廃車輌 (車籍の有無ではなく、廃車然とした車輌といった括りです)
蒸気機関車、客車、元ディーゼルカー、貨車、朽ち果て“台ワク”だけになった元客車、レールから外され倉庫と化した貨車・・・。
加世田車庫には夥しい数の廃車輌が留置してありました。 閉ざされた車庫もありすべてを見たわけではありませんが、写したすべてを公開します。
『★』のついた写真は第1回目の訪問(1980(昭和55)年3月)、廃止4年前の撮影です。
ドイツ、 HANOMAG 社(※1)製造の機関車です。
開業に先立ち1913(大正2)年6月に輸入された同形式3両のうちのトップナンバーです。
南薩鉄道敷設工事にも参加し、無煙化された1963(昭和38)年3月5日まで在籍(※2)した由緒正しい機関車です。
どうしてドイツ製を輸入したのか?
日本における蒸気機関車製造は輸入蒸気機関車の模倣から始まり、1893(明治26)年6月に完成した860型が本格的な国産1号蒸気機関車とされています。
南薩鉄道が輸入した1913(大正2)年前後は国内生産技術も向上し、貨物用大型機関車9600型、急行旅客列車用機関車8620型の量産が開始された時期にあたります。
しかし、全国で鉄道路線建設が進むなか(※3)、幹線用の大型・高速機関車の生産が最優先とされ、中小私鉄向けの優秀な小型機関車の国内調達は難しかったのではないでしょうか。また価格や性能面、ドイツ式で創業した九州鉄道の実績なども勘案され、ドイツ製の機関車が選択されたのかもしれません。
※1 HANOMAG は正式社名を縮めた略称 通称ではハノーバー、ハンノーバーと呼ばれることが多い
※2 1号機、2号機が在籍 3号機は1955(昭和30)年1月19日廃車 のち屑鉄売却
※3 1913(大正2)年 東海道線複線化完成、北陸線米原〜直江津全通、川内線串木野〜鹿児島開業など
5号機関車です。
加世田〜枕崎間延長に際して1930(昭和 5)年10月に “汽車製造会社” で新製された機関車です。撮影時、煙突前と運転室の屋根上にあったライトは取り外されていました。
廃車は1963(昭和38)2月とされていますが、1号・2号機と比べて痛みが激しく、相当以前から稼動していなかったようです。
鉄道廃止後、保存されることなく解体されました。
KTM カツミ(当時 カツミ模型店)の自由形Cタンク機関車のモデルとして知られた機関車でもあります。
5号機関車のうしろ姿。
背後のクラは加世田デーゼル動車修理工場。
C12型タイプ13号機です。
サビ止め塗装が経年劣化するとこのような色合いになるのか、20年雨ざらしすればこんな風合にになるのか分かりませんが、模型化にあたってこの“風化枯れ色”の表現は相当な技術が要りそうです。
C12は「主要でない連絡線または地方線」をさらに下回る“簡易線”や“近距離の客車・貨物牽引”を意識したタンク式機関車です。
1932(昭和7)年から1947(昭和22)年まで通し番号で293番まで製造されました。このほかに最後まで私有機として生涯を終えたC12タイプの機関車は19両(※)製造されています。
※ 島原5、南薩3、日本窒素2、日本鉱業遠賀2、大井川・定山渓・常総・片山・土佐・三菱鉱業・樺太人造石油 各1 合計19両 (台湾
7両、インドネシア向け同規格7両を除く)
南薩鉄道には3両のC12タイプが在籍していました。
3両のうち最初に入線した12号機は、戦中(1944(昭和19)年2月)に製造された、“戦時設計”機関車で(従来の性能は維持しつつも、材料節約・工期短縮などを優先し、耐久性は二の次とした設計)蒸気ドームと砂箱の形状が角型でした。曲線ドームは打ち出してアールをつけるのか、ホって形成するのかは不明ですが、曲線加工に要する手間が無駄だと判断されたのでしょうね。
C11形式では247号機以降、多数の角型ドーム機関車が存在(東京、新橋駅前のC11-292など)していますが、C12形式の293両とC12タイプの私有機のなかでは12号機が唯一だったそうです。
幸いなことに12号機は加世田運動公園で保管されています。(2010年5月現在)
写真はC12型タイプ14号機。
“支線”向けのC11型機関車を、“簡易線”(※)を意識してさらに小さく設計したC12型機関車ではありましたが、運転整備重量は約50トンと、南薩鉄道の古株機関車のおおよそ2倍の重量があり、現場では「大型」と呼ばれていました。
伊集院〜加世田間に比べて、線路規格の低かった、万世線、知覧線への入線はなかった(※)ようです。
(※) 1929(昭和4)年の線路等級では“簡易線”としてレールの重さを30Kg/1mと定めていますが、1952(昭和27)年当時30Kgレールを敷いていた区間は伊集院〜加世田間のみでした。しかしその後、加世田〜枕崎間ではレール交換が進み、蒸気機関車終焉の1961(昭和36)年頃にはC12タイプの同区間への入線実績があったようです。
南薩鉄道に在籍した全蒸気機関車リストです。
訪問時に残っていた機関車は(- - - > 印の)1・2・4・5・12・13・14の7両で、このうち○と●は写真で紹介した機関車です。
1983(昭和58)年当時、1・2号と4号機関車は一番大きな機関車車庫内に、12号機は枕崎寄りの客車庫(検車庫)に納められていました。廃車輌とはいえ程度の良い機関車は屋根の下で大切に保管していたのでしょう。この4両はすべて現存しています。(2010年5月現在)
屋外に出ていたため写真に収めることのできた●印の3両は鉄道廃止とともに解体処分されています。
“テフ25”だそうです。
「テ」? 「スハフ」とか「オハ二」なら記号の意味も分かりますが、「マイテ」のテではないですね。
一般的には「ワブ」とか「ワフ」(※)と呼ばれていた有蓋緩急車です。
南薩鉄道ではこの車に貨物を積まず“荷物”に限定したため、「手荷物緩急車」すなわち「テフ」と命名したようです。
貨物列車などの最後尾に連結され、手荷物を扱うと同時に、貫通ブレーキ装備前は機関車と同調して乗務員がブレーキ操作をおこなったりする車輌でした。
小窓が4っもあり、外付けの側面引き戸ではないので、お役ご免になった客車を貨車に再利用したようにも見えるのですが、どうでしょう? 因みに「レイルNo.25」によれば1882(明治15)年7月製造だそうです。
客車(写真右)と床面高さが同等なので、荷物用扉にもホームとの段差を緩衝するために、外付け固定式ステップが扉幅にあわせて装備されています。南薩鉄道では緩急車の貨物扉のステップ装備は標準だったようです。 ホームの高さが上がった近年では、鋼製は勿論のこと、木造の“ワフ”でもあまり見かけなかった装備です。
残念ながら解体処分されたようです。
「ようです・そうです」ばかりですみません
(※)ワ→WAGON、ブ→BRAKE⇒ 緩急車(車掌室に手ブレーキと車掌弁を併せ持つ貨車
1911(明治44)年“フ”に変更)
「ハフ53」 所謂、燐寸箱(マッチばこ※)と呼ばれる2軸客車です。
1872(明治)5年の営業鉄道創業にあたって、準備された客車58両はすべて英国からの輸入でした。完成品としてではなく、台枠の鋼材、走り装置、車体客室部などに分けて船積みされ日本に到着後、高給の英国人技師の指導の下、専用の作業場で組立てていました。
ゼロからの出発で、すべて指導を受ける立場でしたが、木造客室部分は豊かな森林資源に培われた木工技術・木造建築文化を有する日本にとって、先ず模倣し、次に風土に合った創作をすることは容易でした。
創業より3年後には神戸工場で、また6年後には新橋工場で客室部分の国産化が開始されます。しかしながら機関車や客車下回り(走り装置部分と台枠の主鋼材など)の製造は技術的理由により1900年(明治30年台半ば)に入るまで待たねばなりませんでした。
※ 「停車場はすぐ知れた。切符もわけなく買った。乗り込んでみるとマッチ箱のような汽車だ。ごろごろと五分ばかり動いたと思ったら、もう降りなければならない。道理で切符が安いと思った。たった三銭である。」(坊ちゃん 夏目漱石 角川文庫)
漱石29歳、1895(明治28)年、愛媛松山中学赴任時を写実したのであれば、当時の伊予鉄道の軌間は762mm、もっと小さな客車だったのだろう。
下津井電鉄 ホト8。創業時からの連環連結器装着の貨車。 ホト1と組んでレール運搬などに使用。
1981(昭和56)年3月撮影。同連結器を備えたモハ1001が牽引したようです。
ホハ二59。(手前)
枕崎延長に際して南薩鉄道が発注したボギー客車4両のうちの1両です。鉄道省のナハ12500型に類似する省型木製客車として1929(昭和4)年10月、日本車輌製造にて新製されました。手ブレーキを装備し、便所・洗面所の設備を持つ旅客専用客車ホハフ59として蒸気時代の旅客輸送を担います。
戦後に300型気動車3両が増備され、合計9両のディーゼルカーによる旅客輸送体制となった翌年の1955(昭和30)年には半室手荷物車ホハ二59に改造されます。
貫通ブレーキの付加改造を受け貨客混合列車としてディーゼルカーの旅客輸送を補佐するように、本線や知覧線・万世線で運用されます。
貨物営業を廃止する1年半ほど前の1969(昭和44)年12月12日に廃止届けが出されていますが、1965(昭和40)年以前に混合列車が廃止されてからは、ほぼ運用はなかったものと想像(※)されます。
廃車後は阿多駅の側線などにも置かれましたが、写真の加世田駅旧貨物ホームの側線で廃止間際まで留置されていました。
(※) 知覧線の混合列車が廃止された1963年2月頃からは、定期運用はなかったものと思われますが、1964年に踏切事故で大破したホユニ67の後釜に据えたホハニ62(元は枕崎延長に際して南薩鉄道が発注したボギー客車4両のうちの1両)が二代目ホユニ67として改造・運用されるまでの期間はホユニ66の予備車として充てられていたため、若干の運用はあったかもしれません。
ホユニ66。
鹿本鉄道(熊本県 現廃線)の2等・3等合造車ホロハ1として、1923(大正12)年12月の全通にあわせて岡部鉄工所で製造されました。1928(昭和3)年8月に2等車を廃し全3等車輌ホハ1に改めて運用されますが、旅客の乗合自動車への流失著しい同線では貨物輸送を主体とする建て直し策の一環として、陸軍の演習見物輸送のため1935(昭和10)年8月頃より南薩鉄道に借し出されていた同車とホハ2の2両を、翌1936(昭和11)年5月に8千円で売却します。南薩鉄道では入籍に際し、2両とも半室郵便手荷物車ホハユテフ66・67として改造します。
9年後の1945(昭和20)年には手荷物室を廃しホハユフ車に、さらにディーゼルカーを主体とする旅客輸送体制となった1955(昭和30)年には客室を廃して荷物室を再設し、1971(昭和46)4月1日の貨物営業廃止まで郵便業務兼荷物車ホユニ66・67として貨物列車などに併結して運用されました。
ただし、ホユニ67(元鹿本鉄道 ホロハ2(ホハ2))は1964(昭和39)年に踏切事故で使用不能となったため、混合列車廃止により運用のなくなったホハニ62の客室部を撤去し従来の荷物室を拡大、郵便室も新設して郵便業務兼荷物専用車に改造しホユニ67の代替車として運用します。番号は元車の62を使わず、事故車輌の67を名乗らせたため、車輌は別ものながら、ホユニ67の車番は継承されました。
加世田で最後まで留置されていた半室荷物車・郵便荷物合造車・普通客車を国鉄末期に撮影した同用途の車輌と比較してみました。
ホハニ59を中心に、鋼製・木製、有蓋車・無蓋車たち。 3年前に留置してあったh-Oのホハフ68は処分されています。
無蓋車のバラエティー。
鉄道ピクトリアル No.173 谷口 良忠氏の「鹿児島交通・南薩鉄道」によれば、1965(昭和40)年5月1日現在で在籍していたFC(Freight
Car 貨車)は
・エ4(救援車 元キハ4)
・ワ71、72(木造有蓋車)
・ワム100、101,102(半鋼製有蓋車)
・ト3、5、12,13,14,15(無蓋車)
の12両となっています。
1980年と1983年に撮影した写真の貨車が、上記12両のいずれかに該当する前提(1965年当時、既に車籍のなかった貨車が写真に写っていないものとして)で以下、記します。
うしろの木製有蓋車はワ71・72。
ワ71・ 72のいずれかと思われます。
明治時代に各鉄道会社の規格で製造され地域で活躍しますが、鉄道の一元管理を目的とした買収・国有化推進の結果、構造・寸法・積みトン数の異なる有蓋車が省内に混在することとなり、規格統一のための「車輌規格の標準化」改造工事、また伸張続く貨物量に対応するため「増トン」改造工事が実施され、ワ1形式として定められます。
10トン積みの小型貨車ではありましたが、貨車の絶対数が足りなかった戦中はもとより、戦前も雑多な積荷にあわせて適所で利用されました。
戦後の貨物需要に運輸省(※)は貨車の新製・増備をもって対応するとともに、私鉄には小型車を払い下げることで全国レペルの輸送体制確保を目指します。
南薩鉄道にも貨車不足を埋めるべく、1948(昭和23)年4月15日付けで34両払い下げられたワ1形式のうちの2両です。RM-109によれば、旧番号は71が6903、72は2677番だそうです。
(※)1943(昭和18)年11月以前は鉄道省、1949(昭和24)6月1日から日本国有鉄道(国鉄)
シュー式の担いばね。 松葉スポーク車輪。 バッファー取付跡。
1両欠けますが、枕崎駅本屋の加世田方にダルマの状態で置かれていた車のようです。
全鉄製有蓋車 “テ”形式。
鉄道省から戦前の1938〜40(昭和13〜15)年にかけて払い下げを受けた車輌。 南薩鉄道入籍後はテ1形式6両をテ1・2・3・4・5・6、テ600形式2両をテ10・11と付番しています。
可燃性のある液体や、水との化学反応で発熱する危険のある生石灰などを運搬するために、車体は側面・屋根ともすべて鋼鉄材が用いられ、室内面も木材の使用はありません。
また、戸覆が一般有蓋車より下がっているなど、より強固な水密構造となっています。
南薩鉄道では有蓋車74両、無蓋車39延べ113両の貨車を所有していました。このうち39両は南薩鉄道が新製し、6両が薩南中央鉄道との合併により、残り68両は鉄道省や運輸省からの払い下げによるものでした。(ピクトリアル No.173)
払い下げは、戦後に旧型の一般形式車を中心に実施されています。しかし、テ形式の8両だけは開戦直前の1938〜40(昭和13〜15)年にかけて、全鋼製・水密という特別仕様(ハイ・グレード)の車輌でありながら、沿線にセメント関連生産施設の無い南薩鉄道に(※1)対して実施されています。もちろん余剰貨車処分などではなく、何某かの特別な理由があったはずです。
これは、1941(昭和16)年に完成した陸軍知覧飛行場(初期の名称:大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所)との関連が推測できそうです。
そもそも、“テ”即ち「鉄製」以前の標記記号は、1911(明治44)年の改番で油槽車(タンク車)に譲るまで(※2)、「油」の“ア”が付されていました。新製当初の全鋼製有蓋車の用途は缶に小分けした油類などの運搬だったのです。
つまり、
@ 薩南中央鉄道の知覧駅と直線で約1.3km離れた県茶業試験場跡地に建設された飛行場とは線路がつながっておらず、知覧駅で飛行機用燃料のトラック等への積み替えが必要であったために、荷姿を変えることなく積み卸しができる形式の貨車が望まれた。
A 飛行場建設に必要なセメント類の運搬にも適っていた。
B 有蓋車ゆえ積荷の秘匿が容易で、また運搬状況や回数から飛行機燃料の使用量、貯蔵量などを推測され難くするメリットもあった。
全鋼製有蓋車“テ”形式は、軍の意向で3年間に亘って順次払い下げられ、燃料を含む軍事物資の輸送に充てられた、との結論(※3)に至りましたが、どうてしょう?
終戦直前に建設された万世飛行場への物資、燃料輸送にも使用されたと思われます。
※1 薩南中央鉄道が南薩鉄道に戦時陸運統制令により吸収合併されるのは1943(昭和18)年4月22日。
当局から払い下げを受けられなかった薩南中央鉄道の将来は、この時点で定まっていたのかもしれません。
※2 タンク車の標記記号の変遷 油槽の“ユソ”→ 油の“ア”→ タンクの“タ”
※3 ただし、極めて引火性が強く、かつ揮発性の高い飛行機用燃料のガソリンを、法規上有蓋車で運搬することが可能だったかは若干の疑問があります。(戦争中はなんでもアリ?)
知覧駅と町中心部、知覧飛行場との位置をイメージにしてみました。(おおまかです)
道路については昭和49年当時を描いています。
駅は町が出来てから造られたために、南のはずれに位置しています。
飛行場の諸施設までは駅から直線で1.3km、高低差で約40mの高台にあったために勾配は30.1‰となります。南薩鉄道本線の最急勾配が25‰だったことを考えると、最低でも1,600m以上の距離が必要となります。
“つ”の字を描くようにして里山の中を敷設すれば、家・屋敷への影響も少なくうまく収まるように思われますが、つまるところ費用対効果で価値がないと判断されたのか、施設の存在を隠したかったのかは分かりませんが、線路は引き込まれませんでした。
仮に線路がつながっていればタンク車による飛行機燃料輸送ができたはずですが、貨物ホームでの積み替え効率や安全性、施設での分散貯蔵などから、ドラム缶などの荷姿により有蓋車で運搬することを選択したようです。
(“二軸客車の台車”と呼びたいところですが、ボギー台車を含む広義の“走り装置”が名称としては正式だそうです)
左がエ4(旧キハ)、右は近代的な黒貨車(有蓋車)の走り装置(2段リンク式)です。(右タイプの旧式(シュー、1段リンク)は本ページh-C,J,K,Uにもあります)
貨車の2段リンク式走り装置は、「重ね板ばね」と「リンク」で衝撃や動揺を吸収しています。片や、エ4(旧キハ)の走り装置は、軸箱上に小振りであるものの「重ね板ばね」が付いているところは同様ですが、「重ね板ばね」と「台枠」との間に「コイルばね」による緩衝を設けているところが異なります。また軸箱横の台枠から車体裾に、前後左右の動揺緩衝や蛇行防止のためと思われる、支柱(丸棒)が2本取り付けられています。
上下方向の衝撃緩衝のイメージはこちらから。
このページの追加参考資料
鉄道ピクトリアル
No.129 131 159 213 308 580 785
鉄道ジャーナル No.137
Rail
Magazine No.22 24 55 149
RM POCKET トワイライトゾーン MANUAL
11
内燃動車発達史 湯口
徹
日本の鉄道100ものがたり おのつよし
ほか
2010/03/26 仮公開
2010/11/10 完結