市内を流れる神之川の鉄橋あたりから上日置駅方向を写したようです。

 写真中央、線路右手には足回りのない木製有蓋貨車が置かれていました。

             



 上日置に向けて、大田の集落を通過するキハ300の車内より。1980(昭和55)年3月撮影。
 小川に架かる上路プレートガーター(無道床)の奥には県道24号線に架かるコンクリート橋が確認できる。
            

 左の車窓に写っている家屋に注意しながら、次の写真を見てみると。

 


同場所を県道脇の田んぼから撮影。

 左が枕崎方、右が伊集院方向。
 伊集院14時49分着、折り返し16時25分発となる列車。
 上路プレートガーターを通過した伊集院行き100型キハ102。

 伊集院に14時49分着の列車だから46分前後に通過のはずと見当をつけてカメラを構えていたましたが、相当遅れて(5分以上だったと思う)通過していきました。
 後で知った話だと、線路状態が悪く恒常的に遅延していたようです。

 ここから先は人家もほとんどなく、また道路は大回りしているので軌道上を歩くこととする。(20年以上も前の、まだまだのんびりしていた時代のことです、当たり前ですが自己責任です)
 


 大田のガーターを渡り、築堤を進行し左手に水田を左下に見ながら左へ右へカーブすると水田も徐々に狭まり、ついに丘陵と接し切通しとなる。

 カーブの先は、再び左右に水田が開けます。1980(昭和55)年3月撮影

 さすが南国、おおきな羊歯類が目に付きミニジャングルの様相を呈しています、関東の路線とは趣を異にします。



 そしてまた切通しとなり、その右カーブの先には。


 今風に言えば
  キター!
                 といった感じでしょうか?


 木製のレール押さえ(チョック)とガードレールが整然としていて美しい。

 左右切り通しの下草も刈られて、よく手入れがされている。それとは対照的なトンネル上部の「こんもりと湧きあがってくるような木々の緑」に注目。



 大田トンネル、伊集院側の坑門。 352メートルの直線トンネル。
 上日置側抗門は下部が遮られ上部半分しか確認できないことから分水線となっていることが分かる。
 
 さて、ここまで軌道上を前進してきたが、どうしよう!

 時刻表を再度確認する、絶対に60分間は列車は来ない。
 「交通公社の時刻表上では・・・」
 「区間運転があったりして・・・」
 「臨時列車があったりして・・・」
 「保線の作業車が来たりして・・・」
 「う〜ん・・・・・自己責任・・・・「鉄道ファン無謀な通行」新聞記事・・・警察・・・逮捕・・・それよりも轢死はいやだ・・・」考えること暫し、地図を確認すると、「なんと!尾根に道がある、しかも枕崎側に分岐しているし!」 早速、脇から尾根を目指してよじ登り始める。

 20分後、全身汗まみれになって再び舞い戻る。
 「バカヤロー、鹿児島ふざけんじゃね〜。関東の丘陵なら今の季節落葉していて下草もねーぞ! おまけに尾根筋に道ないし!」急斜面の竹薮ジャングルで滑落寸前だったし。

 リュックを下ろしタオルを出して、呼吸を整え、残り30分。「鉢合わせしてしまったら反対方向へ全力疾走して捕まるまえに逃げきる」を心に決め、リュックの肩紐を体に密着するようきつく締め直して、入洞。


 前方が通じているとはいえ、どんどん暗くなってくるし、なによりもなによりも「この足元の悪さと、頭上から滴り落ちてくる水は何なんだ!」 トンネル内部は雨が降らないのだから当然乾いていると思っているじゃないですか。
 一箇所だけではあったが、枕木の上だけがわずかに水没を免れている、といった場所もある。一歩一歩足元を確認していかないと泥靴になってしまう。「全力疾走なんて出来ないよ〜、おまけにまだ1/4もきていないのにほとんど真っ暗だし、ひぇ〜誰かうずくまってる〜(幻影)」

 「こういった状況のとき、股間をぎゅっと握り締める自分を発見」

 この日より103日後、6月21日の加世田水害で甚大な被害を受け全区間が不通となりました、20日後の7月11日に日置〜加世田間は区間運転を再開したものの、伊集院〜日置間はこの大田トンネル漏水のため(漏水を理由に?)国鉄区間の伊集院〜西鹿児島で運用されるキハ300型のメンテナンスの為の回送列車を除き、二度と客扱いした列車が走ることはありませんでした。同区間はバスが代替運転され、伊集院〜西鹿児島運行のキハ300との接続をおこなっていました。

1980(昭和55)年3月撮影


 トンネルも抜けてしまえば、なんてことはない。

 「誰もうずくまっていなかったし、鳥はさえずり空は青いし」 なんて調子に乗って進んでいくと、 カーブの先から

 「キーン・・・キーン・・・キーン・・・」レールを伝わって金属音がしてくる・・・・・。

 「やばい! 保線作業している」




 伊集院から3.2km付近 (旧伊集院町と日吉町の境界あたり) をキハ300の車内から枕崎方向に撮影。


 同方向を3年後の1983年にも撮影。

 

 「横に抜ける道ないし・・・・トンネル通ってきたことばれちゃうし・・・・もう時間ないし・・・・どうしよう」

 1分ほど考えて出した結論。 「怒られたら、素直に謝る」 歩みを進める。
 「キーン・・・キーン・・・キーン・・・
 「・・・・・・・・・」
 
 農家のご老人が脚立に乗って、両手で使う巨大なはさみで線路脇の枝を切っていらっしゃいました・・・。

 ご老人に目礼して通過。
 こんなびくびくしながら歩いてもちっとも楽しくない。
 もう軌道を歩くことはやめよう。

 軌道修正。


 左が枕崎、右が伊集院です。

 簡易舗装の道路と鹿児島交通枕崎線との交差。

 道床上に板などの設置がなくとも道が連続しているところが面白く、撮影しました。

 




 いろいろあったけど、漸く上日置駅に到着。

 右に分岐する側線は、訪問時には枕崎方で本線と合流した痕跡がなかったため、保線用車輛の留置線の類だろうと想像しました、草も生い茂っていたためにろくに踏査せず、廃線後鹿児島交通が発行した「軌跡-南薩鉄道70年」を郵便為替で購入した際、スイッチバック駅である旨の記述があり悔しい思いをしました。
           

 というわけで、線路が残っていたかどうかは覚えていませんが、写真をみると断ち切られているように見えます。駅舎横に積まれているレールがそうなのでしょうか?



 本屋を線路側から撮影。

 鹿児島交通の駅舎の中では、まだ原形を保っている「ましな駅舎」です。

 右の構築物は給水塔。





 本屋の勇姿(カラーです!)と上日置を中心に撮影した車輌の写真は

   http://hasekasuga.sakura.ne.jp/
   鉄道写真
    九州(私鉄線含む):S54.3
     私鉄・路面編はこちら
      鹿児島交通



 「石造りの給水塔」

 雰囲気を出す為にわざとレトロっぽく画像処理したのではありません。思いっきり西日&逆光の真っ黒な写真をどうにかみれるように処理したらこうなってしまいました。

 鹿児島交通(伊集院〜枕崎)で給水塔があった駅は「上日置・日置・加世田・上加世田・枕崎」の5駅だそうです。(※)  
 このうち「上日置と日置」、「加世田と上加世田」が隣同士の駅となっています。

 何故わざわざ二駅続けて設置したのでしょう?

 加世田の場合、給水塔は車庫の奥のまったところにあり、機関車の付け替えをしない限り給水できなかったため (スポート方式ではなかったという前提で)、加世田で機関区に入らない運用の機関車は上加世田で行ったのではないかと想像できます。
 
 しかしながら、ここ「上日置・日置」の場合はどのように解釈すればよいのでしょう?

 日置駅の給水塔の給水管は枕崎方面の線路(A番線)側に向けられており、尚且つ給水塔自体も駅構内の枕崎方に設置されていました、片や上日置では写真のとおり伊集院方構内にありました。つまり伊集院行き列車は日置では給水せず、軽身なまま高度を稼ぎ、分水嶺により近い山中の上日置で補給して伊集院へと向かう、伊集院からの折り返し枕崎方面ゆき列車はトンネル内で分水線を越えており、日置までずーと下り勾配であるし、また上日置のスイッチバック線の分岐点を塞ぐ本線上であえて時間を要してまで給水せずに、交換設備のある日置で旅客の乗降とあわせて作業する。こう考えると、二駅連続して設置した理由に無理がありません。

 謎解けたと思って、自画自賛していたのですが、「鉄道廃線跡を歩くV 廃線探訪 南薩鉄道(鹿児島交通)」において宮脇俊三氏の

 「日置と上日置の両駅で給水したのではなく、日置の水の出が悪くなったので昭和二二年に上日置に変更(大田トンネルの湧水を利用)したのだという」
 
 との記述で推理はあえなく粉砕しました。

(※)その後の調査で、伊集院〜枕崎間において南薩鉄道時代から給水塔の存在した駅は上日置・日置(2塔)・加世田(3塔)・上加世田・津貫・金山・枕崎(2塔)を確認できました。 2012/05/06追記


 日置、加世田、上加世田の給水塔と比べて若干大きめな給水塔。
 左の叢がスイッチバック線跡地。

 伊集院16時25分発、折り返しのキハ100型102号。
 この汽車に乗って次の日置で下車し初日を終わりました。  


 全然関係ないですが、あなたはこの駅でSTB(Station Biboac駅寝)出来ますか?(携帯電話は所持していないとして)
 A.)満天の星空を楽しめるタイプ
 B.)風音が何者かが摺り足で忍び寄ってくる音に聞こえるタイプ
 C.)こんな窮屈なところより、もっと魅力的な場所で野営したいタイプ
 D.)何ゆえに泊まらにゃならん、夜は温泉とビールでしょ タイプ
 E.)良家の生まれゆえ、布団の上以外で寝ることに抵抗があるタイプ
 F.)公共の場所を私的利用するべきではないと考えるタイプ
 G.)そんなこたぁ〜どうでもいいから、早く次の駅を公開しろタイプ
   
  因みに私自身はB-50、C-30、A-20%の混合です。
  


 左手一段高くなっている土盛がスイッチバック線の終点直前部分です。
 
 スイッチバックというと一般的には急勾配を上るためジグザグに刻んで高度を稼ぐ、といった登山鉄道的なイメージがありますが、最盛期に伊集院〜加世田間(29.0q)11駅(平均駅間2.42q)のうち交換施設がなかったのは「南吹上浜」(駅間距離1.8qと2.7q)と昭和30年に営業を開始した「薩摩湖」(同0.9qと1.2q)の2駅のみでした。伊集院〜上日置間は全区間で最長の4.4q、上日置〜日置間も3.5qなのでどうしても列車交換のための施設をつくる必要があったわけです。しかし山間のことゆえ、充分な有効長を確保できるだけの水平スペースがなかったため、やむなく効率の悪い行き止まりの待避線ということになったのでしょう。
 
 RM153号諸河氏の1968(昭和43)年撮影写真ではスイッチバック線の線路も輝いています、昭和40年伊集院〜阿多間には旅客15本、貨物3本合わせて18本の列車が設定されていました。しかしその後の強力な合理化と昭和46年4月の貨物営業廃止と無人化に前後してスイッチバックは廃止されたのではないかと想像します。



2006年12月19日公開
2012/05/14 文章一部修正、追記
2014/07/29 精細写真に入替え