上津貫駅 (津貫〜上津貫)



 津貫駅を発車した汽車は5号ポイントを渡ってすぐに第6加世田川橋梁を越えます。加世田川とはこれが最後の会合となり、津貫工場の石倉を映す水面は蔵多山(475.4m)の懐に向けて離れていきます。
 汽車は2‰の勾配を加速しながら、R=300で左にカーブして1号踏切(津貫-上津貫)を越えます。この踏切は1982(昭和57)年9月29日付けで第4種から、警報機数2基(閃光灯6灯)・遮断機数4基の第1種に格上げされました。踏切の長さは4.2mで改良前と変わりありませんが、道路の幅員は3.4mから6.0mに拡張されるとともに、交角は70度から55度に緩和されました。警報機の警報音はスピーカ方式でした。

 写真左:1983(昭和58)年3月13日 津貫駅ホーム上から枕崎方を撮影
 写真右:1980(昭和55)年3月21日 枕崎行きキハ102の車内より第4種時代の1号踏切を撮影 連結車両はキユニ105 

 踏切を超えてすぐ、西山の水田奥を源とし加世田川に落ち込む小川を、径間3.05m鋼鉄桁の第2津貫開橋(旧名 不動ノ元開渠)で越え、さらに10mほど進行すると、39.565q地点の分水嶺まで1.34qあまり続く20‰勾配が始まります。勾配票設置地点から20mほど進んだ場所には、津貫駅で交換が行われていた時代の腕木式遠方信号機跡があったはずです。
 右の写真奥のR=260を右カーブし終えると、国道は勾配の度合いを上げて緩やかに左に逸れ、片や本線は木々が連なる丘陵にほぼ直進で挑んでいきます。




 林と田畑が散在する丘陵を切り通しで処理しながら、39q地点を過ぎてR=300で右カーブ、続いてR=260で左カーブを終えたあたりが加世田〜枕崎間の最高地点81.820mとなります。(加世田からは53m弱のぼったこととなります)
 ここから先200mは最高標高地点をキープする水平区間( Level )となり、加世田川と花渡川(久木野川)との分水嶺(六本木坂(ろっぷざっ))となりますが、行政区画は加世田(南さつま市)のままです。枕崎市との境界は薩摩久木野〜金山駅間にあります。

 “津貫驛を出れば大々的に縣道と鐵道線路とを切りかえ、可なりな急勾配であつた筈の縣道が殆ど勾配なしで行ける (略) 小溝をトンネルで流し 切り取りの谷間は津貫橋と云ふ名で縣道を上に跨けさせつつ 西南方久志街道を西に分岐する上津貫驛に到着する 一寸足を運べはすぐ久木野驛だ” 鹿児島新聞 1931(昭和6)年3月10 “新線に沿ふて 加世田から枕崎迄の旅”より抜粋

 写真は付け替えた国道の大型橋から伊集院方向に(旧)津貫橋、正式名称「津貫縣道跨線橋」を撮影しています。
 ・1930(昭和5)年7月起工
 ・1930(昭和5)年9月竣工 (鉄道の開通は1931(昭和6)年3月10日)
 ・径間6.0m
 ・交差角60度
 ・鉄筋混凝土床版橋
 構造は“内務省縣道橋施工細則”に準じていました。

 
 200mの水平区間は、R=300の右カーブ(B 奥のカーブ)を終えた津貫橋の手前(39.765q地点)までで、ここから16.7‰の下り勾配となります。(ここより金山〜鹿籠駅間の46.498km地点(標高6.12m)までの6.7qの区間に上り勾配は存在せず、平均すると11.24‰の下り勾配が続くこととなります)
 

 加世田〜枕崎間の県道(現 国道270号)開通は、鉄道が敷かれる35年も前の1896(明治29)年のことで、当時六本木坂あたりをどのようなルートで越えていたのかまでは調べきれていませんが、地形から判断するとおそらく津貫から分水嶺に向けては軌道をなぞるルートだったように思われます。大々的に縣道と鐵道線路とを切りかえとの史実より、軌道敷設にあたっては県道を蔵多山寄りに付け替えて、旧県道を軌道に転用しつつ、深く切取り掘削することにより勾配緩和を図ったものと推測しています。ただし津貫橋とその近辺の付け替えはなかったようです。
 鉄道開通時の県道位置(津貫〜津貫橋の区間)はそれなりの蛇行はあるものの、現在の国道位置とほぼ重なっています。
 以降、同区間の蛇行箇所は順次ショートカットにより改良され、1973(昭和48)年に実施された改良拡張工事により、延長45m・幅員9.3m・鋼板橋の(新)津貫橋が架橋され、津貫縣道跨線橋は第一線を退くとともに、ほぼ現在の直線国道が完成しました。



 6号踏切です。

 国道270号にかかる踏切として、1966(昭和41)年1月に第4種から、警報機数2基(閃光灯4灯)、遮断機設備のない第3種踏切に格上げされています。
 しかし、4年半後の1970(昭和45)年10月には国道ショートカット改良工事により市道に格下げされ通行量は激減、鉄道廃止まで遮断機を設置されることはありませんでした。長さは6.0m、道路の幅員は7.7m、交角は55度でした。

 警報機が設置されていたためか、他所の第4種踏切と比べて幅員が狭められていません。

 廃枕木利用の踏切防護柵(踏切注意柵)や縦書きの“ふみきりちゅうい”札は内山田駅の枕崎寄りにあった、1号踏切(内山田駅F )と同様です。
 “ふみきりちゅうい”上部の大きな札には「モーターカーの通過時には警報機が動作しない場合があります、一旦停止にて安全確認してください」といった趣旨の案内が掲げられていました。本線の多くの警報機付き踏切には同様の掲示がされていました。

 「一時停止」の規制標示は手前が横書きの「止マレ」、奥が縦書きの「止マレ」でペイントされています。現在では「止まれ」・「とまれ」が一般的な表示かと思いますが、阿多駅のE では縦書きの「トマレ」でした。


 C の6号踏切より電信柱1本分枕崎方に前進して撮影。
 
 犬走りまで雑草が侵攻しているものの、道床は細かなバラストが敷かれ状態は良好です。

 左に向けて分岐する謎のポイント。
 詳しくは後述しますが、大昔からあったわけではありません。

 右隅の道路(盛土)は1970(昭和45)年10月に完成した国道270号線の新道です。



 1980(昭和55)年3月21日、枕崎行きキハ102の車内より側線を撮影。

 芝生程度の草丈に“アップアップ”しているレール面の低さには笑ってしまいます。
 加世田〜枕崎間の開業にあたってレールは22.5sで敷設されましたが、その後37sレールへの交換が進みました。しかしながら側線については交換されなかった箇所もあり、この側線は(少なくとも枕崎方については)開通以来の貴重な22.5sレールのままでした。

 線路の幅が広く見えてしまいます。



 側線には 20,000×5,500×860 の貨物ホームが造られていました。
 伊集院線(伊集院〜加世田)で開業時に開設した駅のホーム側壁は石積みでしたが、17年後に開通した枕崎線(加世田〜枕崎)の旅客用プラットホーム側壁は全駅コンクリート製でした。恐らく貨物用ホームの側壁も例外なくコンクリート壁であったと推測しますが、倒壊防止の杭(手前は木杭?)が写真奥に行くほど(奥はコンクリート杭?)密に補強されています。枕崎線の他所の駅ではなかったことです。

 かつては貨物ホームに隣接して1946(昭和21)年に開業した池崎(?)製材所(後に、新沢製材所(廃業時は野村製材所)が操業し、製材木の貨物発送も行なっていましたが、1980(昭和55)年頃に廃業しています。



 逆行で光り輝く本線レール。


 線路右の低地は花渡川上流の細い流れの侵食によって拓かれた、わずかばかりの水田です。

 左右とも、すぐに丘陵(地元では“はい(原)”と言う)が迫り(台地ゆえ)水の確保が難しい斜地となります。水田として開拓・維持するには相当な努力を要する土地ですが限界まで棚田が拓かれ、沢筋から離れた急斜地では、「唐芋、麦、粟、ソバ」などの畑が拓かれていました。

 線路は最も条件に恵まれた美田を潰して敷かれています。




 側線と合流する先(電信柱の位置)が上津貫駅(プラットホーム)となります。



 上津貫駅に行く前に左前方に寄り道して、本線と合流する直前の側線の細部。
 細く頼りない線路。確かにC12タイプは載れそうにないですね。
 軌間762mmの森林鉄道のようです。                    


 枕木に取り付けられているのは鋼製の“車輪止め”です。
 この側線は3.3‰の勾配に設けられており、留置車輌の本線への流転防止を目的として設置されています。
 普段良く目にする“車輪止め”はG-1にあるような白塗り木製です。鋼鉄製は耐用年数では優れているのでしょうが、華奢といった印象です。

 左が閉じた状態、右が開放状態。枕木と支持プレートを固定し、丁番にて車輪止め本体を可動させてレールを開閉させます。
 私が知る限り、此処以外で木製・金属製を問わず車輪止めは残されていませんでした。



「木製車輪止め」の参考写真(南薩線ではありません)
脱線器は別として、金属製の車輪止めは珍しいかもしれません。


 伊集院方から眺めた上津貫駅です。

 ご覧の通り、プラットホーム一面にのみ線路が敷かれ、単式ホームのようにも見えますが、昔は列車交換可能な島式ホームでした。

 島式として上下線が敷かれていた時代の貨物側線への配線はどうだったのか、興味あるところです。
ダイヤモンド・クロッシングで処理していた? クロスポイントを設けていた?




なんてことはない、貨物側線は素直に下り本線と接続していました。
側線は行き止まりで、伊集院方と接続していません。


 1960(昭和35)年6月1日、上・下場内信号機および下り遠方信号機廃止、ならびに3番線を発着線に変更 (貨物ホームが1番線、島式ホームの本屋側が2番線)

 1961(昭和36)年1月、貨物扱いならびに荷物取扱い廃止、加えて駅員無配置。
同年5月23日、1号ポイント撤去。停車場から停留場に変更。


 1960年に列車交換がなくなり、その半年後には貨物の取扱いが廃止されています。
 普通に考えれば1号ポイント(構内伊集院方本線ポイント)撤去は2番線ならびに貨物側線・貨物ホームの放棄(廃止・撤去)を意味します。しかしながら、鉄道廃止まで貨物側線は本線と上下2箇所でポイントを新設して接続されていました。
 
 新設工事は1号ポイント撤去前に行われていた可能性がゼロではありませんが、1号ポイント撤去と同時もしくは、以降に行われたはずです。それよりも、ナゼ既に貨物取扱い廃止なのに側線を生かしたのか?

 それは、
 一般貨物のためではなく、社内貨物のため。

 この側線は自社用バラスト積み出しのために、1971(昭和46)年4月3日の全線貨物営業廃止後も定期的にDDが入線していたのです。
 
 構内のポイント付け替え、機回しのための伊集院方ポイント新設、重量のあるバラスト積込みのためのホーム側壁補強、車輪止め、すべては整合します。



開業から1961(昭和36)年5月22日までの構内配線図です。
列車交換は1960(昭和35)年5月31日まで行われました。
貨物線は下り本線から分岐して貨物ホームで途切れています。


本屋側の本線を撤去するとともに、貨物線への接続を変更します。
伊集院方の本線に貨物線とのポイントを新設することで、本線と貨物線は両方向からアプローチ可能となります。
1970(昭和45)年10月に水田を潰して国道バイパスが開通しました。


 南薩線におけるバラストの調達は、万之瀬川・広瀬川(万之瀬川の中流域:薩摩川辺駅近辺の流域(※))の川砂交じりの砂利を川砂利採取権利を持つ業者から長年にわたり購入していたそうです。  しかし、1963(昭和38)年頃、上津貫・浦口集落背後の大浦峠(大浦側では津貫峠)山腹に位置した浦口集落所有の山林を南薩鉄道が買収して採石場を開発、上津貫駅の貨物ホームから積み出す方式に変更します。

 採石場では原石を粉砕機にかけ、手頃な大きさに揃えた後、トラックに積込み山を下って貨物ホームで無蓋車「ト」に積み替えます。無蓋車は2〜4両程度が留置され(貨物ホームが20m、「ト」の最大長が6.3m、DD1200が11.3m、側線の有効長約45m)、満杯になるまでトラックでピストン輸送されます。
 上津貫の砕石は従来の川砂利と比べて粒径が大きく、道床更新の際スコップに多く載らず苦労したそうですが、道床厚を長期にわたって保つことが出来たそうです。

 鉄道廃止まで上津貫の砕石が鉄路を支えました。 


(※)開業に際して大量のバラストを如何にしてローコストで調達するかは経営者にとって重大な関心事であるとともに重要な選択であったはずです。他所から運搬コストを要して購入するよりも地元最大の河川である万之瀬川の河原まで専用の側線を延ばして調達コスト削減と運搬効率向上を目論んだに違いありません。開業後のバラスト交換にあっても施設は継続利用できるメリットも併せ持ちます。山の砕石を積み込むための専用施設が存在したのですから、南薩線であれば万之瀬川橋梁の袂、開業当時別会社だった薩南中央鉄道なら田部田駅や野間駅辺りから万之瀬川や広瀬川に隣接する位置まで川砂利運搬専用側線が存在していた可能性があり、現在調査をしています。

  鹿児島交通
       補足 のページに
        “その6 薩南中央鉄道(知覧線)の川砂利運搬線”として記載しました。



I の標識付転換機をからめて本屋を撮影。


 バラスト積み出し専用側線はDI の写真(1983年3月撮影)では久しく使っていないように見えますが、E (1980年3月撮影)では入線可能な状態です。枕木も何本かは角のある新しいものに交換されているようにも見えます。

 加世田市(現 南さつま市)出身で廃線当時中学生だった尾辻さんから「DD1202号機が、トなどを引いて砂利を採取するために、月1度程加世田市場(加世田市場は、上加世田と内山田駅の内山田寄りにありました)の脇を10時前後に下っていたのを記憶しております」との情報を頂戴しました。

 尾辻さんからの情報を手がかりに、有木道則さんより以下についてご教授いただきました。
 
 @ 加世田に常備している無蓋車(鋼製 ト5・ト14・ト15を中心に木製 ト3・ト12・ト13のうちの)2〜4輌程度をDD1201 or 1202が牽引して(ただしDD1201は末期には部品取りの様子で車庫で埃をかぶっていた)枕崎行き定期旅客列車の後を追うように10時前後に加世田を出発。
 A 上津貫の側線に入線すると、砕石場から下りてきたトラックが無蓋車にバラストを積み込み。
 B 道床更新箇所が枕崎線(加世田〜枕崎)であった場合は、枕崎折り返しの定期旅客列車の通過を待って工事臨時列車として本線に進入。
 C 道床更新箇所が伊集院線(伊集院〜枕崎)の場合は、一旦戻ってあらためて工事臨時列車として加世田を12時前後に発車して工事箇所へと向う。
 D 工事臨時列車では車掌はDDに運転手と一緒に乗車する場合と、最後尾の無蓋車のバラストの上に緑と赤の旗を持って乗車(?)する場合とがあった。
 E 荷下ろし作業は、途中で草刈作業をしている女性作業員4〜5名をピックアップしておこない、荷下ろし完了後に再度作業場所まで乗せて戻る。
 F 何回かの(数日かけて)工事臨時列車によりバラストが線路脇に70〜100m程の長さで準備されると、軌道更新作業がおこなわれた。1回の作業で100本程度の枕木が交換され、また従来の比較的粒径の小さな川砂利の上に砕石バラストを被せて更新したため、レール面が15〜20cm程高くなり、開橋や下水溝などでは枕木を当てて調整を図った。橋梁の前後では橋梁の高さに合わせて従来どおりのレール面となるように調整した。
 G 16時くらいまではスジ(列車ダイヤ)も過密ではなく、工事臨時列車は本線を行き来して、交換された枕木などを回収して加世田に戻った。
 H 側線利用の最盛期は1970(昭和45)年くらいからで1日おきくらいの頻度で入線していた。
 I 1980(昭和55)年以降の道床保守はトラックなどを利用した最低限の応急処置に変更され、大規模な道床更新は行われなくなった。
 J DDの運用は上津貫発の工事臨時列車が最後となり、加世田豪雨の復旧工事でも運用されることはなかった。
   (大規模な道床更新が行われなくなって以降、バラストを必要とする小規模な補修で、なおかつトラックが入れない区間での工事の場合には、DDよりも燃費の良かった丸型気動車キニ101・キユニ105がト(無蓋車)1輌を牽引して工臨となったこともあったそうです)

 鹿児島交通株ュ行の写真集「軌跡」には“工事列車”とのタイトルで、上日置駅構内に停車するDD1202の写真が掲載されています。


 ここまでの写真では谷戸に設けられた秘境駅的な雰囲気が漂っていますが、あながち見当違いでもなく、「福元」、その奥に「上ノ門」、津貫寄りに「新地」、その奥に「浦口」の集落が散在していたものの、駅と集落とは水田とバイパス国道に隔てられ隣接していませんでした。

 上津貫駅の位置は津貫駅からは2.31km、隣の薩摩久木野駅までは1.18kmしか離れていません。薩摩久木野駅と金山駅との距離2.773kmを考えれば、もう少し久木野寄りに上津貫地区と久木野地区との共用駅として建設すれば、鉄道経営的にも経費面・運行効率ともに有効だったのではないかと思えます。
 因みに、伊集院線(伊集院〜加世田)28.961km、12駅の平均駅間距離は2.413kmでした。

 しかしながら机上での合理性はあっても、上津貫駅はこの場所でなくてはならない理由がありました。

 「津貫」という地名は、「津貫き」、「津を貫く」即ち、「坊津に抜ける路」が由来とも云われています。
 加世田から六本木坂の分水嶺を越えて花渡川に沿って枕崎に向けて南下する街道は、ここ上津貫で磯間嶽(363m)の裾に沿って上り上野、久志、さらに泊、坊など“坊津”へと下る久志街道に分岐します、さらに花渡川の源流に位置する浦口集落(※1)背後の分水嶺(175m)を越えて大浦川に沿い東シナ海に面した大浦へ通じる街道との分岐点でもありました。大昔からの陸上交通の要所だったのです。
 1896(明治29)年、加世田〜枕崎間に県道が開通(※2)すると1日4便の客馬車が運行され、三叉路の上津貫(新地の集落)には馬の休息場所(餌と水)と乗客が休憩するための茶屋が設けられて、ずいぶん賑わったそうです。

 南薩線開通によって客馬車や荷馬車は大きく数を減らしたものの、上津貫(新地の集落)が陸上交通の要所であることは変わりませんでした。

(※1) “浦口”の地名の由来は、「大浦に通じる」 から付けられた、とも言われています
(※2) 加世田〜枕崎、県道の国道270号認定は1965(昭和40)年3月29日
     上津貫〜大浦、村道(旧)認定は1910(明治43)年、現県道271号
     上津貫〜久志、県道(旧)認定は1923(大正12)年、現県道270号


 1963(昭和38)年当時の加世田〜枕崎間を中心としたバス路線図(部分)です。上津貫から泊・坊に向けて久志行きのバス路線が描かれています。バスは戦後から、1965(昭和40)年頃まで運行されていました。
 一方、大浦川に沿った上津貫と大浦とを直線で結ぶ県道にはバス路線は設定されていませんが、野間池から大浦地区については平坦な海岸沿いに薩摩万世経由で加世田までバスが設定され、陸路の主要ルートとなってていました。

 上津貫駅は自家用車の利用が限定的であった時代まで、上野集落・久志地区周辺のならびに大浦川上流域も含めた含めた広範囲なエリアをカバーする拠点駅だったのです。


2枚綴りの1枚目、薄葉紙で会社控え。



2枚綴りの2枚目、ミシン目が入った厚手の用紙。乗客控え。


 駅本屋を改札口方向から写しています。
 
 駅と集落は少し離れていましたが、本屋に隣接して、たばこ・食料品・鮮魚を取扱っていた「新澤商店(鮮魚店)」 が店を構えていました。(駅舎裏の建物)

 商店の前身は鮮魚店で、当初サシミと焼酎を出す飲食店としてスタートしました。最盛期には久木野校区(上津貫・久木野・小原・中山地区)の宴会を50人規模で行っていたそうです。タバコ販売・日用雑貨の取扱いもおこない、駅前商店として今で言えば「キオスク、コンビニエンス」のような役割も担っていました。

 鉄道廃止に前後して店主が亡くなられ、廃業しています。



 上津貫駅は1961(昭和36)年1月の貨物および荷物取扱い廃止以前は、駅長と駅員の2名体制で駅を管理していました。

 駅員が配置されていた時代の逸話として、「この地区の青年は、雨が降ると枕崎まで映画を見に行き、飲み屋で一杯飲んで帰る。汽車の切符は鹿籠駅まで(枕崎の隣駅(最低区間))買い、上津貫で下車の際、駅員から咎められると大勢で脅して無賃乗車した」との武勇伝を地元の方(未成年の分際で酒を飲んで無賃乗車して駅員を恫喝したご本人?(笑))からお聞きしました。
 当時の駅員さんは地元密着で利用客の素性は精通していたと思われ、「定期券で毎日南鉄を利用しているのだから帰りの片道運賃くらいオマケしろ」といった論理(?)も当時のムラのなかでは“阿吽の呼吸”で理解されていたのかもしれません。図書館の郷土史には書かれていない、普段着の生活史です。


 他の駅同様に高校生の乗降も多く、枕崎高等学校・枕崎水産高等学校(現 鹿児島水産高等学校)、加世田女子高等学校(現 鳳凰高等学校)、加世田高等学校、加世田農業高等学校(現 加世田常潤高等学校)、川辺高等女学校(現 川辺高等学校)、薩南工業高等学校、伊作高等学校(現 吹上高等学校)などへの通学利用がありました。

 上津貫駅では1978(昭和53)年度一日あたり60人(うち定期券の率30.1%)、1980(昭和55)年度53人(23.4%)、1982(昭和57)年度40人(15.4%)が乗降(※)していました。
 隣の津貫駅での乗降は同年度毎に102名、93名、63名あったそうなので、約6割程度の乗降数ということになりますが、交通手段が限定されていた昭和30年代前半までは山を越えた大浦川上流の集落や久志方面からのバス乗り換え客など、それなりの利用があったのではなかと推測できます、ピーク時には津貫と肩を並べる乗降数があったかもしれません。

 島式ホームの津貫駅や枕崎駅にもプラットホーム上に上屋は設置されていなかったので、上津貫駅でも開業以来設置されたことは無かったでしょう。


(※)「市内各駅における列車利用状況」 加世田市史(上巻) 第9編 交通・通信 第2章 鉄道・バス 加世田市史編さん委員会 より加工






このページの追加参考資料

 ふるさとの民俗と歴史 久木野校区誌
 加世田市史 上巻 加世田市史編さん委員会
 ほか


 また当時の情報は有木道則さんはじめ、関係者の方々、旧上津貫駅周辺にお住まいの皆様より頂戴しました。



2012/09/17 仮公開
2013/11/21 完結

2014/03/25 南鉄バス乗車券 追加