本屋と周辺

このページでは本屋と本屋の横に並んで建っていた旧本社・詰所・作業所・気動車の車庫などの木造建築物を中心に紹介します。

『★』のついた写真は第1回目の訪問(1980(昭和55)年3月)、廃止4年前の撮影です。

 

 小雨降るなか、枕崎方を写しています。

 接触限界標の横を這う2条のワイヤーはすこし先で左右に別れ各々本線の下を潜ります。左に分岐したワイヤーは奥の腕機式信号機につながっています。


 右の大きな建物は、おもに客車を整備していた車庫のようです。

 左の小さな小屋は、何の保管庫だったのでしょう?
 その保管庫に注目して次の写真を見ると。


 


 

 片流れ屋根の倉庫は意外と小さいことがわかります。

 線路と平行に建設された家屋の入り口には各々白い木札が掲げられ、施設名が判るようになっています、がメモを取っておらず今となっては何の施設なのか判りません。向かい側が車庫だったことを考えると、客車関係の備品倉庫か工作保守修繕作業場、もしくは保線関係の建物といったところでしょうか。煙突がついているので作業も出来る施設ではあったようです。


 中央に置かれているのはバッテリーです。
 こんどは、バッテリーに注目して次の写真を見ると。



 ポイント前端部のあたりから構内に向けて撮影しています。

  
 「変電室」・「危険」・「係員○無○入室○禁止○」と読めます。「係員外無断入室を禁止する?」
 電信線と変電室には夥しい数の電線が繋がっています。
 
 変電室の奥の建物は気動車の車庫です。
 
 本線を横切る木の板。
 パッと見た目、職員用の業務通路と思いますよね。
 ところがです、構内では旅客通路以外でこういった設備が(本屋と「信号切替てこ」との間なども)存在しないのです。
 左端から“よぉ〜く”目を凝らして追ってみてください。ヒトの通路であるならば、なぜ線路と同じ高さの踏み板を設置しないのか? とくに本線同士に挟まれた2枚板のあたりは高さが無ければ薄い踏み板を置いても意味が無い。そして終点部分は“穴” ヒトが通るのであればもっとなだらか(スロープ)であっても良いはずです。つまり、ヒトが上を通るための板ではなく、下を潜る何かを保護するための板である
 

 バッテリー横の地面を見ると、建物に向かって溝が切られています。そして写真の右端には建物のコンクリート壁から突き出た鉄棒のようなものが。
 恐らく建物土台のコンクリート壁には穴があけられ、建物内部の或る場所まで鉄棒は続いているものと思われます。
 線路を潜って延びる鉄棒の正体は。 次回明らかに!! 

 とはいかず残念ですが不明です。因みにポイント切り替えのための伝動鉄管ではないと思われます。
 客車車庫の前面扉に対して平行に延びているようで、客車車庫内に続いているのではなく、客車車庫と修繕工場とをつなぐ(謎の)建物に吸い込まれているようです。工場に電源を供給する分電盤の主動力電源開閉レバーにつながっているとか? 何なのでしょう。分かりません。
 写真が無くこれ以上の追跡は不能です。断念!(←「ザンネン」のイントネーションで)

 
おまけ。 左端および右端部分の拡大写真です。


 気動車車庫の横から本屋とプラットホームに向けて写しています。電信線は構内を真っ直ぐ進んでいます。

盆栽好きの職員が移植したのか、日置駅と同じように松の木が植えられています。

写真右の車庫にぶら下がるタイヤに注目して次の写真を見ると。 


 気動車の整備を行なっていた車庫のようです。

 100・300型用にしては長さ、幅ともに小さめのようだったので戦前のガソリンカー時代に建造された車庫かと思いきや、「軌跡」によれば1952(昭和27)年11月14日に「加世田デーゼル動車修理工場竣功」との記述があり、同年12月15日の100型増備に合わせて建設されたようです。「修理工場」との表記が少し気になりますが、前年の1951(昭和26)年6月14日には「加世田機関車車庫改築」との記述もあり「加世田デーゼル動車修理工場」とはこの車庫を指しているようです。

 庫中にはピットの設備もありました。
 他所の鉄道車庫の多くがそうであったように、この車庫も扉は観音開きとなっています。(両線の扉が開いているところはh-Kご参照)

 扉は車庫本体に対して90°の位置以上に開かないように、左と真ん中は杭を打ち、右は写真のように車庫から水平に止め木を伸ばしていました。右端の止め木は本線と隣接しており、 荒天時や夜間に職員が犬走りを通行する際、誤ってぶつからないようにタイヤを吊り下げ、黄色い警戒マーキングを施していたのではないでしょうか。


 
 石造りの倉庫。

 戦前に、会社の貴重品保管倉庫として建てられたそうです。
 気動車の車庫と旧本社に挟まれた道路寄りにありました。
 
 
 レトロ香る昭和の時代にあっても、この貫禄のある石倉は歴史と希少価値を漂わせていたのでしょう。2回の鹿児島訪問で撮影した300余枚のうち、鉄道とは直接関係のない3枚のうちの1枚です。(因みに他2枚は浜田橋と花渡川の石橋)

 嬉しいことに鉄道廃止後には、この場所からジャッキアップして本屋の反対側まで移動してもらい、今でも鉄道関連の資料を保管する蔵として大切にされているそうです。

  

 再び線路に戻って。
 正面が気動車の車庫、左奥に石倉があり、手前の建物が「南薩鉄道」時代の本社。(本社は鹿児島市にも置いていましたが、加世田の本社は1958(昭和33)年6月1日に「鉄道部」・「支社」へと変更されています)

 1940(昭和15)年撮影の本社の写真では、左の車庫への線路は敷設されておらず棟と同じくらいの高さの松の木が2本と、軒の高さほどの杉の木(?)7〜8本がYポイントのあたりに植えられていました。

 右手前の木の板の先には「信号切替てこ」が伊作駅と同じく3本並んでいました。構内の両端にあった踏切は警報機と遮断棒が付いたタイプで、踏切の操作ボタンも「てこ」と一緒にあったはずです。

 29キロポストに注目して次の写真を見てみると。


  29キロポスト。伊集院から29キロの地点です。
 訪問時では、概ね57分前後要していたので “29÷57×60” の算式より表定速度(駅での停車時間を含む運転時間)は時速30kmとなります。


 恐らくこのあたりが事務室だと思います。運行に関する管理や出納業務を行っていた場所ではないでしょうか。

 立派なタイヤを履いたリヤカー、貯水槽(土管流用?)、専用台に置かれたブリキのじょうろ、お手製の塵取が2つ、竹箒が4本。


 ダルマ式転換機に注目して次の写真を見ると。

 本屋改札とホームを結ぶ旅客通路の上から枕崎に向けて撮影しています。

 3つの車庫が揃って写っています。
 左から「加世田デーゼル動車修理工場」、奥が正式名称は不明ですが「客車庫(検車庫)」右の大きな車庫が「加世田機関車車庫」です。

 中央の赤い気動車はキユニ105。
 貨物営業廃止前に“キハ”から“ハ”の設備を廃して“ユニ”に改造された車両です。1975(昭和50)年3月に“ユ”郵便輸送が終了した後も、“ニ”荷物車としてとして小荷物輸送にあたっていましたが、2回目の訪問時(加世田豪雨3ヶ月前)には車輪も赤錆びて相当前から運用にはついていない様子でした。

 本線ホームの上から。

 上屋支柱の「方杖」には曲線加工が施されています。(伊作駅C参照)
 気動車の乗降口にあたるホーム上には補修の砂利が敷かれています。(伊作駅H参照)


 12時02分発の枕崎行きと併結のため1番線に入線する、現役だった頃のキユニ105。
 『★』のついた写真は第1回目の訪問(1980(昭和55)年3月)、廃止4年前の撮影です。

 11:00 JUST に単行で伊集院を発車したキハは 11:57分に加世田駅1番線の、上屋1/3にかかるあたりに停車します。ほどなくキニ101もしくはキユニ105が枕崎方よりゆっくりと接近、5分間で連結作業を行い12:02分、枕崎に向けて出発します。枕崎では61分間停車し小荷物の積み下ろし作業をした後、伊集院に向けて出発。伊集院には15:30分到着、 95分間停車した後に出発。加世田でキ(ユ)ニを切り離し、再び単行で枕崎に向けて18:05発車。
 小荷物専用気動車の一日の運用です。(ダイヤのページ もしくはh-P 前の1980(昭和55)年3月の簡易ダイヤ表をご参照)



 駅本屋と続く事務棟、旧本社棟、詰所、車庫兼車輌工場。
 南薩線の中枢部分。(経営のみが鹿児島市の本社?)


 ホームと改札を結ぶ旅客通路はガードレール(護輪軌条)で保護したうえに、南薩線で唯一石を敷いた立派なものです。(日置駅F ・伊作駅C,Eと比較してみてください、因みに枕崎駅の通路は日置駅のように木製です)


 事務室入り口扉横に掛けられた1本のこうもり傘!
 3年後のh-Hを見ると・・・。

 3年経ている証拠は@本線バラストの状態、A29キロポスト左下の白塗りの杭の有無。
 でも、そのほかの・・・貯水槽、専用台に置かれたブリキのじょうろ、塵取2つ、竹箒、プロパンガスボンベ何も変わっていない。

 東京と加世田では時間の流れが違うに違いない。


 木組みの改札口。白く化粧を施されていました。

 差し掛け屋根は伊作駅とは異なり、トタン波板に葺き替えられています。また、支柱の方杖にもアールはつけられていません(伊作駅C参照)



 バイクから転用?車体フレームに比べて立派過ぎるタイヤを履いた小荷物運搬用リヤカー。
 
 おそらく自社工場製。



 


 11時13分発の西鹿児島行きと14分発の枕崎行き改札です。


 中央の開放されれている改札口を中心として左右に係員が入るブースがあり、各々のブース横に2つ、計3つの改札通路が作られています。
 町の玄関口として賑わった頃は、列車の到着にあわせて係員を増員して改札業務を行ったのでしょうね。




枕崎行きキハ103を見送る出札係員

 次の改札業務は、13時50分発の伊集院行きまで2時間36分間ありません。
(このキハ103が枕崎に到着した後71分間停車し、折り返し伊集院行きとして加世田を13時50分に発車します( 3年前の訪問時には小荷物列車併結の枕崎行きh-Jと13時8分始発の伊集院行きがあったのですが))

 因みに訪問時、1983(昭和58)年3月の時刻表によると、この空白時間(11時14分〜13時50分過ぎ)の鹿児島交通バス鹿児島行き(山形屋バスセンター(西鹿児島駅から市電15分、“朝日通”停留所))は11時30分・12時30分・14時00分と3本設定されています。

 鹿児島市内最大の繁華街は「天文館」周辺ですが、国鉄西鹿児島駅と鹿児島駅のほぼ中間に位置し国鉄駅からは市電などの利用が必要となります。
 しかし、加世田からバスを利用すると繁華街(山形屋百貨店)まで乗換えが要らず、運賃は鉄道利用より70円安く、さらに市電運賃130円も不要で、合計200円お得となり、かつ早く着けるメリットがあります。
 国鉄利用の旅行、もしくは国鉄駅付近の用事(含通勤通学)でなければ、あえて西鹿児島まで鉄道を利用する理由がみつかりません。
 快適性・運賃・時間・便数・乗り換えいらずと、いずれも実用性においてバスが勝っていることも、昼の時間帯に鉄道が2時間半もの空白を生んだ理由の1つでしょう。

※高齢化による乗務員不足も考えられます。
 






(日本交通公社 1983年 3月 時刻表 556ページ【鹿児島交通】より作表しています)


「JTBパブリッシング刊「JTB時刻表(1983年3月号)」より転載」



 






 改札口上部に掲げられた列車時刻表。

 堂々として立派であるが、下り「423・425・429・801列車」、上り「402・418列車」合計6本は加世田止まりで“水増し表示”である。



 車輌は303と101。



      

7時41分発 802列車(折り返し801列車)は、薩摩湖駅海側に位置する県立吹上高等学校生を意識した通学列車ゆえ、全国版の交通公社時刻表でも「太字=休日・休校日運休」の注記がありましたが、地元向けには具体的な春休み期間の運転休止日を記した案内が掲げられていました。



 上りの「列車時間表」の拡大写真。

 国鉄との接続は83年3月で見る限りそれほど悪くないように思われます。
 始発の5時30分発に乗れば14分の待ち合わせで博多11時21分着「有明8号」に、西鹿児島では4分の待ち合わせで「にちりん14号」小倉行きに、加世田最終の18時50分では新大阪9時42分着「なは」に1分で接続しています。
 直通列車の11時13分発は西鹿児島で18分の待ち合わせで宮崎行き普通列車、加世田16時43分発は、同じく5分の待ち合わせで宮崎行き「快速錦江」、21分の待ち合わせで都城・国分行きに接続しています。
 日置地区を中心に利用されていたと思われる、伊集院止まりの6本についても西鹿児島行きとは3、6、13、13、25、28分の待ち合わせで、当時の感覚では15分以内であれば許容範囲ではなかったでしょうか。

 一方、「有明8号」に乗れば「ひかり6号」で東京に18時20分に着くことは可能ですが、新幹線乗り換えの利用実績はどれくらいだったのでしょう? 11時13分発の伊集院行きに乗ると西鹿児島12時20分発東京行き「はやぶさ」を伊集院にて25分の待ち合わせで通過する姿を見ることができます。実際に「はやぶさ」を利用するためには加世田発8時22分に乗り西鹿児島で2時間34分、もしくは川内で2時間24分待つしかありません。おそらく広島あたり以遠となると(関西圏に明朝到着する「なは、明星」を除き)飛行機が優位だったのでしょうね。因みに鹿児島空港発着の羽田、伊丹空港行きは各々6往復設定されていました。

 伊集院・西鹿児島接続を中心にダイヤを組んだあおりを受けたのかどうか、枕崎での接続はボロボロです。国鉄・指宿枕崎線の6時24分枕崎着は11分前の6時13分に、同7時43分着は4分前の7時39分にいずれも接続せず、加世田にむけて発車しています。利用客もなかったのでしょうが、接続の悪さで鹿児島交通乗車を諦めた鉄道ファンは数多くいたはずです。
 下り「列車時間表」の接続欄・待合時分欄には枕崎での接続についての注記はなく、加世田止・加世田始発・西鹿児島直通などが記載されています。 



 古くさいと感じるか、はたまたレトロと感じるか。

 建設当初は全面ガラス張りかつ、曲面ガラスも採用したモダンな設計の鉄道乗車券売場だったのでしょうね。


 入場券を求めましたが、
 「売り切れです、住所氏名を書いてもらえば印刷出来次第送付します」との案内。
 「・・・。」どうしよう。
 表情を読んだ係員が「上加世田までならあります」
 「それください」 ほっと。
 その後求めた、伊作駅でも入場券は売り切れでした。

 “切符が売り切れ”って変な話ですが、廃止は確実という情勢のなか、記念にと言うファンが多かったのでしょう。

  





 廃止反対横断幕の下がh-Rの「鉄道乗車券売場」。その左横、“シルバーベンチ”前の窓口は「バス乗車券売場」 上部には「鹿交バス時刻表」が掲げられています。恐らく午前8時過ぎの撮影です。

 入場券こそ買えませんでしたが、撮影日(1983(昭和58)年3月12日には「鉄道乗車券売場」で枕崎から伊集院まで、鉄道全線の切符を買うことが出来ました。しかし、101日後に発生した加世田豪雨により上加世田〜枕崎間の鉄道切符販売が中止となり、1年と5日後の1984(昭和59)年3月17日を最期に「鉄道乗車券売場」は閉じられました。

2009年5月31日公開