(日置〜吉利)
「このカーブを曲がると次はどんな光景が飛び込んでくるのだろう」
初めて乗る線路は歳をかさね、感受性が鈍くなってきた今でさえも、結構
「ワクワク」しますが、さらに前面展望が叶うと
「どきどき」、「ぞくぞく」が乗じ、一般的にワクワク度は当初の4倍程に増幅されます。(たぶん)
二十歳前後の青年がほんの一握りの情報しか持てないまま、とにかく乗りたい一心でようやく実現した、遥か南国の非電化ローカル私鉄のかぶりつき前面展望。
鉄橋、トンネル、給水塔、腕木式信号機、交換駅そしてまた給水塔と息もつかせぬ展開で、ワクワク度はすでに初期値の?倍くらい。
興奮状態で、「バシャバシャ」
シャッターを切りました。
以下3枚、キハ300型車内から1980(昭和55)年3月撮影。
日置駅より1,9qほど進行した吉利中区のあたりと思われます。
ガードレールにもチョック(木製のレール押さえ)が設置されています。
日置駅より2.1qほどの地点。前方の橋梁は国道270号線と思われます。
橋梁をくぐり、右にカーブしたところが吉利駅となります。
くぉ〜〜っ
この瞬間、
「絶対にもう一回来る」、「何が何でも来る」
「次回きた時は納得いくまで接っする」
カーブに沿って作られた石造りの低いホーム。
ホームの始まりは土に没して定かではない。
ホーム上は全面グリーンカーペット。
チョックが取り付けられた線路とホームの間もグリーン
斜めに傾いだ真っ白な駅名票。
ホームに近接する貫禄ある純和風本屋。
ホーム上の相当部分を占拠する常緑低木樹たち。
「こんな素敵な駅、見たことない!」
片やキハ300型はご覧の通り、乗降口がキハ100型のステップの位置あたりまで下がっていたので100型のような外に向けて飛び出す踏み板を装備する必要はありませんでした。(キハ100型の車内の床面はフラットでしたが、300型は車内で段差を設けることにより乗降口とホームとの高低差の解決を図りました)
「合成着色料をふんだんに塗し込んだ青筋の入ったタラコ」もしくは、洗顔して眉毛が失せた「オバサン」顔に見える300型。
1954(昭和29)年新製時はコバルト色で塗りわけられていたとのことですが(窓のあたりがクリーム?、ボディーと屋根付近がコバルト色?、カラー写真でみたことがないので不明です)1965(昭和40)年前後に写真のような塗りわけに変更されたようです。
貨車は有蓋車(写真のように屋根のついているもの)74両、無蓋車39両の合計113両が在籍していたそうです。
積荷についてはNHKの番組の中で佃
辰男
鹿児島交通鉄道部長が「戦時中から戦後25〜26年頃まで鉄道による活発な物資輸送がされていた、加世田には森林資源を利用した大きな製材所があって木材輸送を、また沿線には数万頭の牛と馬が飼われており関東・関西方面へ、枕崎からはかつお節加工して出荷していた」(要約)とおっしゃっています。
また、炭鉱の坑道に使用する黒松材、ブタ、まぐろ(午前の特急に連結して大都市へ)のほかに、沿線に工場がある焼酎なども輸送していたものと思われます。
かつて行き来した本線を見守りながら、台車をはずされ倉庫として余生を送る木製有蓋貨車。
本線に乗っていたときには南薩線から何を積んで行き、何を持って帰ってきたのでしょうか、何回くらい伊集院駅を通過していったのでしょう。
進入してくる西鹿児島行き。
かつて右手には交換のための線路が敷かれ、左手には貨物側線が存在し、キハ303の少し奥あたりの踏切前後で本線と合流していたようです。
写真に写っている方は、車で追いかけながら撮影されていたときに、私が枕崎から歩いて撮影しているところを何度かみるにつけ、加世田で車への同乗を勧めてくださいました。
全駅撮影している旨と伊作・永吉・吉利駅がまだ残っていることを伝えると、「その3駅で一緒に撮りましょう」と誘っていただき、半日行動を供にしていただきました。
よって、この区間は車輛の写っている写真が比較的多くあります。
2007/04/07 公開
2012/05/14 文章一部修正 写真一部高画質に差替え