さつま湖遊園地とロープウェイ
今から約60年も前(2013年現在)、昭和30年代前半のお話です。
私自身生まれおりませんし、現存する資料も少なく正確にお伝えできる情報は限られますが、貴重な資料と、ご協力頂いた皆様からの伝聞を中心に記録します。
南薩鉄道を利用して薩摩湖駅に降り立った遊覧客は、小高い丘と松林に遮られプラットホーム上から薩摩湖を望むことは叶いません。
遊覧客は薩摩湖を眺めることなく、湖とは反対側のホーム中央部に設けられた木製改札口を過ぎ、右に向けてプラットホームの縁に沿って造られた遊歩道をロープウェイ“吹上遊園地”駅へと進みます。ロープウェイ麓駅の左手には小動物園を中心に有料遊具を配置した遊園地があります。
遊園地は東京で言えば「あらかわ遊園」をもっと小さくしたくらいの規模で吹上浜の柔らかい砂地の上に造られ、日陰も提供できないほどの松の若木がパラパラと生えていました。
※概要図の背景写真は開園当時の空中写真ではなく、1974(昭和49)年の空中写真を背景に描いています。よって松林は約20年間分成長しています。
有料遊機具は全部で5種類用意されました。
子供汽車 → バッテリーか三線集電方式かは不明ですが、操作室が作られていたことから遠隔操作運転だったようです。蒸気機関車を電動車として炭水車に続いて3両の客車を牽引していました。機関車はデフ、煙突、ヘッドライト(ダミー?)を装備し、運転室の屋根も実物通りに(運転手が乗るスペースとしてオープンされていない)、国鉄C型50番台タイプのスケールモデルとしても通用するくらい精巧に作られていました。炭水車に2名乗客を乗せ、オープン型客車にはおそらく1両当り最大定員大人2名+子供2名を乗せて反時計回りに120mを周回しました。乗降場手前には木製手作りペンキ塗りの腕木式場内信号機と通過信号機が設置され、トンネル代用の車庫も雰囲気を盛り上げました。敷地面積は260坪。
豆自動車 → 手元に画像資料がなく想像ですが、動物・機関車・バイクなどを模して区画内を自由進路で走行できる今どきの方式ではなく、長四角型鉱山用のバッテリロコを小型にして自動車に模したような無骨な一人乗りバッテリー電動車 (ジープと称していたようです) 5台が用意され、一方通行の50mコースを周回する方式だったようです。敷地面積は70坪
観覧車 → これも画像がな外観の仔細は不明ですが、動力5馬力にて全高は40尺(12.12m)、定員4人の乗りカゴ9箱を吊っていました。敷地面積は30坪。
飛行塔 → 遊具の中では一番見栄えたかもしれません。全高は40尺で高さ4mくらいのステージ中央を貫く(送電線の鉄塔のような)鉄骨やぐらの上部に回転式アングルを据え、アングルからワイヤーにてゴンドラ4機を吊り下げ(1機当たり定員8名)周回させる遊具。ゴンドラは飛行機というよりも垂直尾翼の付いた寸胴ロケットといった風情でした。敷地面積は20坪。
ムーンロケット → 勾配が付けられた板張り円形ステージ上を周回する遊具です。14人乗りのコースターは連接構造ではなくステージ径に合わせた曲線一体車体で3機用意されていました。車体先頭部分は流線型で槍状の突起があり、ロケットというよりも“イッカクくじら”そのものでしたが、最後尾は水平尾翼が付けられロケットとしての体裁を繕っていました。敷地面積は17坪。
屋外劇場・舞台 → 窪地の地形をそのまま利用。最凹部に軽便な基礎工事を施し、高さ3尺(0.9m)・長さ4間(7.27m)・幅2間(3.63m)の木造ステージが設置されていました。観覧席に長椅子等は設備されず、傾斜砂地直座方式
(運動会でのシート敷きのお弁当風景) でした。公称収容観客数は8,000人。敷地面積は1,300坪。行楽時には「のど自慢」が催されたるとともに、歌手の営業もあったようです。メジャーになる前の「岸壁の母」の二葉百合子も訪れていたそうです。
子供動物園 → ライオン・ゾウ・キリンなどはもとより、“値の張る動物” はおらず、鹿舎に屋久鹿5頭(30坪)、木造片屋根の猿舎に屋久猿30頭(10坪)、鳥禽舎、このほかヤギ・ウサギ・モルモット・アヒル(100坪)が飼育されていました。
このほか、無料の遊戯器具として敷地面積500坪にブランコ・すべり台・シーソー・円木(丸太の平均台)など配置されていました。
長期休止中の麓駅「吹上遊園地駅」、1987(昭和62)年撮影
左 : かつて観覧車があった位置から新設されたバイパス県道を挟んで駅の機械室側を撮影、道路は舗装工事されていません
右 :
国民宿舎吹上砂丘荘前の駐車場から、きっぷ売り場(改札口)サイドを撮影
吹上遊園地駅は一段高く建設され、1階にはきっぷ売り場(右写真の赤い屋根の下)が設けられていました。きっぷ売り場横には建物の外に設置されたコンクリート階段があり、プラットホームへと続きます。
14段の外階段を上りきった2階のプラットホーム左側には機械室が設けられ、右側は搬器の発着場所:ロープウェイ乗り場となっていました。
3線交走式ゆえ、端頭式プラットホームの進行右手が1号搬器“つつじ”専用発着ホーム、左手が2号搬器“あやめ”の専用発着ホームとなります。
プラットホーム上屋はアングルを基本に組まれ、発着ホームの両サイドは遮蔽されておらずオープン構造となっています。
最大乗車人員は16名、座席は片側のみでした。(座席6名、立席9名、ガイド1名?)
イメージ図をご覧いただければ容易ですが、発車するとすぐに南薩線への落下物を防護する柵を眼下に眺め、鉄道線路をクロスオーバーします。運が良ければ最新型気動車と空中交差したかもしれません。搬器は加速しながら、中間支柱に向けて松林の上を平均斜度9.5度でぐんぐん上昇していきます。
「九州初のロープウェイ」、老若男女を問わず空中遊覧初体験の人が殆どだったことでしょう。子供は勿論のこと大人も歓声を上げ、高所恐怖症の人は手摺を握る指に力が入ったかもしれません。中間支柱まであと僅かとなったとき、前方眼下の松林の隙間から湖面が見え始めます。
ここで初めて遊覧客は遊覧船やボートの浮かぶ薩摩湖を目の当たりにすることとなります。
抜群の演出効果です。
“今からこの湖の上を渡る”
、クライマックスです。
搬器内はさらなる笑顔と歓声で満ち満ちたことでしょう。
防護柵と唯一の中間支柱
a : 南薩線に跨る防護柵を薩摩湖駅から撮影
防護柵(鉄道上保安装置)上部には索条が写っています
防護柵は高さ(レール面(34.93m)から)5.0m×長さ13.08m×幅6.2m(長柱間は5.0m)の大きさで、フレームには22sの古レールを用い、線径5mm・網目150mmの保護網を被せ、索条と64度の角度で交差していました。1956(昭和31)年1月7日に施工していますが、完成後の同年2月23日に揺れ防止のために鋼丸棒の筋交による追加工事が行われました。
鉄道線路・ロープウェイ麓駅撤去後も永らく放置されていましたが、2010(平成22)年頃に消失しています
b : 吹上浜駅方から100型気動車と防護柵を撮影
c : 気動車車内より枕崎方面に向けて薩摩湖駅を撮影
d : 国民宿舎吹上砂丘荘の駐車場から撮影(左方が麓駅、右方が山頂駅)
e : 公園内から中間支柱を撮影、同じく左方が麓駅、右方が山頂駅
右の索条は緩やかな角度ですが、麓駅に向けた左の索条は急角度で松林に向けて落ち込んでいるのが分かります
(d,e有木道則氏提供)
薩摩湖上で行き交うロープウェイ。
1号搬器「つつじ」の車内から頂上駅に向けて、2号搬器「あやめ」を撮影。
湖の奥、中央部に吊橋が架かっています。 鋼製120m、バラ園として整備された中之島とを結んでいます。
この写真には写っていませんが、湖には屋形船や多くのヨット・ボートが遊覧していました。
さあ、いよいよ中間地点。湖の上ですれ違います。
九州初の旅客用ロープウェイは日本初(※)の“湖を渡るロープウェイ”でもありました。
(※)“日本初の湖面を渡るロープウェイ”として宣伝されましたが、資材運搬用の索道であれば先例はあったと思われます。
また旅客用と限定しても臨時架設を含めれば、南薩鉄道開通12日前の1914(大正3)年3月20日から同年7月31日まで開催された大正記念博覧会の第二会場・上野不忍池において、池を渡る遊覧索道の記録があります。不忍池内に2基の支柱を組み、複線循環式(サンフランシスコのケーブルカーと同様の運転方法)で乗務員と遊覧客8名あまりを乗せたゴンドラが池の端から端まで約320mを4分前後を要して4月18日から閉会まで期間運行したということです。
「さつま湖ロープウエー」は厳密に言えば“日本初”ではありませんが、範囲を限定して“湖面を渡る常設遊覧旅客用ロープウェイ”と定義すれば日本初と言えます。
上津貫のTさんからお借りしました。
当時の地元児童・学生の遠足は薩摩湖が恒例でした。
Tさんのアルバムを拝見しても小学校・中学校、何枚もの薩摩湖畔での集合写真が貼られています。
写真は高校時代のスナップで、中間支柱のある丘から伊作駅方向(南)に向けて撮影されています。ロープウェイに枝が被っていますが、桜の花のようです。
さて、この写真で特筆すべきはセーラー服姿のTさんではなく (^_^)、 索条の角度と走行機のデザインです。
まず索条は、ほぼ水平に張られているように見えます、 全長539mのうち麓駅から中間支柱までの127mの区間で高低差21.3mの大半を使い果たし、残り412m・3/4の距離に相当する湖上区間はほぼ水平移動していたこととなります。
もうひとつは、搬器の重量が支索の一点に集中しないように搬器の長さに匹敵する9個の走行輪をバランスするアーチ構造のデザインです。
近代的な走行機とは違ってスマートさには欠けますが、逆に年代を感じさせる重厚でありながら精緻な造りとなっています。
山頂駅到着目前の車窓からは、中之島に造られたバラ園と吊橋を俯瞰できました。
山頂駅(つつじが丘駅)に到着しました。 5分間、あっという間の空中散歩です。
山腹に造られた山頂駅をバラ園から眺望しています。
駅舎の屋根は麓駅では上りにあわせた“片流れ屋根”でしたが、山頂駅では下りにあわせた“切妻屋根”となっています。
つつじ(4〜5月)の苗12万本は宮崎県から持ち込まれました。
椿(1〜4月)、桜(3月)、八重桜(4月)の名所でもありました。
バラ(主に5〜6月、一部10月)も肝いりで120種2,000苗が植えられ、西洋庭園を意識したバラ園が作られました。
今は流行っていませんが、当時のおしゃれでハイセンスな庭には必ずといっていいほど、逆U時型の白い花壇フェンスが仕切りとして重用されていました。
木々の緑と青空を背景に、白を基調としてアーチや柵が配置され、赤色系のバラを引き立てています。
今であれば、煉瓦の彩りや噴水・西洋東屋・造形常緑低木樹など配し、バラも様々な暖色系のほか白色や黄色系をバランスよく配置して彩るでしょうが、バラがまだ一般的ではなかった当時としては、かなりハイセンスな庭園だったことでしょう。
写真では女性と子供で占められていることも特徴的です。所得が増え、生活に余裕が出来て、(開園より少し経った時代の写真と思いますが)普段よりもおしゃれな服装で休日を楽しんでいる当時の様子が窺えます。
遊園地・ロープウェイ・洋風バラ園・遊歩道・遊覧船・・・見るものすべて斬新で、刺激にあふれ、子供と「また、来ようね」と約束して・・・、素晴らしい一日を過ごしたことでしょう。
しかし盛況だったのも僅かな期間でした。物珍しさからわざわざ足を運ぶ近郊近在からの見物客が一巡してしまえば、季節が変わり彩る花の種類が違ったとしても、施設の更新が無ければ、次の展開が読めてしまう分だけサプライズ(驚き)も少なく、インパクト(衝撃度)は前回より低下します。それが幾度か繰り返されれば、刺激的な非日常のレジャー施設は、安心・定番の日常の公園としての存在価値でしかなくなります。
無論会社も手をこまねいていたわけではなく、遊園地の利用が減少し始めた1955(昭和33)年には1949(昭和24)年から開設していた、公営“吹上浜キャンプ村”に廃客車(※1)をバンガローとして譲り渡すなど、利用客減少阻止の布石を打ちます。
しかし、ブランド力もなく、まして半島という地理的ハンデキャップのなかで、常に客を呼び寄せる努力を継続させることは容易ではありませんでした。
受身の姿勢で委ね、客のニーズを悟れず、寂れてしまった伊作温泉(※2)に対して、「さつま湖遊園地」は付加価値施設を投資し、積極営業をおこなったものの、継続的なハード・ソフトの新設ならびに更新(※3)がままならず、他の施設との差別化を図れずにリピーター獲得に至りませんでした。
開園から4〜5年で遊園地は閉鎖。
ロープウェイも開業から13年程度で運転休止。観光客を乗せて再度動くことはありませんでした。
遊覧船(屋形船)は分解され、伊作川の河口までトラック搬送され再組み立ての後、自力回航で川尻港を経て池田湖に引き取られます。
以降、大掛かりな遊戯施設もなく自然庭園的な普段着の公園として、近隣の住民や個人旅行の観光客に向けて営業を継続していきます。
無論、湖と山と植樹された四季折々の花々が織り成す風光明媚な地であることは変わりなく、桜などの季節には肩肘の張らない名所としてそれなりの集客がありました。とりわけ、1962(昭和37)年から吹上町(当時 現日置市)主催で行われた花火大会は規模が大きく加世田・薩摩川辺・日置辺りからもバス・鉄道利用で大勢が繰り出し、山の上に大きく広がる夜空を背景に打ち上がる花火と湖面で炸裂する水上花火、ナイアガラなどの仕掛け花火は湖面にも閃光を映し、山の配置の具合で迫力のある炸裂音とともに、見物客を魅了しました。
伊作の商店街はもとより、露天販売も盛況で伊作駅から薩摩湖に向う坂の途中からメイン会場の薩摩湖湖畔にかけて何軒もの屋台が連なって出店していたそうです。
(※1) ディーゼルカー(300型)導入で廃車となっていた明治・大正期の2軸客車やボーギー車が転用されました。場所は遊園地(ロープウェイ麓駅)からはるか遠く、正円池と吹上浜(海岸)との中間地点にあり、最寄り駅は吹上浜駅となります。転用客車は吹上浜駅の加世田方(吹上浜駅のページGのディーゼルカーの写っている場所あたり)に臨時のポイントを設置して、本線より90度海岸方向をカーブをつけて600mほど海岸に向かって仮設線路を敷き、キャンプ場内の設置場所まで人力推進で客車を移動させました。最終設置場所では車体を押し上げ台車を抜き取った後、線路を撤去すると同時にコンクリート製の基礎ブロックの上に車体を載せて設置完了したそうです。抜き取った台車は仮設線路で本線に向けて戻し、屑鉄売却されました。最終的には14戸のバンガローが設置されました。
(※2) 全国的にも有名な老舗旅館の何軒かは戦前から継続営業しています。また1967(昭和42)年4月に新たな泉源を開削し、日帰り湯や国民宿舎への配湯など吹上温泉として積極的に活性化を図っています。さらに、かつての遊園地周辺は新たに道路を開通させ、大駐車場を擁して総合運動公園として整備し各種スポーツ施設を提供しています。
(※3) 第2・3期工事として、砂地の勾配を利用した・サンドスキー(竹製のスキーによって自然勾配を滑走)・ボブスレー(8人乗り客車で勾配を自然滑走)・運動場(観覧席設備の1周300mトラック)・相撲場(5,000人収容)・植物園・自然動物園・ゴルフ練習場、などの諸施設が計画されていたようです。
花火大会当日は帰宅客の利便を図るため、21時以降に臨時列車を設定していました。
資料は1966(昭和41)年7月30日(土)に開催された「薩摩湖花火大会輸送計画」のダイヤ(部分)です。
臨時列車を上り2本、下りでは定期列車の時刻変更を含めて2本設定しています。
838臨時列車は、加世田20時55分始発、伊作21時15分着・18分発、薩摩湖21分着・22分発、永吉止まり併結日置行き。
840臨時列車は、伊作22時04分始発、薩摩湖07分着・07.5分発、伊集院行き。
下り列車は、伊集院21時02分発の437定期列車を永吉から“変437列車”に変更して本来のスジよりも3分遅らせ、薩摩湖35.5分着・36分発、伊作38分着・38.5分発として運転しています。これは永吉において838臨時列車が437定期列車と交換する際に、永吉止まりの併結車輌を加世田行き437定期列車に連結するために要した時間です。
加えてもう1本、日置21時44分発の加世田行き837臨時列車は838臨時列車の日置折り返し列車です。特筆すべきは吉利・永吉・吹上浜を客扱いせずに通過していることと、薩摩湖59分着・22時00分発、伊作に02分到着後、併結の1両を開放して、この1両が伊作22時04分発の折り返し単行840臨時列車となっていることです。つまり加世田〜永吉間の838臨時列車は3両編成で運用、永吉で1両を開放して2両編成で永吉〜日置・日置(837列車として)〜伊作間を折り返し運用、さらに伊作で併結の1両を開放して伊作〜加世田間を単行で運用していたと読み取れます。
臨時列車については、花火大会以外にも昭和41年には「武田神社夏祭り」、「枕崎市港祭り」、「夏季多客時(お盆期間7日程度)」、「徳重神社例祭」、「5月連休多客」など行事にあわせて多数設定されていました。
昭和30年前後のダイヤ資料が無く断言は出来ませんが、薩摩湖遊園地開園より盛況であった数年間は「バラ祭り」、「桜花見」、「つつじ祭り」などの薩摩湖遊園地の行事ごとに臨時列車(さつま湖臨)が多数設定されていた可能性があります。
昭和20年代の伊作駅の構内図には描かれていない有効長70mの留置線が、1956(昭和31)年5月日付の構内図には描かれており、薩摩湖遊園地開園に合わせて臨時列車の留置線を新設したものと推測できます。
1981(昭和56)年4月に撮影した麓駅と薩摩湖。 湖面を索条が渡っています。
夕日を浴びる薩摩湖。中央若干左に吊り橋が架かり、右山頂付近の送電線左下にロープウェイ山頂駅跡があります。
2011年1月撮影。
山頂駅を2014年1月、早朝に撮影。
ステージ側から見るとこんな感じです。
木陰の後方には人道橋が写っています。
1990年代に撮影
耐風索
2013/11/27より仮公開