永吉駅 (吉利〜永吉)
吉利〜永吉間のほぼ中間地点と思われます。
結構、急な勾配。
吉利駅を出ると両側が畑となっている切通しをほんの僅かの距離上っていきますが、左手に「帆見ずが池」(帆不見ヶ池? 帆水ヶ池?)を過ぎたあたりからは心持ち下り加減で畑の中を優雅に右から左へカーブしていき、中間地点からは写真ような勾配で永吉川鉄橋まで下っていきます。
吉利で離れた国道270号線が正面右手にある木立の辺りで再び左手から寄り添ってきます。
この写真からは意外に思われるでしょうが、この地点が南薩線でもっとも海に接近している場所です。
キハ300型車内から1980(昭和55)年3月撮影。
快速する西鹿児島行きキハ303
勾配を下りきったあたり。(西鹿児島行はこれから勾配を上るところ)
左が枕崎、右が伊集院方向。 今で言えば(2007年4月現在)、永吉川のほとり「かめまる館」が建っているあたりから海方向(伊集院寄り)に向けての撮影です。
同地点で丸型気動車100型を撮影。
西日をも恐れず果敢に撮影。(無知ゆえ)
結果、真っ黒な写真。
「Photoshop」でいじくり回してどうにか見れる写真に。
丘陵地帯が主に畑や牧草地に利用されているのに対して、永吉川に接するこの辺りは水を得やすいためなのか水田が広がっています。
永吉川に架かる3連アーチの石橋 「浜田橋」。
架設当初は2連だったそうですが、大正2年に3連に改修され、以降昭和39年まで使用された由。
何故「浜田」かと言えば、おそらく所在地が「永吉浜田」にあるから。
しかし、数十メートルしか離れていないのに鉄道の橋梁は「永吉川鉄橋」。名称が違っています。
永吉川に架かる道路橋は複数あれど、鉄道橋は南薩線が唯一だから川の名前を直接付けて貰ったのかもしれませんね。
日置駅のページで給水塔について、「石垣一つ一つにアールをつけて全体としてバランスの取れた円筒形にすることは長方形の石垣を単に積み上げるより随分手間がかかったことでしょう。」と記載しましたが、九州には石橋作りの技術があったことが頭から抜け落ちていました。
石橋づくりの技術をもってすれば給水塔の石組み如きは片手間仕事だったのかもしれません。
輪石(アーチ部分を形成する石)の滑らかさには驚かされます。どんなに目を凝らしても凹凸が見受けられません。
永吉川鉄橋を渡る丸型気動車のキハ103を浜田橋の袂から撮影。
橋脚数は4脚(すべて川の中)、よって橋桁数は5連の橋梁です。
「筑波鉄道」のページでその印象を、
@街なかを走らない
Aトンネルがない
B切り通しがない
C高架がない
D大きな築堤がない
E勾配(起伏)がない
F森(森林)がない
G沼、湖、がない
H川すらない
Iよって鉄橋がない
J田んぼと畑はうんざりするほどある
と評しましたが、
鹿児島交通線(南薩線)は山あり、海あり、松林あり、・・・・。
沿線風景は筑波鉄道とは比べようも無い多彩な変化に富み、走っている車輛もすでに国鉄では運用を終えてしまった07タイプ・・・・。
もっと広く紹介されてしかるべき鉄道だと思いますが、あまり知られていないのは、「九州の南端にあり、気楽に訪問するにはあまりにも遠かった」ことが大きな要因ではないでしょうか。
橋梁の先は東シナ海が広がります。
何故、海が写る位置でシャッターを切らなかったのか。
二度チャンスはあったのに。悔やまれます。
もうすぐ日没。
両線路図の向きが一致していません
一方の図を上下左右回転させてイメージください
永吉川鉄橋を渡り右に急カーブすると永吉駅に到着します。
ホームは島式です。
ホームへの乗り降りの場所は、安全面から考えれば両先端部が最適なはずで (筑波鉄道の真壁駅のような例はあるにせよ(真壁駅Mの写真)、通常はホームのど真ん中に落とし穴の如き階段は作らない)、本屋もあわせて駅の端に設置されました。
駅本屋の建設場所を線路を挟んでどちら側に決定するかは、まず第一に人の流れが考慮されるはずです。永吉駅でも「浜田・原園・草田」といった集落のある山側に設置されました。
時代が変わり交換施設が撤去される場合、これも特別な理由がない限り人の流れを優先して決定されるはずです。わざわざ残す線路を横断させるような双方に面倒とリスクが生じるような方式は避けるはずで、定石どおりの配線となっています。
廃止間際の無人駅では例外なく、相対式ホームだった場合は本屋のあるホーム、島式は本屋から遠いほうの線路が残されていました。
現役のときのホームは キハ+キハ+キハ、3両くらいは扱える長さをもっていました。
広々として、開放感のある駅です。
山側には昔、貨物側線があったことが想像できるスペースがあります。側線は1線だけだったのか複数線あったのか?
永吉駅は南薩線23駅の中で海までの距離が一番短く、しかも永吉川河口に隣接して開設した駅です。
漁港には漁船が累々と係船され、競り落とされた魚はすばやく氷詰めにされて貨物側線へと運ばれ早朝の専用貨物列車で都市へ輸送・・・・・。
というシナリオならばスペースについて疑問もないのですが、漁港は存在していないようです。
串木野から加世田まで延々50km余り、吹上浜は日本三代砂丘のひとつに数えられています、しかし砂丘海岸ゆえ地形を利用した天然の良港がなかったこと、また漁自体も例えば瀬戸内海のような内海と異なり外洋となるため、それなりの装備のある船でないと難しかったことなどから大規模な漁業は成立しづらかったようです。
最盛期はどのように線路が敷かれ、どのような施設があったのでしょう。
訪問当時存在していた、「美しい無人駅本屋」のベスト3に文句なく入ります。
また、「こじんまりした本屋」のベスト3にも入ることでしょう。
ストラクチャー的な視点で見てみると、可愛らしい駅舎ではありますが、引き戸の付いた改札口は一段引っ込んで屋根が直接庇となって雨を避けられる構造です。改札口横には事務室へ通ずる板戸があり、事務室は直接構内全体が見渡せるように切妻屋根にあわせるかたちで出っ張っています。事務室上の屋根には煙突が飛び出ており、だるまストーブの類が置かれていたことが想像できます。続く事務室もしくは宿直室兼休憩室は切妻屋根に切込みが入り改札口にあわせた面まで引っ込みます。
背の低い電信柱が控えめだけれども、いい位置に立って全体を引き締めています。
背面から見た本屋は、事務室もしくは宿直室兼休憩室部分の屋根が改札口の屋根よりも大きく張り出しており、より地面近くまで伸びています。庇の下には井戸に通じる勝手口があり食事の用意のときなどの出入りに使われたものと思われます。少し小さめの明り取りの窓には木製の格子がはめられおり、つづく事務室と待合室の面は窓も大きく、屋根が前面の宿直室兼休憩室部分と同位地まで切れ上がり、採光を配慮しています。
入り口に引き戸はありません、大きく口を開けています。上部には専用の庇が張り出しています。
小さいながらも機能性第一で、押さえるところはキッチリ押さえ、かつ無骨にならず繊細さを兼ね備えた、日本の美しい駅舎です。
「本当に島式ホームだったの?」と思われた方、Bの写真の右すみをご覧ください。
ちゃんとスロープ部分に側壁を確認することができます。
しかし、本体部分の側壁は交換施設撤去後に解体して、若干ホームを崩しつつ段差の解消を図ったようです。
現在、自転車道脇にあるプラットホームはどこまでがオリジナルなのでしょう?
キハ103 枕崎行き、 17:36分前後。
3.3km先の吹上浜駅に向けて緩やかに左カーブする線路の上を、車体を右に左に揺らせて発車していきました。
2007/06/07 公開
2012/05/14 文章一部修正・一部高画質写真に差換え
2022/03/18 画像追加 ・一部高画質写真に差換え