No.001 

鹿児島交通(南薩鉄道)薩摩湖駅のページに関連して
  鹿児島の夢幻鉄道様より貴重な写真を頂戴しました。
   


鹿児島交通(南薩鉄道) 薩摩湖駅 より



 


 夢幻鉄道さんより頂戴した薩摩湖ロープウェイの麓駅(吹上遊園駅)です。1984(昭和59)年3月13日に撮影されたとのことで、これは鉄道廃止4日前にあたります。「なぜ肝心の南薩線本体を撮らずあの廃墟を写したのか未だに解らない」そうですが、鉄道に圧倒されてしまって目立たなかった廃ロープウェイ駅の大変貴重な記録です。

 一見すると頂上駅(つつじが丘駅)のように見えてしまいます。

「地図を見たら、そこは薩摩湖ロープウエイがかつて線路をまたいでいたところだった。スノウ、でなくてロープウエイ・シェッド。その下まで行くと、左手の小高い砂丘の上に、ロープウエイの駅の、これも廃墟が見上げられた。 ソラちゃんはさっそく草をかき分けて登ってゆく。私も続く。時刻表は剥げ落ち、雨戸も黒褐色に朽ちて、運賃表だけが辛うじて残っている出札口が、押しだまって二人を迎えた。 ・・(略)・・ 荒れ果てたホームの両側に、「あやめ」「つつじ」の二台の小型搬器が、ガタガタになりながらそれでもかつての塗色を鮮かに残して、放置されていた。」
(堀 淳一氏 「消えた鉄道を歩く」 講談社文庫)

 撮影位置背後にある防護柵の高さとロープウェイ駅との距離を考えると、麓駅は線路より相当高所に建設せねばならないこと、また2台の搬器が残されていることからも、麓の吹上遊園駅に間違いありません。

 両駅の正確な標高については手元に資料が無く不明ですが、鉄道の薩摩湖駅の高さが約33mだったこと、軌道上に設置された防護柵の高さと写真から推測すると麓駅は約45m前後と思われます。また、頂上駅は2万5千分の1地形図より65m前後と思われ、両駅の高低差は20mくらいであったと想像されます。
 延長0.5km強で20mの高低差ということは40‰以下ということになり、南薩線の最大勾配25‰(碓氷峠は66.7‰)と比べても索道としては真に緩やかなもので、“湖を跨ぎ”、“九州初” とはいいながら搬器の大きさをもっても、小規模な存在であったことが伺えます。
 「12万本のツツジを植えて ・・(略)・・ シーズンには一日5,000人から10,000人もの人出になった」(鉄道ジャーナルNo.194) 賑わった時代もあったようですが、物珍しさも一度乗れば充分で、透明性のない湖沼を中心に据えた公園内の遊具的な索道は、レジャーの多様化もあって10年ほどで営業中止となりました。

   No.002 

鹿児島交通(南薩鉄道)伊作駅のページに関連して
  東京都の井原様より貴重な資料を頂戴しました。
   


鹿児島交通(南薩鉄道) 伊作駅 より








 伊作駅の貨物駅(貨物側線)について、駅舎の伊集院寄りのスペースに存在していた可能性を記載していましたが、埼玉県の中島様から貨物の情報を頂戴するとともに、東京都の井原様の資料より貨物側線(約60m)と貨物ホームの存在を確認することが出来ました。

 中島様からは、「私の小さい頃は炭鉱の坑道の補強に使われる直径約10cmの松の木が時々運び出されておりました」、また井原様からは、「直接行き止まり型の引込み線の手前部分は線路脇スペースに砂利、鉱物、大きな材木などを積み上げ、無蓋車へ積み込みがおこなわれていました。 奥は雨に濡れてはならない物品の保管用倉庫があり、一間(1.82m)位の幅の小ホームを備え、長さは貨車三輌位が入がるほどでした」との情報を頂戴しました。
 
 取扱い数量など仔細については手元に資料がなく不明ですが、1919(大正8)年の永吉駅の貨物は材木・木炭・鶏卵・生糸など1,153トンが発送され、陶磁器・石炭・砂糖・肥料など425トンが到着(※1)していたとの記録があります。伊作駅でも永吉駅と同品目の貨物に加えて炭鉱坑道の補強材、伊作紙などの取り扱いがあったはずです。また、数量については伊作街道と伊集院街道に面する村々の(※2)貨物も取り扱ったと思われ、 さらに1924(大正13)年までは助代鉱山から産出される鉱石を日本鉱業佐賀関精錬所まで発送しており、社線内でも貨物取扱量は上位であったと推察出来ます。

 鹿児島市内から薩摩半島の東シナ海に面した村々へは、鹿児島湾を左手にみて進み、谷山からは山中に入って伊作峠を越えて下りきり、田圃が開けるあたりに位置した伊作より右に進めば(伊集院街道)日置へ、左に進めば(伊作街道)加世田・小松原・唐人原へ行くことができました。
 伊作は、人馬による往来の時代より交通の要所として、東本町地区に早くからお仮屋(役所)を中心にした野町と呼ばれる商工業者が居を構えた大きな集落でした。1891(明治24)年に旧街道が県道として改良・開削・整備されると、鹿児島との乗合馬車の定期運行によりヒトの流れは活発化し、荷馬車による物流は周辺集落へ拡大します。流通の整備拡大により近在では養蚕・製紙・葉タバコなどの生産も増大し、物流の拠点として伊作はますます賑わいます。1914(大正3)年4月に南薩鉄道伊作駅が当時水田地帯であった西本町地区(現)の端に開設されると、商工業者が次々と店舗を建設し、役場も東本町地区から移り、東本町地区をしのぐ大きな商工街として成長していきます。さらに銀行3行の支店や公的機関も次々と設けられ、西本町地区を中心にした東本町地区に続く大きな商工街が形成され、加世田に次ぐ政治・商業・物流の拠点として発展します。
 町の活況を受けて、戦後の鉄道貨物は肥料・ビール・乾物等保存食品・セメント・建築資材などの到着が多くあったかもしれません。貨物の取扱いが廃止となったのは1968(昭和43)年4月1日で、同日に日置・阿多・津貫の各駅の取り扱いも廃止され、貨物取扱いは枕崎と加世田の2駅のみとなりました。両駅についても3年後の1971(昭和46)年4月3日に廃止され、これをもって鉄道貨物は全廃されました。


 画像として添付した「昭和20年代前後 伊作町西本町地域・住居図」と「伊作駅略地図」については井原様のご好意により掲載させていただくことができました。井原様は国士舘大学文学部教授であられたときに、近代小学校の成立過程を研究され「郷学・小学校の設立基盤と地域社会」などの著作をおもちの、郷土史にも精通されている先生です。
 「昭和20年代前後 伊作町西本町地域・住居図」は学術的目的で製作された資料のうちの1枚です。本来の目的から外れた「趣味・遊び」での利用は憚られるのですが、昭和のローカル鉄道の駅前商店街を製作・レイアウトするとき、写真集などからピンポイントで参考資料は得られても、一目で町全体をイメージできる商店配置図を見つけることは意外と難しいものです。
 地方町の駅前商店街、とりわけスーパーマーケットやコンビニエンスができる以前の商店配置は当時の生活の一端、また南薩線を捉えるうえでもとても貴重な資料です。


(※1) 吹上郷土誌(通史編三 現代民俗) 「永吉駅の利用者(「前郷土史」現代編)」より 
(※2) 伊作駅の両隣、吹上浜駅(※3)と入来駅(※4)には貨物専用ホームがありません(※5)でした
(※3) 伊作駅の伊集院寄りの隣駅は薩摩湖駅ですが、1955(昭和30)年に新設された鹿児島交通最後の新駅であり、開設当初より貨物の取扱いはありませんでした
(※4) 伊作駅の加世田寄りの隣駅は南吹上浜駅ですが「入来」として新設され、1925(大正14)年7月「入来ノ浜」に改称、1928(昭和3)年6月に再改称され「南吹上浜」となっています。
(※5) 昭和5年4月の「連帯線 貨物営業粁程表」(トワイライトゾーン MANUAL14 巻末資料編)より推測


追加参考資料
 吹上郷土誌(通史編三 現代民俗)
 吹上町郷土誌(現代編)
 わたしたちの吹上町 -社会と自然-




皆様へのお願い

南薩線に限らず、
「五日市支線、筑波鉄道、蒲原鉄道、三峰口のホッパー」
などの情報をお寄せください。

ありきたりなスナップ、と思われている1枚から新発見があるかもしれません。

 

 写真は筑波鉄道真壁駅の構内を比較しています。
 ホームの土盛を保持している木杭と板の廃れ具合いからも、相当以前よりホームと線路とは接していなかったことが伺えます。
 しかしながら鉄道廃止後にサイクリングロードのターミナルとして整備されると、石造りのホーム側壁が忽然と現れます。
 大昔の側壁が発掘されたのか、整備にあわせて新造されたのか、興味のあるところですが、いずれにせよ鉄道末期に3番線ホームは存在していなかったことが分かります。

もう一例

自分自身、何を撮りたかったのかさっぱり分からない1枚


しかし、貨車からアプローチしていくと貴重な1枚です。

 

皆様よりご提供された写真や資料についてのお約束 red50kei

 @合意なき一方的な公開はありません。
 A公開の合意に至った場合でも事前に公開原稿をご提示し、了解を頂戴したうえで公開いたします。
 Bご提供の写真や資料は著作物として認識し、関連法規を遵守いたします。
 Cご提供の写真や資料の著作権についてはご提供者様に帰属していることを承知しております。
 Dご提供の写真や資料はこのページ以外で使用いたしません。
 Eあらたに複製等を希望する場合は都度ご提供者様の許可を頂戴したうえで行ないます。
 F外部より
red50kei を介して利用の申し込みがあった場合には確実にその旨、提供者様にご連絡いたします。
  

資料情報については
red50kei@gmail.com
(←コピー貼り付けで)宛てにお願いします。
 

NO.1 2010/11/21 公開
NO.2
 2011/02/16 公開