上加世田駅 

 1912(明治45)年4月12日に伊集院〜枕崎間の運送営業免許を取得。
 同年7月19日に南薩鉄道株式会社を創立(元号が“大正”となる11日前)

 加世田までは着工から1年を要さず1914(大正3)年5月10日にスピード開業。
 一方、加世田〜枕崎間は度重なる工事竣工期限延長申請。
 1925(昭和14)年2月に免許失効。

 1928(昭和3)年8月に加世田〜枕崎間の免許を再取得。
 同年10月より用地測量開始。
 翌年12月着工。
 加世田開通より17年を要して、漸く1931(昭和6)年3月10日に枕崎まで全通。



 これから先の区間は、山間を南下するため沿線人口は希薄で、漁業で活況のあった枕崎町とを最短で結ぶことを第一に建設した感があります。建設費を抑えるためか、先行開業区間(伊集院〜加世田)の30sレールよりダウンした22sレールで敷設し(その後30sや37sレールに交換)、諸施設も石積みと煉瓦を多用した重厚感ある工法から、トンネルや橋脚、細部ではホーム側壁や駅改札に至るまでコンクリートが使用され、結果として全体的に一段落ちした感があります。  


 加世田を出ると旧市街を回避するために右に大きく曲がり、万世町とを結ぶ西本町通りを越えて丘陵と丘陵に挟まれた谷地へと入ります。地形に逆らわず右へ左へと高度を上げて進み、丘陵に行く手を阻まれると320mの加世田トンネルで潜り、左手に電信線を従えて上加世田駅へと下っていきます。

 



左 : 大田トンネル (1914年開通区間(伊集院〜上日置))             右 : 加世田トンネル(1931年開通区間)

 両トンネルには建造時期に17年の差しかありませんが、見たとおり素材は異っています。明治期では石と煉瓦を多用しましたが、大正時代以降はコンクリートが一般化し利用されるようになります。大田トンネルは煉瓦と石積みによる工法の最終期(言い換えれば煉瓦と石積み工法としては最新で完成度の高い時期)にあたる建設、加世田トンネルはコンクリート工法による成長期の建設といえるかもしれません。

 違いは工法だけではなく、1919(大正8)年制定の地方鉄道法と国有鉄道建設規定に準じて、標準断面が大田トンネルより幅で250mm、高さで370mm大きく、Rも緩やかで道床の幅もゆったりしています。


 思いのほか湧水量が多く、「巨額の費用と尊い人命を三迄も犠牲に供した(※)加世田トンネルを緩やかに右カーブして抜けると、前方に左カーブする上加世田の駅が見えます。
駅まではそれなりの下り勾配(20‰)です。

トンネル側より撮影した上加世田駅の1番線ホームです。
右手には石積みの給水塔があります。


「失礼します。南薩線の写真を撮っていらっしゃるんですか?」
「うん、そうだよ」
「どこからいらしたんですか」
「東京だよ」
「ずーと、撮っていらっしゃるんですか?」
「枕崎から歩いて撮っているよ」

といったことをやり取りしながら撮影しました。
 当時の撮影者としては内心、「邪魔」の気持ちでしたが、私に合わせて完璧な東京弁の敬語で受け答えしてくれた礼儀正しい少年たちでした。
 カメラを構えると一歩線路寄りに移動し、心もち前傾姿勢になっているところは笑えます。
 ご本人の同意なく、公開することはルールから外れているとは思いますが、昔のよき思い出として公開させてください。


(※) 鹿児島新聞 1931(昭和6)年3月10 “新線に沿ふて 加世田から枕崎迄の旅”より抜粋
また、同紙面には “工事に就いて 鹿島組出張所 田井主任の談” として
「私共の持ちました一區の工事は實に樂な工事でした、・・・(略)・・・別段難工事と云ふ程の所もありませんでした。隧道も私共から見れば大したものと思いませんし犠牲者を出すのはあゝした工事としてはやむを得ないことでよくあり勝ちなことです・・(略)」いう記事も同日付けで掲載されている。
加世田市史(上巻) では“鹿島組(本社東京)による施工で、当時の朝鮮からきた三七〇人の労働者が従事した。”とあり
南日本新聞 1984(昭和59)年3月8日 “伸びるレール 鉄道待望論広がる 昭和6年枕崎に汽笛響く”
では
「難工事の連続で、特に上加世田トンネルはゆう水がひどく「予算額を一万円もオーバーした。朝鮮人労務者も多かったが、落盤事故で死亡者も出た」」また、南日本新聞 1984(昭和59)年3月8日 “青春列車 お得意さんは通学生 上・下級生の関係厳しく”では「同トンネル工事で朝鮮人労務者が事故死している」ともある。  
殉職者3名全員が朝鮮からの労働者だったのかどうかは、手元に資料がなく不明



 1番線ホームの上(Aの駅名票の奥あたり)から駅本屋を俯瞰撮影しています。
 1962(昭和37)年9月1日貨物取扱い廃止と同時に無人化され、約20年を経過した駅舎です。
 

 切妻屋根の上端部を寄棟屋根のようにした“袴腰屋根”に特徴があります。しっかりとした棟飾りが載っています(a
 この形式の屋根は伊集院〜加世田間では、取り壊しにより確認がとれていない南吹上浜・北多夫施・阿多の各駅を除くと、上日置駅(立派な棟飾りは載っていない)と伊作駅(加世田方の片側のみ)の2駅でしか確認できません。 しかし、これから先の区間では多くの駅で見ることができるようになります。

 改札口の素材についても、枕崎までの区間はコンクリートを利用している駅が多くなります(b

 本来窓枠のあるべき場所が大胆に空洞で、“春夏秋冬”のうち3季節は風通し良く、考えようによっては快適かもしれません。 しかし、冬と荒天時それに夜間、裸電球ひとつ(たぶん)の待合室で汽車を待つことは、結構辛いものがあったことでしょう。
 それでも(だからこそ?)気持ちよく利用できるように、奥の壁に箒が3本(c)、手前の壁に2本と木製のチリトリが置かれています(d
 
 

 

 上加世田駅は本線(伊集院〜枕崎)で唯一、線路面と駅舎との間に高低差がありました。
 ホームと線路面を4段の石段、線路面と駅舎入り口までが同じく4段の石段、合計8段の石段でホームと駅舎とを連絡しています。
 駅舎から道路までも段差はないものの、勾配気味だったようです。

 駅舎内には、加世田駅の「シルバーベンチ」と同型のベンチが備えてありました。

 
 36枚撮りフィルムの装着送りで(ゼロ枚目のコマ)、たまたま写っていた6本目の箒。
 建物は会社の持ち物で、利用者の意思では修繕もままならず荒れるに任せるしかなかったものの、駅周辺の方々の精一杯の気持ちできれいに管理してくれていたのでしょう。

 (津貫駅ではもっとすごいことになっていました(お楽しみに!)

 

 石積みの給水塔。

 加世田方の海側にあり、伊集院行きの機関車が利用したものと思われます。
 因みに、となりの加世田駅には3つの給水塔があり(3つとも同時期に存在していたかは不明)、そのうちのひとつはメインホーム(1,2番線)の枕崎方に設置され(補足のページ (その2-加世田駅構内の給水塔)参照)枕崎行きの機関車に利用されたと推測されます。

 現役当時に残っていた上日置・日置・加世田・上加世田の給水塔のなかでは日置のものと同じくらいの大きさのようですが、日置の貯水槽は金属タンクだったので、石の厚さのある上加世田のほうが貯水量は少なかったかもしれません。水源は加世田トンネルの湧水と思われます。

 
 28年前と変わらず鎮座している。



 1978(昭和53)年度一日あたり137人(うち定期券の率60.7%)、1980(昭和55)年度117人(51.6%)、1982(昭和57)年度83人(41.2%)が乗降(※)していました。
 加世田〜枕崎間の途中9駅のなかでは一番乗降者数があった駅です。

 2番線ホームのあたりから加世田トンネルを望む。
 駅端からトンネルまでは約240mで20‰の勾配です。
 ということはトンネルまでは約4.8mの高低差があるということになり、トンネル内の湧水からホースによる引水が可能であったとの推測が成り立ちます。

 写真右手前には貨物ホームがあり、駅舎右にある「加世田市農業協同組合上加世田倉庫」や製材所などが利用していたものと思われます。


(※)「市内各駅における列車利用状況」 加世田市史(上巻) 第9編 交通・通信 第2章 鉄道・バス 加世田市史編さん委員会 より加工



E よりさらに引いて枕崎方より加世田方向を撮影。

 線路左手に草に埋もれ見え隠れするのは2番線ホーム側壁跡です。
 上加世田駅では本屋に接する単式ホーム(1番線)と付随する貨物ホームに加えて、島式ホーム(2・3番線)が存在しました。
 南薩線(伊集院〜枕崎)の中間駅で3番線が存在したのは阿多(知覧線が分岐)と加世田(万世線が分岐)、そしてこの上加世田駅のみです。(金山駅は調査中)
 上加世田を始発・終着とする列車の設定はなく、分岐する支線も存在しません。
 単線ゆえの行き違いに加えて、急行列車などの追い越し設定がなければわざわざ旅客ホームを3線も用意する必要はありません。
 ナゼ、3本もの旅客ホームを擁していたのでしょう?

 謎を解くヒントは写真に写っていました。
 
 2番線ホーム側壁と本線との間に距離がありすぎます。ホームと線路が接しておらず乗降不可能です。そもそも本線は1番線を使用しており、2番線ホームは必要はありません。言い方を変えれば本線と2番線ホームの間にもうひとつ線路を敷かないと2番線ホームの意味がありません。
 



 2番線廃止後に、Rを緩やかにするために1番線の線路を敷き替えたとの可能性はありますが、“1番線ホーム加世田方側壁と2番線の側壁との距離は4m余りしかない”ことより、線級を簡易線と定義しても双方の側壁間は約6.2m(軌道中心から3.5m)程度の距離がないと車両接触限界を確保できず、本線有効長の外に対峙するホームを造る理由はありません。

 以上より、推測される結論は、
 「島式ホームこそが昔の1・2番線ホームであり、本屋側の単式ホーム(新1番線)は島式ホームの旧1番線に替えて新造されたものである、故に1・2・3番線は同時期に存在していない」となります。

 新1番線(単式ホーム)への切替え時期は、ホームの長さから推測して気動車導入以降と思われます。
 新1番線はRを緩やかにするために旧1番線(島式の本屋寄り)の軌道を撤去して敷設したはずです。(その際、旧1番線ホーム側壁の中央部を取り壊した可能性もあります)
 旧2番線(島式の給水塔寄り)はどうなったのか気になるところですが、1960(昭和35)年7月では19時05分前後に列車交換していたようで(“ダイヤ”のページ参照)、恐らく1962(昭和37)年9月1日の無人化あたりまで島式ホームは新2番線(旧2番線)だけのために利用されていたのではないかと想像されます。

 旧1・2番線を使い続け、列車交換廃止と同時にいずれかを廃し、その後も従来どおり島式ホームを利用し続ければ良かったのではないか(永吉・阿多駅のように)と思いますが、格段の事情があって本屋と隣接する単式ホームを新設したのでしょう。その理由は何だったのでしょう? 




ホームの幅が狭すぎた
   

 主要駅ホームの寸法を「RM LIBRARY 109 (鹿児島交通南薩線-下巻)」まとめてみました。ホーム先端部が絞り込まれて狭くなっている場合はホーム中央の最大幅を表示していると思われます。表中の島式ホームでは加世田駅3・4番線(万世線ホーム)の4mが最小幅となっています。このホームもきれいな長方形ではなく、両端部は3m前後に絞り込まれています。


 これに比べて、上加世田の島式ホームの幅は相当過激です。枕崎方は写真の如く約1.7m、加世田方では1.3m程度しかありません。1.3mの場所に立っての列車通過は危険を感じます。ホーム中央部は両端部より幅広だったでしょうが、せいぜい3m強で4mまではなかったと推測(※)します。「旅客の安全かつ円滑な流動に支障を及ぼすおそれのないものであること」とはいい難いでしょう。

 プラットホームとして確保すべき寸法を定めた規程・規則において、初期には「乗降場の幅は両側を使用するものにありては2m以上」であった定めが、後年の改正では「プラットホームの両側を使用するものにあっては中央部を3m、端部を2m」とより厳しく改訂されています。改正の変遷と時期までは調べきれていませんが、新設ホームの長さから気動車導入後の改正で抵触するに至ったか、改善指導を受けたのではないかと推測されます。
 因みに片面のみの使用については、初期の規程では「片側を使用するものにありては1.5m以上とす」と定め、後の規則では「片側を使用するものにあっては中央部を2m、端部を1.5m以上としなければならない」としており、ホーム中央部を利用するということで伊集院方面ゆき専用ホームとしてクリアーしていたものと考えられます。

(※)中央部側壁が既に存在しておらず実測不能。「ロストレールウエイの旅」(文芸春秋)鹿児島交通鉄道線ビデオ、国土地理院空中写真より推測



 1931(昭和6)年3月10日開設当時をイメージして描いています。貨物側線が伊集院方にも通じていたかは不明ですが、通じてたとして作図しています。
 もう一点、国土地理院提供の空中写真で米軍の撮影した1947年と、1974年以降の写真では駅本屋の向きが相違しています。撮影条件による錯覚にしては大きすぎる気がするので、作図では見た目の通りに描いています。(本屋を作り直した?移動した?)



 恐らく、気動車入線(1954(昭和29)年10月)以降と思われますが、何らかの理由により島式1番線を廃し、同日に切り替えをした新1番線(単式)を描いています。
 新1番線の軌道敷は、旧1番線の軌道敷の一部を利用して敷設されたはずです。



 1962(昭和37)年9月1日に貨物取扱いが廃止され、同日の無人化で列車交換もなくなったと思われます。
 貨物側線・2番線の撤去は同時におこなわれたのかもしれません。


廊下のように細長く、新ホームの2/3くらいの高さしかなかった島式ホーム。
夏草もディーゼルカーが走っている間は車両の長さの分だけは遠慮があったものの、
列車交換がなくなってしまえば四方からあっという間にホーム側壁だけ残して侵攻。
翌年はホーム側壁も草の中に見え隠れ。
その翌年はすべてが草の海に没した。

かつて島式ホームがあったことなど、もう誰も覚えていない。

そして年月が流れ、単式ホームにもディーゼルカーは停まらなくなった。 

さらに、30年。
むかしこの場所に、定期通学の学生で賑わった上加世田という鉄道駅があったことすらも、忘れ去られようとしている。

そして、さらに30年、残されるのは上加世田という駅があった、という記録だけだろうか。
 



 プラットホームの廃止・新設の経緯についてのコメントは、すべて推測です。(念のため)

 上加世田駅についてご存知のことがあれば
 red50kei@gmail.com (←copy貼り付けで
 まで、お願いいたします。



2011/02/13 仮公開
2011/06/09完結