津貫駅
干河駅を出発した汽車は・・・ の前に。
干河駅構内には、本線最大の設備がありました。
干河駅のページに戻って構内図画を見ていただければすぐに分かります。
枕崎本線においてコンクリート製の橋梁は県道に架かる大田橋梁が唯一かつ最長(1977年3月の道路拡張によってプレートガーターからコンクリート橋に架け替えています)でしたが、コンクリート製の函橋(暗渠)は伊集院〜加世田間に1箇所、加世田〜枕崎間に15箇所、合計16箇所造られていました。
加世田〜枕崎間に数が多いのは昭和になって敷設した区間故で、大正初期に敷設された伊集院〜加世田間では同種の交差は鋼工桁の開橋で施工されていました。
長さは大半が 1.2mもしくは1.8mでした。また、延長(暗渠の入り口からで出口までの長さ)は全16箇所のうち12箇所は駅間に造られており、伊集院〜加世田間の施工基面
は3,0955mm、加世田〜枕崎間が4,020mmだったので、3〜6m前後だったのではないかと推測されます。
4箇所は駅構内に造られていました。阿多駅構内の御新田用水路に架かる下原口函橋(長さ 1.83m)、金山駅構内の第2金山函橋(1.2m)、枕崎駅構内の中洲函橋(1.8m)、そして干河函橋です。いずれも2〜5線(本線・貨物線など)が跨っていました。
干河函橋は函橋としては全線最長の4.96mで、延長は16mほどありました。Tビームやプレートガーターで渡せば2基造らねばならず、暗渠方式を採ったようです。しかし、4.96mを1枚のコンクリートでカバーするには当時の工法では強度に不安があったのか、真ん中に梁を立てたようです。(実物は見ていません、手元の資料と伝聞によります)
1983年の加世田水害では川の真ん中に立つ梁に流出物が堆積して流れを滞らせ、上流の田畑に損害を与えるとともに道床流出を招き、その後に撤去されたコンクリート魂は長いこと干河駅構内に放置されていたとのことです。
写真は第5加世田川橋梁付近を走行するキハ102。
さて、干河駅を出発した汽車はホームから離れるとすぐさま干河川に架かるコンクリート暗渠を過ごし、12.5‰で水田の中をR=240で右カーブして加速していきます。右上からは国道270号線が寄ってきますが、林に遮られ並走はしません。R=240で左カーブして37km地点を過ぎれば、第3加世田川橋梁(37.093km径間12.2m)で左から寄る加世田川を越え、すぐさま第5号県道踏切(道幅5.5m)にて県道(国道)をクロス(※)し、そしてまたすぐに加世田川を第4加世田川橋梁(37.207km 径間12.2m)で越えなおします。その後は、3.3‰で切取部を過ごし、左手に水田、加世田川、国道270号線の順に眺めつつ、2‰ののんびりとした区間を走行していきます。津貫駅の手前で三度加世田川を第5加世田川橋梁(37.916km径間12.2m)で渡り、R=300で右カーブして津貫駅構内(干河駅との高低差11.01m)へと進入していきます。
(※)1972(昭和47)年に市之瀬橋(延長45m、幅員9.3m、鋼板橋)が架橋され、踏切は廃止されています。
第5加世田川橋梁を走行するキハ102。
上内山田駅構内外れに架かる第1加世田川橋梁は3連で29.94mもあったのですが、加世田川もずいぶん細く浅くなりました。
同じく加世田川に架かる石橋と丸型気動車102。
A・ B・C
ほぼ同位置で撮影しています。
真新しいコンクリート電柱と地覆にぶら下がる塩ビ製(?)パイプが無ければそれなりの雰囲気の写真になったのですが・・・。
もっとも現在はこの写真に写っている背後の山並み以外は、杉の木も、隅間に見える煙突も、すべてが(この場所から)消滅しています
津貫駅に進入する枕崎発伊集院行き102。
A・B・C・D
の写真はD→C→B→A
の順に撮影しています。
ホーム上には子供ひとりを加えて5人いますが、2名はカメラを構えています。
加世田市史(上)によれば乗降数は、昭和57年度(1982年)の1日平均の利用者数は乗車25人、降車30人、定期3.5人だったそうです。(通学)定期乗車数が多かった上加世田駅に次いで、加世田〜枕崎間では乗降数の多かった駅です。
手前の方はムービーで撮影しています。自分を含めて駅構内は乗車する旅客より鉄道ファンの方が多かったということになります。
右側は山が迫っているように見えますが、杉の木が1〜2列植林されているだけで、すぐに加世田川に落ち込み、その先は田んぼとなります。
本屋です。
パッと見て気づくこと。
@“差し掛け屋根”が真新しい。
A“袴腰屋根”で干河駅の屋根のように崩壊していない
B改札口がコンクリート製で2箇所通路を持っている
C本屋の前に側線が敷かれている
そして、
D魔女学校へ通学する生徒の最寄駅であった?
RM LIBRARY 108に、この写真と同じような角度で1970(昭和45)年8月15日に撮影された写真が掲載されています。
差し掛け屋根に梯子が掛けられ、2人が屋根に乗って修繕を行っています。
差し掛けのトタン屋根は穴を塞ぐように新しいトタンが継ぎはぎ模様に貼られ、全体にくたびれた感じです。廃止間際のこの写真のほうが側線は草生しているものの、本屋は整っているとの印象です。
右の写真は駅舎の内部です(ブレています)
ベンチは上加世田に置かれていたものと同形です。
J 本屋正面口から撮影しました。
正面が手荷物の取扱い窓口です。 左手が改札口(下の写真)、右手は乗車券売り場(出札窓口)となります。
「ボロボロのお化け屋敷のような」と感じるか、箒の抑止効果とも相まって(?)「塵ひとつ落ちていない気持ちの良い駅」と見るかは、“どれくらい南薩線への想いがあるのか”といった、単純なことではありませんが、私には他の無人駅舎から比べると打ち水もされて、最後まで大事にされていた駅だった、という想いは強く伝わってきます。
屋内に自転車も乗り入れていません。
流石にトイレは少しくたびれていたようです。
それでも、それなりの利用があった様子で、はっきりと道が通じています。
トイレを前面にして紹介するのも気が引けますが、背後の建物は本坊酒造株式会社津貫工場です。
田畑と山林が連続し、和民家が散在する沿線風景にあって、蒸留装置を覆う7階建ての建屋と大煙突は異彩を放っています。
鹿児島県は焼酎製造(※1)ならびに一人当たり消費量(※2)がともに日本で1位です。(逆に日本酒の一人当たり消費量は沖縄県と最下位を競っています 鹿児島の飲食店で「酒」と注文すると、ほぼ間違いなく焼酎が出てくるそうです あえて日本酒を注文する際は、「日本酒」もしくは「清酒」がルールだそうです)
県内には“海童”の濱田酒造、“薩摩一”の若松酒造、などの大手蔵元に加えて、南薩線沿線では県内トップの“さつま白波”の薩摩酒造(枕崎)、“さつま小鶴”の小正醸造(日置)、“萬世”の萬世酒造(薩摩万世)、“西海の薫”の原口酒造(南吹上浜)、“吹上”の吹上焼酎(薩摩万世)、“金峰”の宇都酒造(阿多)、“櫻井”の櫻井酒造(北多夫施)など特徴のある大小蔵元が競っています。
ナゼ、鹿児島県では日本酒ではなくて焼酎なのか?
鹿児島県は米の生産高が、他の県と比べてとくに少ないわけではありませんが、気候・風土が日本酒醸造に向いていません、反面鹿児島特有のシラス土壌は甘薯(さつまいも)栽培に適合しており一大産地です。
記録では1500年代前半の頃より、米や雑穀を原料とした焼酎が広く飲まれていたようです。1700年代前半には琉球から持ち込んだ甘薯が栽培されるようになり、新たな原料として利用されます。身近にふんだんにある材料から手前味噌的に芋焼酎が自家製造され、褻(ケ)の酒として愛飲されるようになります。
製品としての礎は1851年薩摩藩主、島津斉彬による、いも焼酎の品質改良と大量生産の奨励があげられます。長期保存できない一次産品たる甘薯を加工することにより、医療・軍事用アルコール原料として付加価値を加え、特産品としての基礎を築きます。
この頃には、民衆の必要嗜好品として自家製造の叶わない人向けに、どんな寂れた町にも必ず「焼酎屋」があったそうです。
しかし、徴税を目的として1899(明治32)年に自家用酒造が全面禁止されると、密造防止のために“ムラ”の共同(専業)製造場で自家消費分を分業(手工業)で製造せねばならなくなります。
日露戦争後の好況により生じた増産と過度な販売競争は、税務当局の強力な指導を招き、ムラの手工業的製造場は大規模に整理・集約が進み大型化する一方、急速にその全体数を減少させます。その結果、村の家々(消費者)は製造・販売に専念する業者から購入するという仕組みが定着していきます。
免許制の下で、第一次・二次大戦の混乱期を生産統制によって過当競争による消耗と衰退を回避するとともに、競争原理により買収・合併・淘汰による集約と、技術革新・設備の近代化が同時進行し、焼酎屋は企業に発展、地場産業としての焼酎製造・販売業が確立されていきます。
(※1) “2010年 焼酎メーカー売上高ランキング”
帝国データバンクより (近年の焼酎製造メーカー(焼酎販売を主な売上げとしている会社)の都道府県別社数および売上高合計金額)
(※2) “平成22年度成人1人当たりの酒類販売(消費)数量表(都道府県別)
国税庁
1980(昭和55)年3月に枕崎行きのディーゼルカーの車内から撮影した側線の様子。
貨物線は1968(昭和43)年4月に貨物の取扱いを廃止して以降、放置されていたのでしょう。たまたま草刈直後だったようで、貨物線在りし日の姿を髣髴とすることが出来ました。
丸い土管の先(写真右奥)にはターンテーブル(転車台)が駅開設時から設備されていました。ターンテーブルは機関車の向きを変えることを主目的としたのではなく、工場に至る専用線との接続のために設置されました。
“ここは焼酎の大●造●本坊氏の醸造所があるので同醸造所特設の貨車引込線もあり回轉仕掛の入れ替に操車台も●つた感じを興へる。機関車の給水タンクも豊富な水量が充たされて居る、” 鹿児島新聞 1931(昭和6)年3月10 “新線に沿ふて 加世田から枕崎迄の旅”より抜粋
“●”
については不鮮明により判読不能
線路の規格は1号・5号ポイントと写真手前の(ホームに半分隠れている)枕崎方面行き本線が30sレール、奥の貨物線も30sでしたが、2号・4号ポイントと3号ポイント(写真左)ならびに3号からターンテーブルに至る側線は22.5sレールが使用されていました。
背後は本坊酒造樺テ貫工場の正門です。
本坊酒造樺テ貫工場の開設は南薩線開通以前に遡ります。
創業は明治5年とされていますが、本格的に焼酎製造に着手したのは1909(明治42)年2月本坊松左衛門氏の長男、浅吉氏(当時24歳)を代表とする本坊兄弟商会が旧式焼酎製造免許の交付を受け、津貫の呉服・雑貨店の隣に製造所を建設してからとなります。当時の津貫地区には西・川崎・黒江3軒の焼酎屋があり、過当競争のなかでのスタートでした。
初年度は5,000L、翌年は54,000Lと年を追うごとに生産量を増やします。最初の銘柄は“笠沙の誉”と名付けられたそうです。
1918(大正7)年には、新式焼酎製造免許を取得するとともに、県内の製造所でも3ヶ所でしか設備していなかった連続式(イルゲス2塔式)蒸留機を導入します。
従来は単式蒸留法により蒸留を一度だけ行い、製品に原料の香り(悪く言えば臭気)が強く残る蒸留方法でしたが、29,500円で購入したドイツ製連続式蒸留機では蒸留を何度も繰り返すことにより、不純物を排除し(原料臭気の少ない)高濃度アルコール精製が可能となりました。この新蒸留法によって出来た銘柄が“寶星”(※)で、クセの少ない都会的な焼酎は順調に売上を伸ばしていきます。
新式蒸留機の搬入については、加世田から枕崎間が開業しておらず(津貫駅は1931(昭和6)年3月10日開業)、県道(1896(明治29)年、加世田〜枕崎間開通(現国道270号線))を利用して荷馬車により行われました。
“そのうちに、ちょっとした一軒家ぐらいはある設備一式が、鉄道に載せられて十キロ先の加世田駅に到着する。しかし、機械といえば小型の農業機械ぐらいしか搬入されたことがない田舎のことである。まず、機械設備を運ぶため、荷車を何台もつなぎ合わせて特製の大型荷馬車をこしらえた。次いで、機械の重さに耐えられるよう、運搬コースにある橋の補強が始まった。村中総出の受け入れ準備が整った中、数頭の馬に引かれた新式蒸留器が、山あいの道をゆっくり進む光景は、壮観であった” 私の履歴書 経済人26 本坊豊吉 日本経済新聞社より
(※) 当時は“星”という銘柄で販売され、商標の関係から後年“寶星”と変更されたようです。 1928(昭和3)年
天皇皇后両陛下へ2壷献上された銘柄は“星”と記録されています。
Nでホームに隠れていた本線を中心として。
旅客ホームの寸法は60,000×4,000×760と記録されていますが、先端部の幅は狭く1,800くらいしかないように見受けられます(写真Q)
終戦わずか18日前の1945(昭和20)年7月29日午後、米軍航空機により、軍用アルコールを製造していた津貫工場は空襲を受け、中二階の倉庫一棟だけを残して全焼。(同日の早朝には枕崎大空襲により市街の9割が焼失)
日にちは異なりますが日本澱粉工業鰍フ主要工場も空襲により焼失します。
戦後、損壊したグループ各社の工場再建は本坊兄弟7名が集い急ピッチで行われ、一部の工場ついては数年で戦前の生産能力を上回るまでに回復します。
1955(昭和30)年10月1日、本坊合名会社は子会社鹿児島酒造株式会社(1948(昭和23)年9月17日設立)と合併し、本坊酒造株式会社を設立。1959(昭和34)年には鹿児島支店ビルを新築落成。
以降、本坊グループ各社で南九州コカコーラボトリング社、南九州ファミリーマート社、本坊松栄社、クリーン・アクア・ビバレッジ社など有力企業を設立。膨大な関連会社を有する一大企業グループに発展します。
一方、津貫にあっては1947(昭和22)年に工場復旧再建落成、ギョウム型蒸留機を設置し生産を復活させます。
1956(昭和31)年には鉄筋7階建て蒸留棟が落成、スーパーアロスパス式蒸留機を設置。
しかし、1962(昭和37)年5月には登記上の本店が鹿児島市住吉町へ移され、会社組織となって以来34年間に亘って本店だった津貫は、津貫工場と呼称変更されます。
さらに、1974(昭和49)年には、(旧)鹿児島工場で日本発酵化成株式会社鹿屋工場から移設され稼動していたエキストラスーパーアロスパス蒸留機と、津貫工場のスーパーアロスパス式蒸留機を交換すると同時に、鹿児島工場が南栄3-27番地(2012年時点の本社)に移転・新設されます。
生産の主力は山あいの工場から次第に流通メリットのある後発の工場へと移っていきます。
2003(平成15)年、津貫工場内に「匠の技は貴し」とする焼酎造りへの情熱と志を伝える“津貫貴匠蔵”を完成。
津貫工場は最盛期だった1963(昭和38)年頃の250余名の従業員数から比べると寂しくなりましたが、本坊グループの創業地かつ最古工場として、石倉での原酒貯蔵など少量生産方式による「貴匠蔵」・「甕幻」・「黒麹仕立て桜島」など、付加価値のある銘柄を出荷し続けています。
枕崎方から伊集院に向けて撮影。
手前が5号ポイント 右の貨物線への分岐ポイントは4号ポイントです。記録では4号ポイントのレールは22.5sとなっています。
広い構内。
かつては焼酎製造工場に向けて原料の「甘薯」・「切干し甘薯」、空容器の「甕壷」、「燃料」などが木造貨車や黒貨車に積まれて到着し、製品が主に伊集院に向けて発送されていました。
燃料については戦前は石炭が利用され、工場のボイラーが1963(昭和38)年に設置されて以降は重油に代わったそうです。重油の荷姿についてはタンク車ではなく「小型タンクを(無蓋?有蓋?)貨車に積んで運んでいた」との情報もありますが、確かなことは分かりません。また、「焼酎かす」の貨車輸送はなかったそうです。
具体的にはどのような形式の貨車が構内を埋めていたのでしょう?
津貫駅開業当時に在籍していた社有貨車(有蓋20両・無蓋16両(表b、d)合計36両すべて積載重量10t車)のほかに、伊集院経由で省線から入線してくる鉄道省の貨車もありました。しかしながら、「昭和.5年4月1日施行
連帯線 貨物営業粁程表」(トワイライトゾーン・マニュアル14に収録)によれば、南薩鉄道の軌道負担力(9.37トン)は他の連帯線(鉄道省と連帯運送契約を結んでいる私鉄など各線)に比べて際立って脆弱(※)であり、「直通運転を為し得ざる貨車」として、“12トン積み以上の4輪および6輪車、26トン積み以上のボーギー車 但し12トン積み(除く2900形式冷蔵車)および 15トン積み貨車に限り下記の制限を付し直通差支えなし 12トン積み貨車に在りては積載重量を10トン以下に限定すること
15トン積み貨車に在りては葉莨(葉たばこ)、木炭、馬、繭または繭荷造用空籠積載の場合に限る”と定められ、一言でまとめれば“積載重量12トン以上となる貨車は原則入線不可”という厳しい制限を受けていました。
(※) 同資料を整理すると、南薩鉄道の軌道負担力9.37トンは連帯線177線区のうち170番目に位置し、また薩南中央鉄道は9.33トンで172番目でした。
因みに主な線区は、
関東では小湊14.20、西武(川越線)13.93、鹿島参宮13.29、流山13.29、東武13.00トン
関西では南海12.05、水間1145トン
九州では島原12.07、耶馬渓12.05、菊池電気11.84、鹿本11.45、熊延11.45トン
その他の地域では大井川13.63、北恵那11.45トンなどと記載されています。
その後軌道の改良が進み1945(昭和)20年では(表a)の如く伊集院〜加世田間では12.00トンに強化されています。
a表は南薩鉄道各区間ごとの「入線できない貨車」の整理表です。
例えば、活魚車については、
「伊集院〜加世田」では活魚車の入線に制限はありませんが、「加世田〜枕崎」では“ナ1”形式のみ入線不可(ナ10形式は入線可能)、万世線と知覧線では“ナ1とナ10”形式のいずれも入線不可となります。
加世田までであれば、“ワム”、“タム”、“トラ”までは無条件で入線できましたが、他の区間では条件が付され無条件で入線できるのは“ワ”、“ト”などc、e表の13t以下の小型車の一部に限定されました。写真f は他社線で活躍した貨車ですが、南薩鉄道内にも類似した小型貨車が鉄道省や国鉄から入線していたはずです。
逆にホーム上から枕崎に向けて撮影。
5号ポイントは1961(昭和36)年5月23日に撤去された上内山田駅1号ポイントの転用です。
輸送人員と貨物量、車輌の種類について整理(表b)してみました。太線濃い枠内が枕崎開通以降です。
枕崎延長に際して蒸気機関車1両(5号機関車)とガソリンカー2両(キハ2、3)を新製し、輸送人員は開通前の635千人から開通後は824千人(前後とも3ヵ年平均)と23%余り増加しています。一方、輸送貨物量は57.5千トンから50.0千トン(同3ヵ年平均)と15.0%余り減少しています。
線路を延長して、大株主の焼酎製造工場に専用線まで設けてナゼ貨物輸送量が減少しているのか不思議ですが、当時 “大学は出たけれど” の「昭和恐慌」真っ只中で、経済が大変な混乱していたことの影響と思われます。
延長当時、津貫駅からの運賃は干河(津貫から1.64km)4銭・上津貫(2.31km)6銭、金山(6.26km)16銭、加世田(9.06km)33銭、、鹿籠(9.61km)24銭、枕崎(11.54km)29銭、伊作(19.87km)50銭、伊集院(38.02km)95銭でした(資料 :
津貫の歴史 津貫校区公民館連絡協議会)
当時の職人の手間賃は概ね大工1円80銭・工員1円90銭・石工2円、食品では盛そば10銭程度、山手線の初乗りが5銭だったそうで、津貫〜伊集院の往復運賃が職人1日の労働対価に相当したこととなります。
自転車も高嶺の花、鉄道以外の交通手段も限定されていたなかで、津貫〜伊集院間 片道38.02kmを休みなしで8時間歩き通すか、日当の半日分を費やして2時間汽車に乗車するか、あなたならどちらを選択しますか? 鉄道会社はうまい具合に運賃を定めていたなと感心します。
貨物の運賃までは調べきれていませんが、伊集院や鹿児島方面へ馬車を仕立てて甕壷を満載し運送した場合の荷馬車運賃と、10t積み貨車満載の鉄道貨物運賃とでは、単位量当たり・運送時間当たりに占める人件費コスト割合は数量メリットを享受できる鉄道貨物が優位であることは明白であり、燃料費(秣)や償却費などのコストを加味しても鉄道輸送の優位性は揺るがないでしょう。焼酎工場の経営者がコスト面のみならず、天候にも左右されず時間通りに大量かつ高速輸送ができる鉄道貨物を利用しない理由は思い浮かびません。
よって、津貫駅発着の貨物は(当初予定より)少なかったものの存在し、不況により原木や木工(半)製品などの重量物の輸送が振るわず、総量では貨物輸送量を押し下げてしまった、ということだと思います。
津貫駅は、焼酎の駅として知られ、昭和27年当時は、毎月15トン積み貨車が90両も発着し、特に3月、4月、10月、11月、12月、の出荷最盛期には、約月200両の貨車が発着していた。
(加世田市史(上巻) 第9編 交通・通信 第2章 鉄道・バス 加世田市史編さん委員会)
干河駅は関係住民の反対にもかかわらず、昭和28年6月15日から駅員無配置駅になってしまった。一方津貫駅は利用度が高く、・・(略)・・。また、郵便貨物もあり、これは加世田より午前10時頃、津貫から午後2時頃収配(※)していた。(※) 集配?
ところで、津貫駅は南薩鉄道にとって貴重な収入源であった。というのも本坊酒造の工場に貨物の引き込み線を有していたからである。 (略)。 運行状況は1月(※)2回(午前1便、午後1便)運転され・・(略)。(※) 1日?
(津貫の歴史 津貫校区公民館連絡協議会)
昭和20年代後半には1日2回の貨物列車が運転され、平時でも毎日3〜4両の貨車が車扱いされ、繁忙期には8両前後の貨車が津貫を発着駅としていた、と読めます。
そして最後に転車台(ターンテーブル)
訪問当時、加世田にも残っていなかったターンテーブルを見つけて興奮しましたが、径があまりにも小さく蒸気機関車用とは思えず(※)、車庫もない山間駅での存在は疑問符だらけでした。
(※)訪問時はイメージ先行で、蒸気機関車は載れないと思い込んでいたましたが、先日実測したところ内径は4,8mあり、C12は無理としても、1〜11号機までは物理的に余裕を持って載ることが判明しました。ただし、バランスト型転車台とはいえ転車台車輪軸取付部構造の簡易さから20数トンもの機関車を載せることは、その必要も含めてなかったことでしょう。
存在理由としては焼酎製造工場の正門に位置していたので、工場引込み線貨車の方向転換用かとも思いましたが、若干急カーブで敷設すれば本線との接続は叶ったはずで、わざわざ手間をかけて1両づつ引き込む理由が不明でした。また工場へ向うレールの痕跡も見つけることができなかったことから、確証できないままでした。
しかし帰京後、引込み線が国道を渡っていたときの踏切をイメージしていたところ、納得できる理由が閃きました。
即ち、県道(国道270号)と引込み線とは、法規で定める充分な交差角を確保できなかった。(想像です)
写真は阿多駅の加世田方に位置していた1号踏切です。
踏板を狭くして車両の徐行を促すとともに、軌道との交差角を得るために、あえて道路をS字カーブさせているようにも見れます。(記録上の幅員は2.7m、長さは5.0m、交角は40度でした)
現行の法規では「やむをえない場合」を除いて、原則 「鉄道と道路との交差角を四十五度未満としないこと」、とあります。昭和初期の引込み線敷設時の法規について詳しくありませんが、町間を結ぶ主要道路(県道(設置当時))との交差は生活道路に比べて、より厳格な対応が求められたに違いありません。(しつこいですが想像です)
★ 転車台の基礎構造は壁面・底面ともにコンクリート造りでした。
★
内径は4.8mなので当然の如くC12タイプの蒸気機関車が載れる大きさではありません。
★ 桁はリベット打ちです。製造会社は加世田〜枕崎間すべての鋼製橋梁を大阪汽車製造鰍ェ引き受けていたことより、同社製造の可能性が大きいです。
★
レールとの接合は枕木を介さず直接六角ボルトで固定しています。これによりピットを浅くすることができました。
★ 中央支承(b)は基礎と6本ボルトで固定されているようですが、所謂“半球6本ボルト”とは非なるものです。
★ 鎖錠装置は桁上に取り付けの痕跡がありません。レールに専用継目板を都度当てて対処した可能性はありますが、側線・専用線側のレール側面に鉄棒を可動できる装具を設備するとともに、転車台側のレール側面にも鉄棒を収納するボックスを設け(a)、側線・専用線側から伸ばした鉄棒を嵌め込んでロックすることにより、テーブルを固定する方式だったかもしれません。
★ 下部には側壁に沿って円形レールが敷かれ、桁に取り付けられた車輪(c)が載りますが、バランスト型転車台であるため運転時(回転時)に桁橋の車輪には大きな力は加わりません。
★
転車動力はモーターによらず、人力です。大型の転車台には転車作業を安全かつ最小労力で転車作業できるように鉄棒が装備されていましたが、この転車台は小型であったため貨車を直接手押して転車させていたようです。
訪問当時 センターは既にダメ(b)になっていて、桁の上に乗って体重を傾けると桁が大きく傾きました。(写真右奥のガイド車輪と円形レールはずいぶん離れています(c))
それでも周回させることは可能でした。
建造は南薩鉄道がおこなったものの、メンテナンスは駅構内にありながら、大荷主かつ大株主であった本坊合名会社(1948年本坊酒造株式会社に名称変更)が行っていたそうです。
運用についても、貨物側線に貨車を止めるところまでが鉄道会社、そこから貨車を切り離して人力移動し、転車台に載せて方向転換をおこない工場内へ引き込み、また構内へもどす作業は酒造会社の管轄だったそうです。
工場内の引込み線について、本坊酒造株式会社様より
☆ 敷設時期 昭和6年社内引込線が出来、工場内から貨車発着が可能となった、との記録がある
☆ 構内配線 (戦前は不明だが戦後は)一直線の棒線で分岐(ポイント装置)はなかった
☆ 積卸施設 工場内に貨物ホームの設備はなかった
☆ 簡易軌道 工場内でトロッコ軌道の利用はなかった
☆ 廃止時期 稼動終了時期については「昭和44年4月にはなかったとのことで、(津貫駅貨物取扱い廃止の)昭和43年4月までではないか」
と、ご教授いただいております。
貨車で賑わっていた頃の津貫駅の写真を方々で探しましたが著作権保護期間、消滅を問わず唯一見つけることが出来たのが、昭和15年5月15日発行 鹿児島懸酒造組合聯合會 「創立三十周年記念 薩摩焼酎の回顧」 にあった、この口絵です。
大煙突が稼動し、工場内の方々からは蒸気が上がり盛況の様子です。 「本坊合名會社 鹿児島懸加世田町」との説明が付されていました。
このページの追加参考資料
私の履歴書
経済人26 本坊豊吉 日本経済新聞社
創業百十五年 本坊蔵吉 喜寿記念
創立三十周年記念
薩摩焼酎の回顧 鹿児島懸酒造組合聯合會
しょうちゅう業界の未来戦略 アジアの中の本格焼酎 野間 重光, 中野
元
津貫の歴史 津貫校区公民館連絡協議会
加世田市史 上巻 加世田市史編さん委員会
ふるさとの思い出 写真集 明治 大正 昭和
加世田 国書刊行会
ほか
2012/05/01 仮公開
2013/01/21 完結