万世線  (加世田〜薩摩万世)


 1914(大正3)年4月1日 伊集院〜伊作
 同年      5月10日 伊作〜加世田が開通

 鉄道開通前の加世田付近の地図を見ると集落の規模は内陸に位置する加世田地区よりも、海に近い唐人原(大崎)・小松原地区の方が大きく描かれています。これは古来より万之瀬川河口の地の利を生かした水運により、物流拠点として繁栄してきたことを物語っています。1802(享和2)年の大洪水で町に隣接していた万之瀬川河口は北方に位置を変えてしまいましたが、水運が当時の主要な物流手段であることに変わりはなく、河口港と離れてしまったとはいえ、町は商業地としての地位を堅持し続けていました。
 しかし時代は移り、天候に左右されず正確に大量かつ高速輸送ができる鉄道貨物が確立されれば、町に隣接していない水深の浅い河口港では太刀打ちできないことは明白で、鉄道貨物輸送も取り込むべく同地域の商人・有志らは南薩鉄道への出資に加えて万世線軌道用地の無償提供、敷設資金の期限付き貸与などの積極的な働きかけをおこない、加世田駅開業より約2年半後の1916(大正5)年10月22日に加世田〜薩摩万世(開業当時の駅名は「薩摩大崎町」)2.5kmは開通しました。
 

 写真は本線ホームの上から枕崎に向けて、停留所といった面持ちの旧万世線ホームを写しています。
 わずか2.5km、終点は工場、鉱山、採石場、観光地があったわけでも、連絡船が待っていたわけでも、延長計画が頓挫したわけでもありません。
 最初からとても小さな支線だったのです。
 (枕崎へ延長されるまでは本線だったといった見方もできますが)

 ※明治35年測図 「川辺」 では唐原(とうじんばる) 現、唐原(とうじんばら

 万世線のホーム上から枕崎に向けて撮影しています。本線のホーム側壁は石のブロックを積んで作られていますが、万世線の側壁は1931(昭和6)年に開通した加世田〜枕崎間各駅のホーム側壁同様にコンクリート製のようです。万世線開通時に、このホームが存在していたか否かは不明です。
 因みに薩摩万世駅の側壁は石積みでできています。

 左が300型(現場では「角型」と呼ばれていたようです)、右が100型(いわゆる「丸型」)です。

 吉利駅のページでも記載しましたが、100型は車両の扉床とプラットホームとの高低差を緩衝するために扉下部の床下に引き出し式のステップを装備していました。


 片や300型は扉部分の車内に階段(段差)を設けることにより、ホームとの高低差の解消を図っています。しかしながらこのプラットホームはそういった努力にもかかわらず圧倒的に低いことがわかります。昔の車両は随分と車体が低かったのでしょう。(100・300型気動車が万世線に常備されていた記録はないようです)


 万世線を走った機関車と気動車を確認するために、鉄道雑誌のデータを集めてみました。濃い黄色の区画が対象期間となります。
 廃線後に増備されたDD1202以外の全車両に入線の可能性はありますが、 重量50トンの(軸重が大きい) D については線路規格が本線(伊集院〜加世田)より低かったために実績は無かったものと思われます。
 蒸気機関車については、開通時から 2動軸機関車の B が入線するまでは A の3両が用いられ、C を購入して以降はもっぱら C を使用していたようです。
 気動車(ガソリンカー)は太平洋戦争下の燃料統制までは F に比べると小型の E が使用されていました。戦後はディーゼルエンジンを載せ替えて FG を使用したようです。
 最後まで2軸気動客車として運用についていた G 即ち「キハ4」が「エ4」に車種変更(昭和33年3月)されてから万世線廃止(昭和37年1月)までの4年弱の期間は、どの車輌が運用についていたのかは不明ですが、わずか2.5kmの支線に稼ぎ頭の H を常備させていたとは考えにくく、少なくとも朝夕の時間帯は昔のように A(3号機を除く)IJ などの小型蒸気機関車が、ハフ53・ホハニ59・62などの客車を引いていたのではないのかと想像しています。

 万世線ホームから伊集院方に向けての撮影です。

 本線のプラットホームは上屋にかかるあたりから、かさ上げされている様子がわかります。
 昔の客車時代の名残なのでしょうね。

 実はこの万世線のホームも昭和30年頃(万世線終焉の頃)の記録写真を見ると盛り土をして側壁の上に角材を置くことでかさ上げをしていたようです。
 走る車両に合わせて施設も変えていたのでしょう。






 万世線が現役だった頃、旅客が列車に乗車するときに左を向けばこのように見えたのでしょうね。

 さあ、薩摩万世まで2.5km、出発します。




4番線と車庫からの線路と合流し、本線に向けて分岐するポイントは直進して万世線へと進入してゆきます。



運行当時、ビル群やアンテナがあったかどうかは分かりませんが、車両後尾からはこのような風景を見ることができたはずです。

 訪問当時でも廃止から21年経っていましたが、地図を見ると(地図のページご参照)廃線愛好者にはすぐに “ピン”とくる、かぼそい線が描かれていました。

 枕木も撤去され、農道と化した軌道跡です。終点まで途切れることなく続いていました。

 途中にトンネルがあったことはご存知でしょうか?

 加世田を出発して本線より左に85度カーブすると880m程の直線区間になりますが、途中に横たわる海抜30m程の丘陵を超えるために、築堤と切り通しで高度を稼ぎます。
 ピークにあたる部分に全長28mの「宮原トンネル」はありました。

 抗口は煉瓦も組み合わせた大田トンネルのような精緻さはなく、荒削りの石積みアーチと一段奥まった同じ材質の石積み抗門です。(鉄道ピクトリアル No.127:掲載写真より)
 鉄道開通前から丘陵の尾根には加世田と宮原の集落を結ぶ道路があったために、わざわざトンネルを掘ったものと思われます。
        
 元来、直進していた道路(黄色点線)は、いつの時点(トンネル完成時? 道路幅拡張時?)かは不明ですが、線路と直角交差に付け替えられたようです。
 1983(昭和58)年の訪問時にはトンネルは撤去されていました。写真はトンネルのあった位置より加世田寄りの場所で同じく加世田に向けて撮影しています。



 万世線廃止翌年、1963(昭和38)年に国土地理院が撮影した空中写真を転載しています。
 貨物側線の“- - - - ”については存在を確証する資料を手元に持っておりませんが、空中写真で見る限り築堤には側線をもてるだけの余裕があり、戦前にはあったかもしれないくらいの遊び心で描いてみました。トラックが乗り入れて積み下ろしをしていたスペースかもしれません。貨物ホームに隣接して製材所があったようです。 


 駅の位置は唐仁原と小松原を意識して、両地区の顔を立てるようにして決定したのかどうか定かではありませんが、小松原と相星地区にとっては不満の残る位置のように見受けられます。昔の地図や空中写真で見る限り、家が建て込んでいてこれ以上進めないといった訳でもなさそうですし、唐仁塚川を渡り小松原地区に隣接する水田を造成して駅を作ることはさほど困難なこととは思われませんが、川を越えることなく大崎地区に駅は位置していました。出資者や地権者などの様々な都合や思惑で決まったものとは思われますが、「水陸両用駅」という可能性は荒唐無稽でしょうか?
 @唐人原・小松原地区は水運により発展し、水運の顧客とノウハウを有していた A万之瀬川河口とは唐仁塚川で結ばれ、距離は1,300m程である B唐仁塚川を掘削・拡張すれば荷船は上ってこれたのでは C貨物ホーム横の水田を掘削して唐仁塚川とつなげて船溜まりとする D船と貨車の荷は木製の軽便なクレーンを使って積み替える
 1916(大正5)年当時では、喫水の浅い和船(荷船、瀬取船、川船)も沢山あったでしょうし、1802(享和2)年の大洪水で町と隣接しなくなってしまった港を街中まで引き込み、直接鉄道貨物に受け渡すことが出来れば二つの輸送手段の相乗効果により、物流拠点としての地位はより強固となるはずです。水運で栄えた町としては、再び町に隣接する場所で水運も取り込みたとの強い願望があったとしても不思議ではありません。
 この駅を模型化するならばという発想で思いついた、現地を知らない者の妄想ですが、大洪水以前は河口が小松原・相星地区と隣接していたとの史実より、洪水前の唐仁塚川河口は薩摩万世駅の位置より1,300mも先にあったとは思えず、駅位置付近の川面は(現在も)感潮域ではないのか、即ち満潮時には薩摩万世駅付近まで海水が唐仁塚川を遡ってくるのではないか、そう考えると鉄道駅としては最適な場所だったのではないでしょうか?
 《書籍等にて唐仁塚川と鉄道で荷物を積み替えたという記載は確認できていません そういった計画があったかもしれないという空想です!念のため

 トンネルを抜け、わずかに右に振れると切り通しは終わりとなり、谷戸に沿って左・右・左と続けざまにカーブしながらと水田のなかを下ってゆきます。
 小陣の集落を左にカーブしながら荒田集落からの道を左手に従えて、続く右カーブした終端部が終着駅の薩摩万世となります。加世田から6〜7分で到着です。

 加世田方より薩摩万世駅跡を撮影しています。ホームが右カーブしていることがお分かりになりますか。

 
 ホーム側壁は石組みです。
 


 1940(昭和15)年12月1日改正の列車運行図表※1では15往復30本。
 1953(昭和28)年11月の時刻表※2では18往復36本。

 2年後の1955(昭和30)年9月20日改正の列車運行図表※1によれば加世田6時15分始発から薩摩万世発22時25分終列車まで、24往復(内2往復が混合のスジ)48本もの列車が設定されています。朝には上り7時45分発から下り9時14分発までの89分間に9本が集中していました。
(この時間帯、平均すると6分走行−5分間折り返し停車−6分走行のピストン輸送となります) ただし「軌跡-南薩鉄道70年」の資料では1954(昭和29)年は17(17往復34本と解釈)との記載であり、常時24往復のスジがすべて運転されていたかどうかは不明です。
 
 1960(昭和35)年10月の時刻表※2では加世田始発5時18分から加世田発7時58分までの5本と薩摩万世18時08分から薩摩万世発22時03分までの7本の計12本は確認できますが、それ以外の時刻は「この間20-60分毎」と表記され仔細は不明ですが、「軌跡-南薩鉄道70年」では同35年として17(17往復34本と解釈)と記載されています。

 これ以降、廃止までの資料が手元に無いので不明ですが、末期の知覧線のように運転本数を大幅削減された末に廃線、というふうではないようです。


 ※1:RM LIBRALY109-下
 ※2:レイルNo.25


 積極的な誘致の甲斐あって、当初は思惑通り銀行の出張所や旅館なども並び、ずいぶん賑わった様子ですが、やがて物流は陸運に移行、さらに水深の浅い河口港では船舶の大型化に対応できなかったこと、鉄道が来たとはいえ結局は支線に過ぎなかったことなどにより物流集積地としての役割は本線の加世田に取って代わられ、商工業地としての唐人原(大崎)・小松原地区は衰退してゆきました。
 高度成長期の道路網整備により鉄道貨物すらもトラックに奪われ、物流集積地として機能を失った町への鉄道、万世(=永久に変わらず続くこと)線は1962(昭和37)年1月15日にその役目を終えました。


 その昔、多くの貨物の積み下ろしで賑わったであろう貨物ホームから旅客ホームに向けて撮影しています。


 

※1916(大正5)年10月22日 薩摩大崎町駅として開業
 1925(大正14)年1月1日 町制施行により東加世田村から万世町に
 1941(昭和16)年5月 薩摩大崎町を薩摩万世に改称

 《万世(ばんせい)は万之瀬川の“万”と東加世田村の“世”より「万世不易」を願って定められたそうです。(南日本新聞社 鹿児島大百科事典より)》

 

2008/12/21公開