上内山田駅
右カーブの内山田駅から、カーブのまま旧道を渡り(内山田駅F)、美しい水田(内山田駅G)を過ごします。
漸くカーブを終える辺りは段丘崖で、長屋山(513.1m)から続く丘陵の末端部を加世田川が削り取っていた場所です。軌道敷設にあたっては段丘崖を掘削するとともに加世田川に護岸工事を施し、ぎりぎりのスペースを確保しています。落石覆いを設置してもおかしくない難所でした(写真右奥)
ここを過ぎれば、加世田川は軌道から離れ、川とのスペースには水田が広がります。
内山田駅Gに比べてしっかりとした高さのある軌道敷きです。水田からこれくらいの高さがあると違和感はありません。
出し惜しみをしているわけではありません。
アップに耐えられないので縮小しています。
偶然の産物ではなく“自らの意思で流し撮れる”ようになったのは、これよりずーと後のこと。北多夫施での1枚といい、300型には嫌われ通しでした。
実は上の3枚は後追いです。枕崎10時28分発の西鹿児島行きキハ303で、この写真が1枚目となります。
内山田駅と上内山田駅との高低差は6.3m、距離は1,425m、加世田川に沿ってほぼ平坦な田園に敷かれた線路を快速します。
加世田〜枕崎間で橋梁は36箇所あったそうです。「鹿児島新聞昭和6年3月10日より」
多くは幅の短い用水路などへの架橋で、単純構造のI ビームを渡すことで事足りたと思われますが、6mを超える桁は単純ビームでは対応できず、地図で見る限り14箇所以上はプレートガーターによって架橋されています。
その大半は上路プレートガーターでしたが、鹿籠駅枕崎方の中州川橋梁と、加世田川に架かる内山田鉄橋(第一加世田川橋梁 29.94m)については水の滞留具合と水面からの高さ(洪水時の危険度)から、上路式よりコストを要する下路プレートガーターで架橋されました。
上内山田駅を伊集院方から枕崎方向に撮影しています。
右手に駅本屋がありました。初代本屋は冬季に火災で焼失したそうです。2代目の駅舎は切妻屋根で“袴腰屋根”ではありませんでした。
内山田小学校と駅周辺および金気田平に若干の集落があるだけで、行き止まり沢に沿う集落も無く、昭和57年度(1982年)の1日平均の利用者数は乗車6人弱、降車7人、定期1人弱(加世田市史 上巻より)と、全線(伊集院〜枕崎)で最小乗降数の駅でした。
、鉄道廃止前には1日で上下合わせて14本の各列車に1名の乗降者しかなかったということです。
折角の2代目の駅舎も利用者の少なさで荒廃が進み、台風などの被害をきっかけとした早期撤去(1965(昭和40)年3月の記録写真では存在)となったのかもしれません。
加世田〜枕崎間の主要駅は、ほぼ中間地点に位置するとともに本坊酒造の旧本社があり、区間では貨物取扱いも最後まであった津貫駅でした。
津貫駅との中間が金山駅と上内山田駅となります。旅客需要は少なくとも、単線ゆえの列車交換のためにそれなりの設備が必要、とされた駅だったのです。隣駅の内山田・干河・薩摩久木野は早々に貨物営業廃止とももに、荷物取扱い廃止・無人化されています。
写真は1980(昭和55)年3月にキハ102の車内から撮影した貨物ホームの側壁です。
ホーム背後にはバイパス開通により田舎道となった旧道(県道)があり、竹薮の下には加世田川が流れています。
枕崎方から伊集院に向けて撮影。
車輌の幅ぎりぎりまで繁茂している草々、というか「車輌にこすられ行く手を阻まれている草々」と表現したほうが適切かもしれません。
枕木の質は悪そうですが、そのぶん密に敷かれています。砕石もずいぶん細かいですが万遍なく敷かれて、きれいな道床との印象を受けます。
一方、ホームに沿ってカーブしている部分は逆にカントが効いているように見えます。 高速の通過列車があれば遠心力で脱線しそうです!
線路は規格が低いので(おそらく30sレール)軌間が広く見えてしまいます。
1960(昭和35)年6月1日、上下線場内信号機廃止。同日、3番線を発着線と定める。
1960(昭和35)年7月20日、3号ポイント(枕崎方本線)撤去。
1960(昭和35)年8月20日、2号ポイント(伊集院方貨物側線)撤去。
1961(昭和36)年5月23日停車場より停留所に変更。1号ポイント(伊集院方本線)撤去、津貫駅の5号ポイントと交換。
傍らのレールは撤去時のもの?
2011/11/30 仮公開
2012/02/11 完結