北多夫施駅 (南吹上浜〜北多夫施)
南吹上浜駅から続く左カーブが終わると、1,200メートル前後の長い直線区間となります。
直線区間を700メートルほど進行した位置から北多夫施方向に(1980(昭和55)年3月)撮影しています。
気動車は水田と畑の広がる海抜20メートル弱のほぼ平坦な台地のうえを軽快な速度で進行してゆきます。
正面の丘陵を左に巻いて、さらに真っ直ぐ南進した先が北多夫施駅となります。
上の写真の撮影位置から南吹上浜駅方向に振り向くと、このように見えるはずです。
(正面、右カーブした先が南吹上浜駅です)
当日は加世田を基点に万世線跡を往復したあと、まず南多夫施駅まで歩きました。南多夫施駅から北多夫施までの一区間は汽車に乗車して、以降は再び吹上浜まで歩いて一日を終えています。
北多夫施で下車して駅構内を撮影したあと、雨のなかを軌道に沿って(前日、上日置まで軌道上を歩いて懲りていたので、軌道に乗らず離れず平行に)南吹上浜駅に向けて、真面目に公道・農道・畦道・畝をとぼとぼ歩いていました。
加世田方面ゆき列車が伊作駅で先ほど乗車した汽車と交換して、そろそろやってくる時刻であることはわかっていましたが、起伏のない田畑のなかの一直線の線路は変化に乏しく、撮影場所が決まらないまま歩みを進めていると、前方より300型が。
消極的選択。
背後に建物があって幾分変化のあるこの場所でサイドビューを期待してカメラを構えましたが、
「えっえっえっ うわ〜 ウソだろう〜!」
ご覧のとおり軌道は「切取り部」に敷設されており、貴重な走行写真となるはずだった1枚は・・・。 「しょぼ〜ん」
300型の真っ白な屋根しか写っていない「お笑い写真」となってしまいました。
1980(昭和55)年3月の訪問時には加世田から枕崎までを105と協調運転した102に乗車しています、スジ自体は同年10月1日のダイヤ改正でも伊集院〜枕崎で1往復確認できます。いつ頃から運用につかなくなってしまったのか。
因みに1975(昭和50)年3月10日の改正では加世田〜枕崎での運用に加え、伊集院〜加世田では2往復あったそうです。
草木の勢いづく前の季節に訪問したので、役目を終えたホーム側壁や撤去レールを撮影することができました。
夏休みの頃では車体を擦るくらい雑草が茂っていて、すべてを覆い隠していたかもしれません。
昭和5年4月の「連帯線 貨物営業粁程表」(トワイライトゾーン MANUAL14 巻末資料編)によれば吹上濱と南吹上濱の両駅には「貸切扱ヲ扱ハス※」の注釈が付されています。これは貨車一両の扱いはできません、つまり「貨物ホームがなかった」と解せます。ならば両駅以外の日置〜薩摩大崎町(薩摩万世)の各駅には貨物ホームが存在した筈であると推測することができます。
北多夫施駅は伊作からは4.5km、加世田からも6.3kmと主要駅の概ね中間地点であったこと、隣駅の南吹上浜に交換施設がなかったことから貨物専用ホームをもった、それなりの規模を持った駅だったことが伺えますが、貨物ホームの位置は旅客ホームに付け足される形で存在したのか、本線とは独立して作られていたのか、訪問当時にインターネットで公開などとは想像もできなかったので、草を掻き分けて靴を濡らしてまで踏査しておらず、今となってはよく分かりません。
昔の空中写真を見ると枕崎方の海側(写真でいえば右奥)に、線路と平行に倉庫のような建物を確認することができます。集落を結ぶ道路と敷地も接しており、このあたりで貨物の取り扱いがあったのではないかと想像しています。
※ 「扱ハス⇒扱わず」否定の意味です ならば「扱う」はどう表記されているかといえば 「扱う⇒扱フ」 具体的には「貸切扱ニ限リ扱フ」もしくは「貸切扱ニ限ル」と記されています。