秩父鉄道 三峰口駅


秩父鉄道がローカル私鉄とは思いませんが影森から先、三峰口までの区間は列車本数も少なく、のんびりした雰囲気があります。


左から6000系「元 西武101系」、1000系「元 国鉄101系」、同1000系(1005編成)、5000系「元 都営三田線6000系」、西武鉄道4000系(乗り入れ車輌)



早朝の三峰口駅構内。 1000系「中央快速色(先代 1011編成)と秩父色」



島式2・3番線ホームの先端部より熊谷方向                  1番線の先端部より同方向を撮影     



    島式ホームから振り向いて撮影                        背後に山が迫る  7000系「元 東急電鉄8500系」     



1番線ホームの木製上屋全景  中央は臨時改札口、通常は本屋の改札が使われる



ホーム連絡通路から撮影。 京浜東北、スカイブルー101系             架線柱のビームはワイヤーを張って補強しています



連絡通路から反対側を撮影。“転轍てこ” を操作すると左写真のポイントが切り替わるのと同時に、
渡り線の先のポイントまで延びる鉄パイプの動作で、遠隔切り替えができる仕組みとなっています。



バックライト方式のスッキリとした駅名標、ホーロー引きと レトロな案内板、スチール製の駅名標も健在
吊り下げ・張り出し・張り付け・埋め込み、様々な設置方法



1番線ホームにかかる、大型木製上屋



冷房非搭載、7連グローブ型ベンチレーター。 国鉄101系中間車輌との取り合わせ



最大5列で旅客を捌くことが可能な臨時改札口



三峰口駅正面  本屋右横にはホーム上屋とは別に、道路に面してもう一棟上屋が設置されている



本屋内部  本屋前の“西武観光バス”


秩父鉄道車両公園の展示車両サイドビュー



秩父鉄道の終端部 三峰口駅の先


連絡通路から終端部方向を撮影                              踏切から構内に向けて撮影           
                                          右端の留置線ホーム(現 駐車場)には貨物用の巨大な上屋がありました



構内の線路がすべて収束されるあたりに鉄道公園へと続く踏切がある         雰囲気良好 構内を移動する車輌が行きつ戻りつする             





踏切よりさらに奥に向けて撮影  発着線と留置線、相互間の“引上線”として使われている



引上線から構内に向けて撮影



1982(昭和57)年頃。 秩父鉄道500系と国鉄115系。

 115系は遠足など貸切電車の可能性もありますが、季節列車の「みつみね号」と思われます。みつみね1号は休日の10時前後(※1)に、3号は休日(※2)の19時前後に上野を発車、高崎or前橋or深谷or新前橋ゆきなどの定期列車に併結され、熊谷駅で解結、4〜7両編成で80〜90分を要して三峰口を目指します。3号は三峰口駅で一晩明かし、翌朝8時30分前後に2号として上野に向け、1号は4号となって16時前後に折り返します。
 このほかに、東武鉄道池袋駅から寄居駅で乗り入れる三峰口行き「みつみね」、上長瀞行き「ながとろ」の休日直通列車がありました。
 また、1972(昭和47)年では上野発の定期急行「あかぎ・ゆけむり」に季節列車「ちちぶ」として国鉄急行用車両による三峰口への乗り入れ、1973(昭和48)年頃には「八高秩父号」としてキハ35系などの気動車での乗り入れもありました。

※1 時刻については訪問年月を特定できないため、1980〜1983年の時刻ならびに行き先を記載してています
※2 
“三峰”即ち、「雲取山・白岩山・妙法ヶ岳」の三山や両神山などへの登山客もイメージして運行されていました。因みに上野〜三峰口間の土曜日の夜行は1956(昭和31)年4月21日より運行され、当初「くもとり」の愛称がつけられており、1972(昭和47)年7月の時刻表でも同愛称は存在しています。



振り返って。 コンクリートの立方体は初代白川橋(吊橋)のアンカー。 アンカーの川寄りには7本の主索切断跡が残る。
アンカー奥には秩父木材三峯工場の建物があった。 さらに引上線を進む。



朽ちた枕木の車止めが見えてきた     「3」⇒3両編成停止位置?、「停」⇒一旦停車?、「西」⇒西武乗入れ車??



秩父鉄道の終端部                                            反対方向
三峰口から先、大滝村大滝(現 秩父市大滝)までの9.7kmの区間の鉄道開設免許を1927(昭和2)年12月に取得。
しかし、工事することなく免許失効しています。



だから、車止めから先、線路は無い。  はず・・・。   !!! 続いている!



沢の流れをプレートガーターで越え、白川橋にわざわざ暗渠を造って橋を潜り、線路は暗渠出口の全面を覆う黒緑の森の中へと吸い込まれてゆく





 30年前の姿!

雨に煙る巨大な木造構造物
暗渠の先、右奥の低木は30年を経て、暗渠出口を埋め尽くすまで生長した。



白川橋上から両サイドを俯瞰する。
 (左) 三峰口方。 引上線の車止めからアンダークロスまで。 現在の架線は車止めの先で終わっているが、かつては線路ともども白川橋を潜っていた。
 (右) 大滝方。   徹底的に藪。 目を凝らすと線路はまだ続いている。 ⇒ページ最後の「おまけ」ご参照。





 暗渠の先にあったもの。

 日窒鉱業株式会社、三峰口貯鉱場。


 群馬との県境方向に直線で約16km、両神山の西に位置する日窒鉱山株式会社(現 株式会社ニッチツ)で産出された鉱石を貯蔵し、貨車に積み替えるための施設でした。

 日窒鉱山は中津川をさかのぼり、支流の神流川が名前を変えて小倉沢と呼ばれるあたりの山奥にあります。埼玉県下唯一の金属鉱山でした。
 その歴史は、甲斐武田勢による金鉱の発見・開発に遡り、経営母体を変えながら、1940(昭和15)年より本格的操業を開始。鉄鉱石を中心として亜鉛・鉛などのほか、1972(昭和47)年度では
 鉄鉱    307,000トン
 銅鉱    189,800トン
 磁硫鉄鉱  7,300トン
 硅砂     43,400トン
 石灰石   33,600トン
 などの産出量がありました。(産出量:埼玉大百科事典(埼玉新聞社)より)

 しかし、価格面で外国産に太刀打ちできなかったこと、鉄鋼業界の不振、また精錬時の公害問題などもあり、1973(昭和48)年9月に鉄鉱石の採掘を中止。1975(昭和50)年には非鉄金属の生産に転換し、現在(2010年6月)は結晶質石灰石(大理石)の採掘に専念しています。


 さて当時は如何にして、山奥の採掘場からここまで鉱石を運んでいたのか?

 「奥秩父」と聞くと、入川・滝川・中津川・大洞川などの軌道がすぐに思い浮かびます。
 さらに日窒といえば広河原沢軌道。

 貯鉱場の裏手にはヘロヘロ軌道が草に埋もれ、さらに山奥を目指して・・・・・。

 夢のある話ですが、鉱山では1937(昭和12)年に「鉱山−両神山八丁峠(八町峠)の南尾根−坂本の南西−納宮」までの約9.2kmの区間を、さらに1946(昭和21)年に「納宮−神明地(加明地)の北−大平・須川−間庭−古池−町分−三峰口」までの約13.0km区間を索道(鉱石運搬用ロープウェイ)開通させています。
 つまり、主に鉄鉱石のほか、珪砂、マンガン鉱などをバケット(ゴンドラ)に積み込み、鉱山から延々22.17kmを空中輸送して、この貯鉱場で貨車へと積み替えていたのです。

 因みに、先述の軌道は三峰口に向けて延びていたのではなく、秩父鉄道が影森止まりだった1919(大正8)年に三峰口から直線距離で1.3km先の強石から発電所関連建設工事のために奥に向けて建設が進んでゆきました。
 一方、1922(大正11)年からは、さらに奥に位置する川又を起点として県境方向に入川・滝川森林軌道が敷設されてゆきます。別々に拡大していった両軌道は1932(昭和7)年に栃本下〜川又の間の敷設で接続し、長大な路線となります。もっとも、木曾森林鉄道のように立派な機関車が多数の運材台車を連ねてといった大々的なものではく、最盛期でも動力車は数両程度で、奥地では自重で下ったり、また馬が牽くような規模の軌道のようでした。
 その後、道路整備とダム湖の完成で軌道は県境に向けて路線を縮小。1973(昭和48)年の滝川森林軌道廃止で終焉します。(その後入川軌道は発電所改修工事の資材運搬のため、半年ほどの期間復活)
 つまるところ、建設当時より道路が開通していた三峰口に、軌道は敷かれていなかったわけです。
 また、鉱山周辺の軌道は独立して存在しており、集落までは下りていませんでした。



 蛇足ですが、鉱山の索道は三峰口(納宮)に向けた架設が最初ではなく、その18年も前の1919(大正8)年に鉱山から小鹿野と吉田を経由して秩父鉄道の皆野駅まで下る全長34kmの「東洋一の大索道」が架設されていたことはご存知でしょうか?
 この索道は規模が大きいにも拘らず、私が調べた限りでは秩父鉄道関連の資料にも国土地理院の地形図にも載っていません。

 何故なのか?

 1914(大正3)年、第1次世界大戦により鉱石の価格が高騰。これを受け1918(大正7)年に測量を実施。 翌年には百馬力の大型発動機を据え置き、鉱山から何基もの木製やぐら(高いものは75尺(0.303m×75 = 約25m ))を並べ、すでに開業していた皆野駅まで索道を完成させます。
 しかし、稼動してみると動力関連の不具合やメンテナンスによる不稼動などトラブルの連続で1年半で運転休止。大戦終結後の鉄鉱の暴落も重なり、そのまま立ち腐れて昭和のはじめまで残骸を晒していた、とのことです。

 地図に載る間もなく、廃線になってしまった幻の索道だったのです。


 2010/10/25の公開時より、 「皆野駅までの索道のルート(・・・・・)は想像で引いています。大平・須川地区を通っていたのかも不明です。 吉田町史では「上の原、暮坪、取方、小暮」地区などを通っていた、との記載はあります。」として想像地図を添付していましたが、「日本近代の架空索道 斉藤達男著」に仔細な第一次秩父索道線路図の掲載があり、2013/09/23に地図画像を差し替えました。

 あらためて、「日本近代の架空索道」によれば、1919(大正8)年完成の第一次索道は、尾根越えの高低差に加えて線路長も長大であったため 5区間に分割した線路の両端に50HPのガス発動機を設置し、区間を双方向から駆動するという特異な設計によって、125s積みのバケット(搬器)にて1時間当たり5〜6tの鉱石を秩父鉄道皆野駅の南位置(皆野駅より和銅黒谷駅に向けた最初のカーブ(R=600)辺りの外側)まで輸送していたそうです。
 開通時点で鉄鉱価格の暴落により採算が悪化していた索道は、奥秩父で切り出した原木を2台の搬器に積み荒川を利用して東京へと水運する木材搬出にも利用されたようですが、長くは続かなかったようです。
 一方、第二次索道(三峰口)については第一次施設を更新利用せず、時間当たりでは第一次索道に比べて5〜6倍の運搬量に相当する333s積み、時間当たり30tの規模で鉄骨支柱にて建設されました。


 話が逸れてしまいました。

 索道により鉱山(標高 約900m)から八丁峠(1,499m)南尾根を越えて貯鉱場(約320m)まで運ばれてきた鉱石は“ビン”(索道の折り返し場、兼バケット(ゴンドラ)積載鉱石の卸場)を通ってホッパーへ集積されます。

 1963(昭和38)年に撮影された記録写真では、索道は井桁で組まれた上部の建物に直接引き込まれており、ビンは建物の中に造られていたようです。
  (1963年当時、C の空中ベルトコンベアー?は存在していません)

 また、建物から手前(三峰口駅寄り)の垂直擁壁部については1964(昭和39)年頃に増築されています。



 1971(昭和46)年1月現在、15t積みトムを62両、17t積みのトラを115両、合計177両の2軸無蓋車を有しており(鉄道ピクトリアル No.252)、これらの貨車をホッパー下の定位置に移動し、シュートより鉱石を落下させ積み込みをおこなっていました。

 場内に機回り線はあったものの、無蓋車への積み込み易さを優先してシュートを低位置に設置しており、建築限界を超えた構造となっていたために、当然のことながら架線はシュート部分には張ることができず、三峰口駅寄りの井桁組み部分で断たれていました。
 したがって電気機関車が機回り線を使って入換え作業することはできず、貨車は三峰口構内から電気機関車が推進で押し込んでいたはずです。背の低い内燃動車存在の可能性は否定できませんが、DLが存在したという記録は見つけることができていません。


 三峰口駅の1970(昭和45)年の貨物取扱量は鉱産物・木材など発送量が235,200トン、到着量は1,760トンだったそうです。(埼玉大百科事典(埼玉新聞社))
 
 近年の秩父鉄道の鉄道事業貨物輸送トン数は、
  2006(平成18)年3月期 2,705,407t
  2007(平成19)年3月期 2,513,494t
  2008(平成20)年3月期 2,307,708t
  2009(平成21)年3月期 2,043,235t
  2010(平成22)年3月期 1,705,824t (有報) と減少傾向にあるものの、それでも最近の貨物列車の運行状況や頻度を考えてみると、三峰口駅だけの取扱いが235,200t というのは、それなりのボリュームであったように想像できます。

 このホッパーがいつ廃止になったのか、正確な年月は調査できていませんが、索道が1974(昭和49)年より撤去されたということから、鉄鉱石採掘中止の1973(昭和48)年9月あたりではないかと思います。


 終端部は藪に隠れ撮影不能でした。
 雨天のなか草木の雫にも濡れながら、ポイント前端部あたりまで入り込み振り向いて撮影しました。
 昔の記録写真をみると、ポイント前端部から終端部までの距離(引上線の有効長)はトラ2両が目一杯で、終端部に車止標識 もなく、朽ちた枕木が置かれていたのみで、すぐに山の斜面が迫っていました。



 当時撮影した三峰口ホッパーの写真はこれで全てです。

 広角レンズ不所持のために建物の全体像を紹介できていません。ご覧くださった皆様には「もやもや感」が残っていることと思います。
 「トワイライトゾーン MANUAL 9」では(同誌No.13のP.5でも)白川橋上からの全体写真など、記事とともに紹介されています。











このページの参考資料
  鉄道ピクトリアル  No.250 252 661
  RM POCKET    トワイライトゾーン MANUAL 5 7 9 10 12 13 14
  吉田町誌
  荒川村誌
  日本近代の架空索道 斉藤達男
  村の記録U 村の生活とくらし 荒川村
  秩父の歴史 (郷土出版社)
  秩父鉄道の100年 (郷土出版社)
  埼玉大百科事典 (埼玉新聞社)
  秩父の電気今昔物語 (東京電力 埼玉支店 秩父営業所)
  山と高原地図 「奥秩父1 雲取山 両神山 昭和56年4月」 (昭文社)



お ま け(2011/03/06追加)

白川橋上より両サイドを俯瞰撮影。
左 : 三峰口駅方(2010(平成22)年7月3日 盛夏)  右 : ホッパー方(2011(平成23)年3月5日 春寒)

ホッパー方の線路は盛夏には草に埋もれていましたが、春寒は冬枯れで顔を出していました。
どちらの雰囲気が好きですか?


お ま け-2 (2012/12/31追加)

元国鉄101系電車  クハ101-80 + モハ101-236 + クモハ100-174
無粋な“転落防止幌”非装備、妻窓もオリジナル 今は無き1009編成


直線区間を爆走する、元国鉄101系電車 クモハ100-133 + モハ101-118 + クハ101-62 118の屋根には7連のグローブ型ベンチレーターが並ぶ

秩父鉄道 1000系 元 国鉄101系 各編成
最盛期には3輌 1組を1編成として総計12編成(36輌)運用されていましたが、残り3編成(9輌)となった(2012/12/31現在)


103系(低運転台車)は101系と比べて運転席前面窓の縦幅が狭く、見分けることは容易


1980年代半ばくらいの埼京線(赤羽線)赤羽〜十条間(環七の跨線橋と赤羽駅間)、低窓103系8両編成、中程の数輌は冷房未装備
新幹線高架橋・マンション、コンクリート建造物を背景にして線路の手前は昭和終盤でも充分レトロだった長屋(国鉄官舎)が広がる、
線路を挟んで時間の流れが異なっているかのようだ、現在は小奇麗な北区立の公園となっている



お ま け-3
 最後まで残った3編成、即ち京浜東北色の1001F、中央快速(大阪環状)色の1003F、オリジナル色1010Fも、 “当年度末までに3編成すべて引退予定” と、2013(平成25)年6月10日付けで発表されました。
 国鉄で生まれ、50年以上にも亘って走り続けた101系電車も 最後の1編成が運用を解かれた時をもって終焉となります。
 秩父鉄道では引退イベントとして、1001編成 & 1003編成による貸切臨時列車を2013(平成25)年8月17日(土)と同月31日(土)の両日、「熊谷〜三峰口」間で運転しました。

 秩父鉄道においては入線以来、3両1組・1編成を運用の基本とし、101系同士の連結運転(6両)はあまり実績がありません。今回の国鉄色同士の連結は101系電車の最後を飾るにふさわしい、ビックイベントとなりました。 


両日のイベント電車を中心として、ダイヤ風に引いてみました。
(途中駅の通過時刻は凡そです、イメージとしてご認識ください)

 赤のラインが両日のイベント電車
 (往路、熊谷9:24→武州原谷臨時停車→秩父30分弱停車→三峰口11:19 (熊谷方)1003編成+1001編成(三峰口方))
 (復路、三峰口13:30→熊谷15:10 (熊谷方)1001編成+1003編成(三峰口方))

 青のラインは定期急行電車(秩父路3号、8号)
 黒のラインはSLパレオエクスプレス
 細いラインは定期普通電車 

 往路のダイヤは秩父駅で30分間停車する設定となったため、後続の急行電車もしくは普通電車を利用することで撮影チャンスが2度ありました。 (武州原谷での約3分間の臨時停車など途中駅の運転停車を活用すれば3度叶いました)



今回イベントの極み。
もう二度と見ることの出来ない、元国鉄101系電車・国鉄色同士の連結。










1001F + 1003F 6連



秩父鉄道1000系・1001F 元国鉄101系電車 ブルー
秩父鉄道1000系・1001編成。 元国鉄101系、“ クハ101-58 + モハ101-100 +クモハ100-117 ” 京浜東北線色。 
残り3編成のうち、一番最初に運用離脱する見込み。
京浜東北線は103系電車を主体として運用していましたが、一時期101系電車も数編成がスカイブルーに塗装されて運用についていました。
 
秩父鉄道1000系・1003F 元国鉄101系電車 オレンジ
秩父鉄道1000系・1003編成。 元国鉄101系電車、“ クハ101-62 + モハ101-118 + クモハ100-133” 中央快速線色。 
残り3編成のうち、1010編成とともに最後まで運用される見通し。オレンジ色の101系は首都圏では青梅線、武蔵野線でも運用されていました。


元国鉄モハ101。屋根には7連のグローブ型ベンチレーターが新製時からの状態で並ぶ。
エコカー、リニアモーターカー、ボーイング787の時代にあって非冷房車。
2013/08/31撮影、当日熊谷での最高気温は35.3℃、窓を開けて走行。
国鉄時代は2枚の窓とも上方側部に収納可能で、全開することが叶いましたが、後年安全上の理由からストッパーが付けられ制限されたようです。
動態保存車ならいざ知らず、“褻”の通勤電車で隣の客から文句を言われることなく、盛夏に窓から風を受けて走る車輌はとても貴重でした。











もうひとつ お ま け

似たような写真発見
    101系電車の気動車版 関東鉄道キハ101(元国鉄キハ30-55)とキハ35-19(元国鉄キハ35-163)

関東鉄道については「筑波鉄道」の「キハ301 その後」のページに “おまけ” として特集しています。


さらにもうひとつ お ま け

もうひとつ似たような写真発見
    101系電車の気動車版 関東鉄道キハ35-18(元国鉄キハ36-17)とキハ35-21(元国鉄キハ35-170)



2013(平成25)年10月12日 1001F(1001編成)運用終了。


さらにもうひとつ お ま け-2
 2013/10/12(土)、「さよなら1001号引退記念イベント」で三峰口駅構内に並んだ、スカイブルー1001F、秩父色1010F、オレンジ1003F
 1枚だけ貼っても “ありきたり” なので、 賑やかにしてみました。


これでもかおまけ

関東鉄道の3色揃い組み。


 前回の6連、即ち8/17&8/31の 1001F + 1003F は着席定員制のツアー列車として運行されましたが、今回(10/12)の 1001F + 1010F 6連は事前予約の要らない単なる臨時列車として、誰でも普通乗車券のみで乗車出来ました。
 三峰口駅構内で行われた、特製ヘッドマーク掲出の1000系電車展示会についても、前回がツアー客限定であったものが、今回は臨時列車乗車の際配布された「乗車記念証」を提示することで11:45〜12:20までの35分間、構内に設けられた「特設撮影スペース」に入場することが叶いました。



勿論好き好きですが、停車中の電車は “どアップ” の撮影よりも、背景や施設を一緒に撮ったほうが後々の印象には残る気がします。

 旧国鉄・京浜東北色101系電車の引退イベント、“1001号 さよなら運転” (往路3005列車)のスジは、8/17・31の6連臨時貸切列車と同様でした。
 往路 ⇒ 熊谷 9:24 → 武川 (1518レ交換) → 寄居 43-52 → 波久礼 (1520レ交換) → 樋口 → 長瀞 10:05-14 → 上長瀞(54レ交換) → 親鼻(22レ交換) → 武州原谷 → 秩父 33-11:02(1003レ・1517レ接続追越、1524レ・1526レ交換)→ 影森(1528レ交換) → 三峰口 11:19
 復路 ⇒ 三峰口 13:30 → 秩父 14:00 → 長瀞 14:17 → 寄居 14:41 → 熊谷 15:10
 当日は若干のダイヤ乱れが生じていたようで、往路・復路ともに数分程度の影響があったようです。

 熊谷〜三峰口〜熊谷を Last Run したスカイブルー1001編成は熊谷駅構内の留置線に移動、その後広瀬川原車両基地まで回送され廃車されました。


1000系 サンプル動画
現在、試行錯誤して編集中。
そのうち1001Fと1003Fを中心に、別ページで10本前後アップしたいと思っています。


2010/07/18 仮公開
2010/10/25 完結

2011/03/06 「おまけ」 追加
2011/08/28 「転轍てこ」の写真追加
2012/12/31 「おまけ-2」 追加
2013/09/02 「おまけ-3」、「もうひとつ おまけ」 追加
2013/09/09 「おまけ-3」一部写真差し替え、文章追加
2013/09/23 「奥秩父概念図」差し替え、文章追加
2013/10/13 「さらにもうひとつおまけ」 追加
2013/11/24 「さらにもうひとつおまけ-2」 追加
2014/03/30 「1000系 動画」 追加
2014/06/26 「これでもかのおまけ」追加